7 、教練制度と機材

小銃をはじめとして兵器の取り扱い操作の訓練が戦力を最大限に活用するために不可欠な要素であることは今も昔も変わりが無い。日本でも第二次大戦終了まで軍事訓練に使われた兵器は、実物の兵器をはじめ専用の訓練用兵器まで幅広く存在していたが、今ではそれらを系統的に分析することは不可能である。しかしここアメリカには意外に多種の日本の訓練用の兵器が残されており、それらから、また限られた資料からどのような機材を使いどのような訓練がなされていたかを偲ぶことができる。実物の兵器にも同じことが言えるが、日本の訓練用の機材は良く工夫されており、特に年少者用に作られた縮小サイズのものなど大変に評価が高い。当時の軍事訓練は大別すると、

1)陸軍の訓練
2)海軍陸戦の訓練
3)各種学校における軍事教練

などになる。 訓練に使われた基本的な地上機材は、

1)小銃
2)軽機関銃
3)それらの専用空砲、狭窄弾、擬製弾など弾薬類
4)銃剣
5)擲弾筒
6)手榴弾

などである。
拳銃においては特別な訓練機材は見られないが、訓練用の弾薬が存在していた。日本の学校教練は第一次大戦後の軍縮の時代から始まった。軍縮の頃、時代に逆行する教練の開始は現代の感覚では想像出来ないが、 じつはこれは軍縮によりリストラされた職業軍人の仕事を創造したためであり、学校教練が軍国化の深刻な状況から始められたものでないことをまず言っておきたい。私が取材した学校教練の経験者達の話は、教練は「面白かった」と言うポジテブなものが多かったこともつけ加えておきたい。 なお学校教練の管轄は陸海軍省ではなく、文部省であった。
陸軍における新兵教育に使われた機材はほとんどが実物であったのではないかと思われる。但し弾薬に関しては擬製弾、狭窄弾、空砲、実 包などを課程に応じて使い分けていた。従って陸軍の訓練用機材に関してはここで取り上げるものは少ない。

訓練用小銃

海軍の陸戦は陸軍と同じ兵器を使いながらも、様々な実包が使え無い訓練小銃を使用していた。それらの小銃に合う銃剣も作られており、訓練用の銃剣の多くは海軍のものではないかと推察される。海軍がいつ頃これらの訓練用の小銃をどのくらい採用し、その背景の確たるものは何であったのか、疑問は多い。
1938年(昭13)にイタリアからイ式とよばれる小銃を発注した頃が、小銃不足のピークであったと考えられる。これは海軍はすでに太平洋での戦いを決意しており、太平洋の各地に散らばる基地・施設を防御するための陸戦戦力の拡充を急務にしていたことの証左であろう。
海軍の訓練機材はしかしこれに留まらずその多くが横須賀、豊川などの工廠とその近くの民間会社に発注されていた。

民間会社の名では、金山(写真上)、井澤(写真下)の二社が見られる。 井澤は「井澤銃砲」といい、関西の会社で猟銃などを生産していたが、訓練用の機材を作り後に九九式小銃の後期型も作る。
金山は名古屋の近くにあった会社で、訓練機材の専門メーカーであり、小銃だけでなく軽機も製作していた。製品にアルミのプレートで社名を表示してあるのが特徴である。
銃剣は刃が無く剣身は鋼では無い。しかし見かけは本物とほとんど変わりが無い。鞘を塗料で黒く仕上げてあり、鍔がカシメ止めされているのでそれと分かる。

学校教練は陸軍で使われなくなった古い機材から払い下げられており、古いものでは村田銃の各種、三十年式、三十八年式などである。学校に払い下げられた際に菊の紋章は何らかの形で消去された。しかし第二次大戦の後期にはこれら学校に配備されていた小銃も再び回収されて、新たに編成された師団に配備された。
靖国神社にあるビルマ戦跡より収集された三十八年式の銃身のみの遺品を見ると、これらは初期型のもので、もしかしたらこの様に訓練に使われていたものであったかもしれない。古い小銃・銃剣に学校名の焼き印の押されたものを見ることが多い。戦場から持ち帰られた小銃のなかに、かなりの数これらを見ることが出来る。

