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トップ > 軍用銃 > 信号銃と索投擲銃
信号銃
信号銃は信号弾、照明弾などを発射する拳銃型の機構を持つ信号用具である。構造的には発射に装薬を使うため、撃針は有するが口径の大きさ、それに対しての銃身の薄さ、及び銃身の留め具の強度などから、散弾をはじめいかなる金属製の弾丸は発射出来ず、現在の銃砲等取締法の「銃砲」の範疇に入るものでない。また通常兵器のように多量の強い発射装薬を使用しない為に、機構は簡単で、撃鉄も強いものではない。日本の信号銃を他の国のものに比較した場合、陸海軍で仕様・口径が違う。特に海軍は銃の種類が多く二連、三連のものがある。信号弾の種類も多い、綿密な仕上げがなされているなどの特色があると言える。二連・三連の信号銃を使用したのはドイツと日本のみと言われている。海軍に種類が多いのは、艦船・航空機間通信に信号銃が多く使われたからであろう。信号銃が重要性を帯びてきたのは、陸海軍と もに航空機の運用が多くなってきてで、無線機の使用が制限された前線での航空機の離発着に、地上からの信号銃使用は操縦士が 風向きを判断出来る要素もあり、重要な存在であった。 最初に述べておくが、日本の信号銃は現在も多くが残されているにも関わらず、その運用に関しては今回の調査でも分からないことが沢山存在している。例えば「攻撃中止せよ」このようなことを伝えたい場合、何色のどんな信号を上げれば理解されたの か、このような事実は残念ながら見付けることが出来なかった。有名な真珠湾攻撃の「我奇襲に成功せりートラトラトラ」の信号は機上から発射された一発の黒色の信号であった。これは何を根拠にこの色と発数を選んだのであろうか。
 
陸軍十年式信号銃

諸元
口径 35mm
全長 250mm
銃身長 120mm
高さ 170mm
重量 1250g
弾数 単発
製造 東京・小倉工廠
製造数 8500挺
陸軍が採用して信号銃はこの一種で、他のものは見られない。十年式は大正10年(1921)に制定となり、工廠の記録によれば、東京工廠・小倉工廠で昭和20年(1945)までの約四分の一世紀にわたり8500挺が製造された。太平洋の戦争が始まるまでに生産されたものは仕上げが素晴らしく、特にその錆び付けは高度なものである。 口径が35mm・銃身長が120mmもある大型のもので、大きな薬夾が挿入される。 単発、ダブルアクション方式で、外観、造り、仕上げなど二十六年式拳銃の雰囲気をうまく踏襲している。太い銃身は二段になっ ており、削り出しで工作されている。中折れ式で、撃鉄の前にある突起を親指で押し下げると銃身が前方に折れ、後部が開き、信号弾を挿入出来る。真鍮製信号弾ケースの全長は銃身長と同じ長さであり、装填された信号弾は銃口まできている。引き鉄を絞っていくと、縦長角張った撃鉄が上がり、上で落ちると撃針が信号弾の真ん中の雷管を打つ。真鍮製の薬夾内・底部の火薬(黒色火薬と想定する)がケース内の紙筒を空中に投擲する。
 
