機関銃
三年式と九九式
日本は機関銃出現初期より一貫して機関銃先進国であった。機関銃は無煙火薬開発を機に内燃機関と同じ原理で発達、19世紀から 20世紀にかけての世界を方向付けた最も重要な兵器の一つである。機関銃はそれまでの兵器に比べると、良く訓練された組織的な 軍隊、多量の補給、科学的な訓練、近代的な工業と生産などを前提として、持てる国と持てざる国の格差を拡大させ、帝国主義を助長したのである。日本はその持てる国、西欧以外唯一の国、最後に位置し、それ故にその後半世紀の帝国を維持した、と言っ ても過言ではない。
機関銃が最初に大規模に使用されたのは1904-5年の日露戦争であり、この戦闘方法は10年後の第一次世界大戦の雛形となった。
機関銃はマキシム、ホチキス、ブローニング等の開発者が20世紀初頭その技術を競い、 各国はそのいずれか、もしくは組み合わせて採用し、第一次大戦では車両、航空機の発達により様々な使用方法が開発された。それまでの地上用機銃のみならず、航空機用、対航空機用、車両用、対戦車用、船舶用などである。地上用も従来の固定して発射するものから、携帯し移動して発射するもの(軽機関銃)さらに塹壕戦で短機関銃の発達をみた。
日本は19世紀末にフランスのホチキスを輸入しそれ以来、各種地上用機関銃及び対空機関銃などはホチキス系で来ており、ホチキス教室の最大の生徒を言ってもよい。
ホチキスはマキシムなどに比べると機構が簡単で(ガス圧利用)、金属製の保弾板か箱弾倉を使用するものであった。日本の機関 銃開発の父は何と言っても南部麒次郎氏で、ホチキス機銃の改良型、保式(1900)、三八式機関銃(1906)、三年式機関銃(1914)、十一年式軽機関銃(1922)、八九式旋回機関銃(1929)、 九二式車載機関銃(1932)、九二式重機関銃、九六式(1936)(九九式)軽機関銃などの生みの親である。
第二次世界大戦に向い、地上用のみならず、車両用、航空機用、艦船用に多種多量の機関銃、機関砲の需要が発生すると、世界中 のありとあらゆる技術を採用した。