学校教練は大戦が始まると小学校から始めたと言う。教練における射撃教育はかなり徹底しており、このため軍隊に入営した兵の多くはすでに銃の基本的な操作は身に付けていた。1920年代から30年代にかけて学校生徒に教練を実施したのは日本だけでなく、軍備を厳しく制限されながら再軍備後のことを考えていたドイツであった。子供用の小型の訓練小銃がみられるのは不思議なこと日本とドイツである。

教練・訓練用軽機関銃

「教練必携」を見る限り、軽機関銃は独立した項目に挙げられており、軽機の教練も行われていた。教範に示された機材は十一年式軽機であるが、これが昭和の始め日本で使われていた唯一の実用軽機であった。
訓練用の軽機は海軍、学校教練で使用される以前、大正末から昭和の初頭にかけてすでに陸軍で使われていた。
写真でみる限り、その機材は「南部銃製造所」のもので、6.5mmの空包を使用するものであった。この南部の訓練用軽機は弾倉が横に出る形式のもので、十一年軽機の実銃と演習で併用されていた。
しかし、その後訓練用の軽機として残されているものには、少なくとも5種類以上の機材が存在していた。それらはいずれも似たような外観をしているが、二脚を持ち空冷の溝が入れられた銃身、木製の銃床と、九六式軽機に似た形状を持っている。構造は短機関銃などに使われる方式、「ブローバック」反動利用の簡単なものであり、重量も軽い。部品は少なく、一〇〇式短機関銃のように簡単に分解、結合ができる。実物の軽機はガス圧利用、銃身の途中から抜ける発射ガスの一部を使う方式で、現在も自動銃のほとんどはこの方式である。これらは民間の各社が製作していたものと思われるが、実物でみるかぎり、「金山」と「井澤」の2社の名前がある。数は金山製が多く、製造番号では金山の一番大きな数は1600近く、井澤は2000くらいである。これら各種の訓練用軽機は箱状の弾倉を使うが、弾倉が上に立つ形(金山)と、左横に出るもの(井澤)の2種ある。弾倉は縦横の寸法は実物に近い大きさであるが、厚さが一列の弾丸に対応しているので薄い。鋳物製で鉄板の厚 さは実物の倍近くあり重量は630gほどある。弾丸は底板を開けて挿入する、上部の蓋を開けて挿入する方式があり、いずれも6.5mm、弾は15発くらいしか装填出来ない。
訓練用だからと手抜きをしておらず良い仕上げのものである。また各々銃剣も装着出来る。
弾倉の寸法から見ると妥当な大きさである。この紙製弾丸の弾薬は実物の機関銃の訓練にも使われたもので、銃口から出ると粉々になってしまい、前方が安全であること、充分な圧力が得られることなどの利点があった。余談であるが、日本軍は戦場でも、実物の機関銃の銃身を訓練用の滑腔のものに変え、この空包弾丸を使い、味方の後方でこれを発射して敵を撹乱したといわれているが、確かでは無い。 訓練用の軽機関銃では空包以外の弾薬は使用せず、狭窄実包は使用しなかったと考えられる。

軽機の訓練の記述は小銃に比べると簡単に済ませてある。軽機は射撃自体よりも分解、結合などの手入れが運用の重要な部分を占めた。訓練用機材は射撃と作戦行動の訓練は出来たが、構造が簡単なので、運用全般の訓練には不十分であったかも知れない。ちなみに日本の歩兵の運用に軽機はなくてはならぬ重要な小火器で6.5mmの十一年式軽機、九六式軽機、それに7.7mmの九九式軽機の3種が 存在し、これら軽機は連合軍兵士を最も多く倒した兵器と恐れられていた。総数12万挺強が生産され、1挺が小銃の6-10挺分に相当する火力と言われていた。