十年式用の信号弾
それらには龍(黄、黒)、吊り星(赤、白、緑)、流星(赤一星、同三星、白一星、同三星、緑一星、同三星)等の種類があっ た。 35mm信号弾は真鍮製の厚いしっかりしたケースに装填されており、このケースは多分何回か再使用されたものであろう。ケースの長さ120mm、縁径38mm、重量100g。底部には、信号の内容がくっきりと刻まれており、10種以上もある信号内容を示している。雷管は12番ゲージ散弾銃に使用するようなものでケースの大きさに比較すると大変小さく見える。
底部の上半分に大きく「色」が、下半分に右から「種類」が記されている。吊り星の場合、上半分の縁に20個の刻みが細かく入れられて、手探りでもこれが識別出来るようになっていた。また星の数は上部の長い線でも印されている。これらの刻みのくっきりした 文字と印の目的は、暗闇の夜など、視認出来ない状況の際を想定し、射手には指先でその内容を触別させるためのものであり、その触別訓練も実施していたに違いない。
「龍」は昼間の信号に使うもので、薬夾、発煙筒及び吊り傘より構成されていた。図面によると全長12cmのうち、底部1cm強に装薬(これは黒色火薬か)があり、引き金を引くことで撃針が薬夾の底の雷管を撃ち発火させる。この力で内部の紙製の 筒が発射される。同時に紙筒の内部の導火策を通し3-6秒後に発煙剤に着火する。この時間は発煙筒が上空に達する時間であり、着火の直前に発煙剤の入っている部分が内部の小粒薬により、さらに押し出され、傘(パラシュート)が開き、煙を出しなが ら上空から降りてくる仕組みとなっている。 傘は5cm程度の長さ上の部分を占め、傘本体は雁皮紙(丈夫な和紙)で4本の張り糸で構成されていた。
「吊り星」は発光源があり昼間の使用に加えて特に夜間に使用した。「薬夾、光剤筒、吊傘等より構成され薬剤及び標識を異にするの外構造及び機能は類似し、薬夾底面には『ローレット』を施し、夜暗に於ける弾種の判別を容易ならしめる。吊り星は夜間ま たは昼間に於ける信号に用る。」とある。 これによると龍と吊り星は、吊り星には発光源があり、異なる薬剤で異なる色を発色する以外構造は同じと考えてよい。吊り星の白がマグネシュームなどを発光源として照明効果があったと推定される。 さらに「流星」は発射されると、光剤の入った紙筒が拠出して点火され、続いて光剤を紙筒の外に拠出し、この際に光剤は炸薬の火炎により点火し燃焼しながら発光する仕掛けである。従って外に出された光剤が後を引いて、見易くなる。燃焼の間隔を付けた数で、一星、二星、三星とした。夜間と昼間の信号に使用した。 これらの仕掛けの全てはすでに江戸時代に庶民の楽しみであった花火に元を発しており、花火は戦う仕事が無くなった「砲術家」 の作品に負うところが大きかった事実と合わせてみると興味深い。信号銃で発射するものの他に、照明弾には航空機から投下するもの、信号弾には地上に固定して使うものが存在した。十年式、八九式擲弾筒からも信号弾、照明弾は発射した。海軍の28mm信号弾も陸軍35mmと同じような仕組みと種類であった。

航空機が作戦中に管理されてない滑走路などに着陸を試みる際に、一番重要な要素は風の方向である。操縦士は風向きを判断し風に正対し、着陸及び離陸を実施せねばならない。操縦士は風をみるために、地上の煙、旗・吹流し、木々や草のなびいている様子、水面の波を観察したという。ちなみに管理されている滑走路には、吹流し、T型の方向板がおかれていた。このような際にも航空機に信号銃が装備されていたら地上に向かって煙を発するものを発射し、風向きを正しく判断出来た。 管理されていた飛行場では航空機に、無線機で連絡出来ない際も、飛行場から航空機に「着陸可」「着陸不可」「敵機に注意」な どの指示を信号弾で行った。 しかし陸軍の十年式は大型機は別として小型機の操縦者に装備されたとは思わない。機内で操作するには大型過ぎる。(どの指示・内容に具体的に何色を使うとかの取り決めやそれらの連絡はどのように実施されていたか、これらの内容はこれから の研究課題の一つである。)
 
十年式収容嚢
十年式収容嚢のデザインは基本的には一種類でその素材が変化した。大きな蓋が被っており、蓋に隠れるようにネジ回しが入る。素材は昭和18年くらいまでは一貫して厚い上質の牛革であったが、その後、布と革及び本体表面は布に初期のビニールコーティ ングしたような布で構成されている。このコーティングされた布は石炭系素材と思われるが防水効果があり、今でも変質してない。この例は「昭十九(小倉)刻印ホ」の文字が蓋裏に見える。明らかに皮革素材の不足の為にこのような素材に変化したと思われ、各部の補強、革帯通し、蓋止め、負い革環の皮も各々異なる素材で構成されている。 さらに戦争後期になると単にキャンバスに皮革の蓋止めと負い紐(もしくは負い革)環止めのものも製造された。ネジ回しは三八式小銃後盒初期型の左横に入るものと同じ形式の柄に両端が大小の刃が収納されるもの。単なる布製のものには入らない。信号弾は18発入り箱形収容嚢と2発入り革帯に装着する収容嚢が存在したと言う。
 
