軍用銃
日本では江戸時代超停滞していた兵器開発が、明治維新(1868)後、世界に類をみない速度で発展拡大した。火縄銃の時代が終わり、10年余で国産軍用銃(村田十三年式11mm)を制定した。 三八式歩兵銃(明治38年1906)は当時すでに世界の水準を超えた。維新から日本帝国敗戦1945年までの4分の3世紀の間は、日本の兵器開発生産はその独立した先進国としての立場を維持するために、何にもまして優先された国家的課題であり、様々な独特の兵器を生み出した。

日本帝国軍用小銃生産史(クリックで拡大)

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日本兵器開発生産の区分は以下の4期に分けられる。

I期 :明治維新より日露戦争まで。日本は西欧水準に追いつくべく外国技術を導入した。

II期:日露戦争より日中戦争前まで。日本独特の体系が完成し、安定していた。

III期:日中戦争期、急激に拡大した需要に応えるため威力のある、効率の良い兵器を求め、生産は民間にも拡大した。

IV期:太平洋戦争中、近代戦に対処するため重工業化し、国家総力がつぎ込まれるが急激に資源不足に直面した。

軍用小銃生産の移り変わり
この分類の他に1923年の関東大震災を転機にする分類もある。兵器の内容は変わらなかったが、生産諸設備が壊滅し爾後の生産状況が変化した。

帝国陸海軍と兵器呼称に関して

① 大日本帝国とその軍隊の呼称
戦前の帝国陸海軍を「旧軍」と呼称する文献もあるが、正しくない。
「旧軍」と言う言葉が定義された正式な書物はない。また帝国陸海軍は別な
組織であり、各々が天皇に統帥されていて、国家の予算も別であり、
開発段階においてお互いに兵器の共通性を考えたことはなく、弾薬も同様であった。従って、兵器を言うには「帝国陸軍◇年式〇〇」「帝国海軍〇年式◇◇」と呼称する。
もし「旧軍」と言う呼称が正しければ、対しての戦後の自衛隊に至るまでを「新軍」と呼称しなければならないので、矛盾が発生する。自衛隊はあくまで自衛隊で良い。

②大日本帝国の兵器の呼称
兵器の制式名(「正式」ではない)は制定年を頭につけた。制定年は昭和に入ると明治、大正と重なるので皇紀からとった。昭和元年(大正十四年まで)が年号からとったもので、それ以降は(皇紀)八五式であり、昭和十四年が九九式、同十五年が零式である。
昭和元年は皇紀2558年、昭和十五年が皇紀2600年、西暦1945年。

帝国陸軍においては翌年制定の一式を一〇〇式とすることもある。
なお、四式、五式に関しては正式な技術本部の審査を受けずに呼称している場合もあった。(技術本部の審査は厳格なもので時間が掛かった)
旧帝国陸海軍の兵器呼称の際は必ず漢数字を使い、現代の同じ数字の兵器と区別すべきである。(例、八九式車載機関銃と89式小銃など)

兵器制定の順を追う、背景を知る。明治維新以来、我が国の兵器開発者の苦労を知り、歴史に対する関心、所謂「歴史観」を持つことは意外な発見につながる。

③日本兵器に関する外国での俗称
なお、制式名は各国の兵器にも存在するが、日本の〇〇式をTypeとするかModelにするかは難しい問題で
ほとんどの著者はModelを選んでいる。特に日本の小銃をArisakaと総称するのには抵抗がある。
なぜなら日本初のモーゼル式小銃、三十年式は東京小石川小銃製作所所長有坂 成章大佐が責任を持ち設計した小銃であるが、三十八年式小銃は南部 麒次郎所長が設計した小銃である。
同様にホチキス機構機関銃をNambuと総称するが多くの日本の機関銃(地上、車載、航空機搭載)の1930年代後半までの多くの形式は南部氏の設計であった。
兵器制定の順を追う、背景を知る。明治維新以来、我が国の兵器開発者の苦労を知り、歴史に対する関心、所謂「歴史観」を持つことは意外な発見につながる。