教練・訓練用銃剣

銃剣は日本軍の重要な兵器であった。従って各種の軍事訓練では、銃剣術をはじめ銃剣の使い方に多くの時間を費やした。実物の銃剣は明治30年に制定され、総計830万振生産された三十年式である。三十年式銃剣の特色は、日本古来の刀と剣の二つの要素を活かした長めで鋭い刃を備えていることである。従ってこれを素早く正確に小銃に装着する、脱着するのには練習を要す。「教練必携」にも写真入りで、長い小銃を保持したまま腰の左に吊した銃剣を抜き取り、これを小銃に装着する手順が示されている。自分でやってみるとなかなか易しい作業でない。教練用の銃剣はこのような訓練の際、訓練を受ける者の危害防止を目的とし、刃を付けてなく、その素材も本物のような鋼でなく鋳物で作られている。ちなみに実物の銃剣でも兵営内では刃を落としてあり、戦場に赴く際に刃を付けたといわれている。
勿論学校に実物の小銃が配備されたところでは、実物の三十年式銃剣の古いものが配られた。大抵柄の木の部分に学校名が焼き印で押されているが、製造番号でみる限り第一次大戦前の生産のものであろう。学校に配備されたものは刃が落としてあるが、もう一度鑢石で研げば身は若干細るが刃は復活する。
教練用に生産された銃剣は、ラリー・ジョンソン氏の「日本の銃剣」によると、30種ではきかない多種にわたっている。これらは大別すると、三十年式の形態のものと、年少者用の小型のものになる。年少者用のものだけでも10種はあろう。
三十年式のものは訓練用の小銃が多種あるので、その各々に合致したものということで種類が多く存在するのであるが、ほとんどの刃は白 く、色は付けられてなく血流しがある。その鍔は曲がった形態のものと直線のものの2種あり、その比率は4対1くらいである。柄の長さが異なるものが多く、これは教練用小銃の取り付け部分が様々な長さ形態のものが存在することと一致している。鞘はわりに実物に近く、鉄製である。 木部の柄はネジ止めで後期の実物のようなカシメ止めは見ない。鍔が曲がったものの鞘のこじりは水滴型が多く、鍔が直線のものの鞘のこじりは半水滴のものが多いが、教練用銃剣のこじりが尖ったものはあまり見ない。
以上の事実から、訓練用の銃剣をはじめとする機材はほとんどが昭和初めから16年(1925-41)頃に作られたと推察される。なぜならこの 頃に実物の三十年式銃剣も曲がった鍔(フックガード)から直線の鍔(ストレートガード)に変換し、さらに刃はその後夜間使用を鑑み、黒く染められた。また大戦の後期には資材の不足から、実物の鞘は木製になった。教練用とは言え鉄製の鞘は実物の木製の鞘よりは上等である。
教練用の銃剣は小規模の町工場で各々が少ないロットで生産されたのであろう、ほとんどのものには実物と異なり製造社の刻印は無い。例外は海軍の工廠の元で生産されたのであろう、「錨に星」の刻印のものの他に「銃」「平」の刻印のあるものである。「銃」の字の印は教練用 の小銃にも見られる同じメーカーの製品であろう。「平」は小銃の「平和」のものかも知れない。
少年者用の総金属製の銃剣は縮小サイズの教練用小銃のものであるが、幾つかの種類が見られ柄の銃への取り付け部分が異なっている。 この銃剣は年少者を訓練するために安全性を重視しており、剣身は鉄製でなく合金製である。また銃身を差し込む鍔の穴が大きく16.5mmも あり差し込み易く出来ている。これは実物の刃のある銃剣は着脱の際に怪我をすることがあったことを示している。剣身に刃はなく上下が対称 にできている。このためどの向きにも鞘に収まる。柄は鉄製もしくは合金製の一体型である。剣身の中央部に樋がある。全長は40cm、剣長は30cmであるが、重量は620gもある重いものである。小銃のさく杖の穴の部分を使い装着する。鞘は鉄製で水滴型のこじりである。 小銃もそうであるが、現在になって教練・訓練用に作られた現物は実物と混同されている。銃剣は剣身の刃が落とされたものがあるので、教練用に鋳物で作られたものも錆のため実物の「ラストデッチ」と呼ばれる、戦争のごく末期に作られた兵器と間違えられていることもある。ゴダッド氏によれば現在アメリカに存在する日本の教練・訓練用の機材は、「終戦後、日本に進駐したアメリカ軍人が実物の兵器と間違えてその多くを持ち帰った」、としている。これらを設計、製作した人々、会社にとっては名誉なことであろう。