海軍単発信号銃


右から3連、2連、2連式収容嚢、単発
諸元

口径 28mm
全長 215mm
銃身長 105mm
高さ 165mm
重量 7800g
弾数 単発
製造 川口屋
製造数 3500挺(推定)
海軍の28mm信号弾を使用し、1937年(昭和12年)に採用され「九七式」と言われていた。ハーレー・ダービー氏は他の日本製、または外国製のいかなる信号銃に比較しても、最も洗練され、美しく仕上げられた信号銃としているが、ユニークな特徴 ある形状をしている。上部の止め金後部を下に押すと前部の爪が外れて、銃身後部が開く。さらに中折れ式の銃身を押し下げると 撃発状態となる。これは散弾銃によくある機構をそのまま採用している。信号弾を入れ銃身を上に戻すと発射準備完了となる。後部にスライド式の安全装置があり、これを押し下げると引き金が固定される。上に「安」、下に「發」の文字がある。このあたり も川口屋の本業の散弾銃設計からきている。 KFC(川口屋ファイアーアームズカンパニー)の文字が左側に刻印されており、その下に○トと錨の海軍印が刻まれている。KFCは昭和16年以降は漢字の「川口屋」になった。○トは海軍技術本部東京監察局の検印と言われている。製造番号は前部にあり、3300番近いまでの番号が見られるので恐らくこの位の数量が生産されたものと思われる。銃把は胡桃の木製で細かい格子筋が入れられており、南部小型拳銃のそれを思わせる細かい仕事である。銃身下部に排夾装置があり、薬夾の縁を押し出し、それをつまみ出すのが楽なようになっている。 銃身とその台座部分は削りだしで製作され、機関部は左側に蓋があり3本のボルトで本体に止められている。全体に突起は少なく、手袋をしたままでも操作出来るように設計されているが、近代的なデザインでこの形状は現代でも充分に通用する洗練されたものである。白い太さ4mm・長さ65cmの負い紐が付けれている。
 
海軍二連信号銃(萱場整)
諸元
口径 28mm
全長 188mm
銃身長 102mm
高さ 150mm
重量 1180g
弾数 2発
製造 萱場製作所
製造数 10000挺(推定)
三連銃と一緒に、昭和10年(1930)に採用となり「九十式」と言われている。この開発の背景に急拡大しつつあった航空隊があったことは想像出来よう。 この形式の実物は一番多く残されており、珍しさから戦場から多くが持ち帰られたようだ。この銃の特色は銃身の開け方と、撃発状態を作り出す撃鉄の上げ方、左右の撃発の切り替え方と発射の反動を本体上部が後方にスライドすることで受け止める方式などである。撃鉄は銃後上部にあり、梃子の力を使う。反動緩衝型の信号銃は世界でもこの萱場だけではなかろうか。引き鉄が引かれた状態で、銃身・機関部が後ろに発射の反動を受け約10mm後退し、復座バネの力で戻る。簡単ながら優れた機構である。

