日本の火縄銃は1543年、中国船で漂流中のポルトガル人により種子島にもたらされたと言われている。伝来した火縄銃は戦国時代後 期の日本に大きな影響を与え、戦闘方法を変え、社会を変え、統一国家形成に大きな役割を果たした。しかしその後17世紀初頭から19世紀 半ばまで、日本は鎖国により対外関係は少なく、国内的には安定した時期が続いたので兵器としての発展は見られず、その古来の形状が18 世紀半ばまでほぼ伝えられた。日本の火縄銃はこのような状況から他国銃器と離れた独自な経路を歩み、独特な性格を維持してきた。日本 の火縄銃は外国では通称Tanegashimaと呼ばれている。 その機構は単純確実な発火を手段とし、兵器として大量生産、大量使用を目的としてものではなく、夥しい種類が存在する。

火縄銃は種子島伝来後、早い時期に紀州に渡り、そこから近畿地方を中心に広がったと言う説の確立が高い。紀州は鉄砲先進地帯であり、幾多の傭兵鉄砲集団が存在し戦国大名、宗教集団に雇われた。伝来後およそ10年後、日本には約10万挺の火縄銃が存在し、その後の規模は、1600年には約30万丁と当時世界最大の鉄砲国であったと筆者は推定する。