戦闘車両
(日本が1919年(大正8年)20両輸入したと言うルノーFT-17戦車)
日本は島国であり、大日本帝国の時代は世界有数の海軍国であった。帝国海軍の元は大英帝国にあり、英国海軍の二人の弟が、米国と日本であったと言っても過言ではないだろう。いずれにせよ、第二次世界大戦史の海戦を語るときには日米の海戦が歴史に残る規模と教訓を残した。
一方、日露戦争から日中戦争までの30年間、帝国陸軍には帝国海軍の三分の一から二分の一くらの予算しかなく、兵は徴兵したが、装備に投入できる予算は限られていた。(帝国海軍は志願制)
帝国海軍も、大艦巨砲主義か航空戦力増強か、結論のでないまま第二次大戦に突入した。さらに、1930年代後半、中国が対戦相手であり日本の安全保障上、ソ連が最大の脅威であったにもかかわらず、米国と戦争になった。1930年代後半の大日本帝国は明らかに方針が混乱しており、帝国海軍か陸軍か、日中戦争の出口戦略をどのようにするか、その決定は、明治憲法の陸海軍を統帥する天皇統治規模を超えていた。帝国陸軍は日露戦争後、明治38年制定の戦略、兵器をそのまま使用していたが、唯一の変化は騎兵を機甲師団に変更することと航空勢力の増強であった。(航空機に関しては海軍との連携はほとんどなかった)
第一次大戦欧州陸上戦に参加しなかった帝国陸軍はフランスからルノー戦車NC27を加え計40両、輸入し1925年(大正14年)歩兵学校戦車部隊を創立した。
(昭和初頭の陸軍演習風景、煙幕のなかを走って行くのは戦車だろう)
日中戦争から第二次世界大戦にかけて、3種類の戦車を開発したがその性能、総生産数は約5000両、陸軍国であった独逸第三帝国、ソ連そして直接対戦した米国とは桁数がちがう少量だった。第二次大戦中、本土決戦用に米国型の戦車を数百両製造し、少年戦車学校などで搭乗員を養成したが、それらはまったく戦闘に投入されることなく、終戦を迎えた。
日本の戦車開発が本領を発揮したのは皮肉にも第二次大戦後の冷戦期であり、
北海道を中心に先進的な技術を備えた世界最高水準の戦車だった。
現在においても在日米軍は戦車を配備していない。日本の戦車戦力で十分と考えているからだ。