生産課程で3種の変化があり銃身を開ける柄、銃把の形状・止め方・素材、色付けなどのが変化している。その素材は本体が鋳物製で銃身と台が削り出し鋼であるように見える。 銃身下部に位置する柄を前部に押す、もしくは引っ張ることで銃身を中折れすることが出来る。銃身を開けたところは二連の散弾銃を開けた感じになり、左右の銃身に信号弾を装填する。但し銃身は散弾銃よりはるかに薄く、実際この寸法の散弾を製作してもこれらを発射することは安全上出来ないことは明らかである。 銃身を閉じると固定される。撃発は後部の梃子式の撃鉄を後ろに引っ張るように上げることで掛かる。しかしその下に左右に45度くらい可動する柄があり、右にすると右側が発射出来る。左にすると左の銃身に切り替わる。従って2発の信号弾、多分違う色のものを入れて、その組合せで合図の内容を決めたと思うのだが、両方を連続して発射することになっても、この柄の切り替えが必要になる。この柄にも中期生産以降はストッパーが付けられた。用心鉄は大きく手袋のままの操作を想定してある。この銃はこのユニークな仕組みで特許を獲得しており、確かに珍しいものである。
問題点は仕上げで、初期は各部品も錆び付けされているがその質もあまり高価なものではない。中期以降は本体部分はラッカー仕上げになっており、銃身部分は黒染めされている。 銃把はごく初期のみ木製で、以降はベークライト製になり、さらにその形状が生産時期で微妙に異なる。時代による機能上の変化の大きな点は、銃身を開けるための銃身下部の柄で初期・中期は90度下に出ており、これを前に引っ張りながら銃身を下に押し下げてが、後期は45度角度の曲がったもので銃身と一緒に握りしめて中折れすることが出来る。このために銃身を開けやすくなった。安全装置は本体の左に位置して、親指で操作できる。(九四式拳銃と似ている。) 下に30度下げておくと引き金が固定され、上に水平にすると発射出来る。「安」と「火」の文字が示されている。「火」の字には赤が入れられており細かい。撃ち終わった空薬夾の縁を持ち上げる柄は、初期生産のものは銃身の下部に銃身止めと一体となっているが、中期以降は銃身止めとは独立して上に位置している。初期生産は本体上部も合わせた二連の銃身と同じように真ん中が窪んでいる手間の掛かる工作だったが、中期以降は平らになっ た。 本体左横にPATNO101355と右横に製造ナンバー(殆どが4桁)が入っている。銃身後部上の縁に四輪の萱場の刻印、○トの検査刻 印、錨の海軍刻印、櫻の印、○空の印などが打たれている。
新技術開発のベンチャー「萱場」 萱場は現在の「カヤバ工業」で、萱場四郎氏が1919年創設した「萱場発明研究所」がその創立である。信号銃は同社が初期に 開発した製品の一つである。萱場氏は海軍の要請で、当時進められていた航空母艦建設プロジェクトの重要な部分、「航空機着艦装置」、及び艦艇からの「航空機発射カタパルト」の研究を行っていた。これらの独創的なアイデアが採用になり、次の大きなプロジェクトの間、昭和3年(1928)頃に海軍の要請で、「落下傘着脱金具」と信号銃の開発製造を手がけた。この経緯を見ても、これらの信号銃が航空機運用上必要なものであったことが判断出来る。航空機上からの使用で、「大きな反動を伴わず」と言う条件が付けられていたことも想像に値する。この信号銃の採用は、南部銃製造所、東京瓦斯電気との競合に勝利してであった。 その後信号銃製造課程で工場側と海軍の監督官の間で、ささいな技術上の解釈の違いから議論が発生し、これが大きな問題に発展 し、萱場は危機に陥ったことがあった。しかし大戦終了までに一挺220円の単価で約一千万の売上があったと言う。この計算では4万挺以上製造したことになるが。なお当時のこの単価は小銃2挺分でけして安いものではない。 萱場四郎氏には昭和14年発行の「支那軍はどんな兵器を使っているか」の著作がある。本の紹介には「某大軍需工業の青年社長。幾多の兵器発明者だ。」とある。同氏は一介の技術者として中国戦線を視察し、そこで使われた中国国民政府軍のありとあらゆる新式兵器を調査して、自ら撮影した写真と表を多く活用した優れたレポートである。並大抵でない知識、観察眼、頭脳の持ち主であることが知れる。小火器だけでなく、航空機、車両に憧憬が深く、後に同社が世界で有数の油圧機器、ショックアブソー バーの製造会社として名を成した元があった。彼の言葉「兵器は人を活かし、世を救い、平和を招来することを以て念願とすべき、古く名匠の鍛える利剣と同等である。」 また「近代戦は精神力、兵器、用兵術の三位合体、特に卓越せる新式兵器は戦術を改変し戦略をも支配し得る一国経済軍備の基本 である。」とあり、当時の経済人の意気がみてとれる。  

この形式の信号銃の戦後中国で使われていたものの実物を時に目にすることがある。この形式は元々仕上げは今一つの銃であったが、中国の機械保存に対するのデタラメさを実感出来る。日本の刻印を全て削り落とし、鑢ででこぼこに仕上げてあり、合わないボルトを無理して入れてある。それでいながら中国デザインの蓋を下から止める収納嚢は内側は赤羅紗が張られている。 オリジナル収容嚢は基本的には一つのデザインで平べったい台形の大型のものである。素材の革の仕上げとその負い革の長さで幾 つか種類がある。ワルサー型と言われ、革を黒染めして蓋の留め具が蓋側の革帯を本体の金具に通す止め方である。この帯は長さ約50mmで、蓋には本体の金具に入る四角台座(20X45mm)が4本の鋲で止められている。寸法は横幅210mm、高さ210mm、奥行き70mm、重量は310g。 日本的なデザインでなくむしろヨーロッパ的な雰囲気の珍しいものである。 背部に二つの幅広い革帯通しがあり、負い革は3本組で構成されていたようであるが、長い部分1本は外されており、見ることが少ない。 この信号銃は真珠湾攻撃の際に以下のように使われたと言われている。 この作戦中は一切の無線を封鎖したので、まず攻撃目標200海里手前での攻撃開始の合図を三連銃で、オアフに入り「奇襲に成功せり - トラ、トラ、トラ」を二連銃で黒色の発煙で次々と伝えた。  
 
海軍三連信号銃(萱場整)
諸元
口径 28mm
全長 188mm
銃身長 102mm
高さ 210mm
重量 1670g
弾数 3発
製造 萱場製作所
製造数 5500挺以下(推定)

非常に特徴的な信号銃で、これも昭和10年(1930)に萱場の特許になるもので、年代的には二連銃と同じものであり、二連と兄弟と言ってもよいだろう。従ってその製造面での変遷も同じような変化をたどっている。口径28mmの3本の銃身を上に1本、下に2本重ねてある。撃発装置がさらに特徴的で後部のゼンマイ回しのような柄を左に120度回すと3発の装置が全て撃発 状態になる。その下にある左右に120度動く柄を右・下・左に合わせることにより、3本のどれかの銃身が撃発になる。後部の穴を通して撃針の後ろが下がっている様子が見えるので撃発状態が察しられる。番号は鋳物製の機関部本体の上部に、萱場の四輪 刻印、海軍錨刻印、○トの間に入れられている。 発射後空薬夾の後部を持ち上げる排夾器は3本の銃身の真ん中に三菱の形をしたものがあり、銃身の固定は下部のスプリングの入 った軸で行う。二連の梃子型の撃鉄、三連のネジ巻き型の撃鉄がこの2種の萱場製の信号銃の大きな特徴である。この銃も二連と 同じように反動緩衝装置が付いている。地上においての使用ではこのようなものは必要ないと思われるが、狭い航空機内からの発 射を想定したのであろう。この装置は高い評価を得ており、萱場の緩衝関連製品のひとつであろう。特許番号はNO93006。 銃把は二連と同じくごく初期は山毛欅などの素材の木製であったが、後にベークライトになった。ベークライトの素材はなかなか 丈夫で変質もしてない。 三連銃の収容嚢は二連と同じようなもので奥行きがあった。 二連銃の負い紐通しは丸形であるが、三連銃のそれは四角である。

海軍の信号弾は陸軍の口径35mmに比べると小さくなり28mmである。これは開発の時代的な差であると考えられる。陸軍の十年式は大正10年(1921)の第一次大戦直後で地上の塹壕戦での活用を意識していた。海軍のものは昭和10年代になって からで、艦船・航空機の活用が背景にあった。口径35mmは機内の使用を想定すると大きすぎる。これが海軍が口径を28mmにした理由であろう。 ダービー氏は陸軍も航空機では28mmを使用したのではないか、と推察しているが、筆者は多分陸軍は海軍と同じ28mmは使用してなかったと思う。陸軍は早くから自ら開発の十年式を使用していたが海軍は英国ビッカース社のものを信号弾共に輸入して使用していた。 萱場、川口屋共に上記の製品を製造する以前に各々一つづつの信号銃を開発していた。

 
索投擲銃
諸元
口径 118mm
全長 86cm
銃身長 46cm
重量 6.5kg
弾数 単発
製造 萱場製作所
製造数 1000挺(推定)
艦船から艦船に、もしくは陸にケーブルを渡す際に使用される銃で、銃口から挿入した銛を打ち出す。銛には細い索が付けられて おり、それを手繰りながら使用に耐える太いロープに替えて行く。発射は黒色火薬装薬を後装し、その発射方式は明治初期の村田銃かヘンリーマルティーニ銃など複数の種類存在している。この例はヘンリーマルティーニ方式で用心鉄を兼ねた柄(レバー)と下に押すことで、銃身後部が開き、同時に撃発状態となる。銃床も全て鉄製でかなりの重さがある。銃本体が飛んでいく索に引っ 張られない為である。銃身の上に銃の角度が45度になるような照尺があり、銃を45度に固定して発射した。基本的には索は目 標物を越えても相手方に渡ればよいので、最大到達距離で発射した。銃身の上に鈎があり、銛に接続してある索を引っかけた。同 種の銃砲に捕鯨銃があるが、捕鯨銃も重量を重く作る設計で、船に固定して発射した。この種の銃砲に黒色火薬を使用するのは、 黒色火薬は無煙火薬に比較すると燃焼が緩慢で索が絡む恐れが少ないからである。銃床板は厚いゴムで、銃身下部に木製の握りが ある。仕上げは一流で、KFC648と○ト、錨の刻印あり。日本海軍の大小を問わずある程度規模の全ての艦船には最低一挺は装備 されていたはずなので、1000挺以上が生産されたはず。「安」「装」を90度で切り替える柄の安全装置がある。

陸軍用製造不明の例は輸送用艦艇から揚陸するに使用されたものと思われる。村田銃、三八式用機関部がそのまま転用されており、木部の作りなどから現場で製作されたものの可能性がある。いずれも全長約110mm、銃身長50mm、重量は3kgくらいで角度を見るための簡単な装置がり、引き金を遠隔 で引くようになっている。射手銃を支えてまま引き鉄を操作するに無理があるからであろう。

信号銃はレジャー・スポーツの必需品で、ボート、ヨット、小型航空機には搭載が義務付けれている。近代のそれは撃鉄とネジ以外はプラスチック製で水に浮くプラスチックケースに信号弾と共に収納されている。信号弾は12番ゲージと同じ寸法の小型のもので緊急時に使用される。セットで値段的には20ドルくらい。これらは殆ど日本の十年式信号銃のような仕組みで、単発、中折れ、ダブルアクション機構のものである。以上の如く、日本の信号銃の出来は、その収容嚢も含め世界水準をはるかに越える高さであるが、信号銃も日本兵器の過剰品質例 の一つであろう。近代の信号銃のように使い捨てという概念まで行かなくても、もう少し安く生産するという発想は無かったのだろうか。 なかでも陸軍の十年式信号銃・川口屋の九七式はその極めつけである。十年式口径35mmは航空機・車両からの使用が考えられる以前のもので大き過ぎるとは言え芸術品に値するものである。各地の博物館の収集品の信号銃の中で日本のものは大きな割合を占めている。その種類の多さとユニークな設計、仕上げの良さから人気を集めたと思われる。アバディーンの展示でも20挺のうち4挺が日本のものであった。

 
       

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