剣身・刃が鋭利でなく脆く実際の武器として試用できない以外に、教練用銃剣は以下のようなところで実物と異なっている。
1)小銃への取り付け部が雑である。止め金もきっちり入ってなく。スプリングも強いか弱い。
2)柄木の材質がまちまちであり実物ほどの品質がないのと、なぜかペイント・ニス塗してあるのが多い。
3)柄木の止め方がボルトかカシメであることは実物と同じであるが、どちらも大きい。特にカシメは大きな鉄輪を入れてあるので美しくない。
4)鍔を本体にカシメで固定してあるが、頭が出ていたりこの跡がはっきり見えている。
5)全体に金属の仕上げが荒い。また鋳物で作られているのでいくら手入れしても、黒っぽい汚れが出る。
6)鞘をペイントで黒く塗ってあるものが多い。

実物の銃剣は三八式、九九式共通であり、いずれの銃剣はいずれの小銃にも合う。 しかし教練用のものは合うものと合わないものがあり、異なる会社の製品同士は装着出来ないことが多い。
柄の頭金属部、柄の握りに番号が入れられているものが多い。しかしこれらは製造番号ではなくて、学校等の管理番号で小銃とセットになっ ていたのであろう。ラリー・ジョンソン氏の観察によればこれらの番号はいずれも二桁止まりで100まではないとのことだ。と言うことはひとつ の学校もしくは青年訓練所単位で、小銃・銃剣のセットは数十の単位であったことを示している。
学校の体育のクラスを想像すればせいぜい1クラス、2クラス分あれば1週2時間程度の実習は消化出来きたことが想像される

教練・訓練用弾薬の種類

1)擬製弾
初期のものは木製で、後の金属製のものは薬夾に筋、または弾丸にも溝の入った真鍮製で、6.5mm以降は5発づつの装弾子に載せられている。主に弾薬装填の操作練習に使われた。雷管は形だけである。筋、溝は夜間の訓練の際にもこれが訓練用のものであること が手探りで分かるようにとの工夫である。

1937年、日中戦争勃発の契機となった北京郊外演習場での衝突の際、日本軍兵士の一つの前盒 には擬製弾が、もう一つの前盒には実包が入れられていたと言う。木製の擬製弾は村田少佐の発明であると言われているが、当時は後装式の小銃が出たばかりの頃であるからあるいはそうかも知れない。日本製のものは欅など堅木を使い漆で丁寧に仕上げられている。

2)狭窄弾
実際の寸法の薬夾の頭に円弾もしくは頭の平たい小さな弾丸が付いている。黒色火薬を使いこれらの弾丸を飛ばす。円弾は銃身 が滑腔用なので、遠距離での命中率は望め無いが、これを10-15mの距離で撃たせた。もとは「ギャラリー・プラクテス」と言い、室内 の練習に使用した方法である。15メーターの距離で弾丸が木に数mmめり込む威力があった。黒色火薬は少量しか入れられておらず、余ったスペースに綿を詰めてある。円弾は鉛、頭の平たい弾丸はアルミ製が多く、ワックスの色を付けてあるものも見られる。江戸時代に味噌を固め た弾丸を使い火縄銃を廊下で撃ったと言うが同じ考え方であろう。銃の操作と射撃の基本、照準などの訓練に使用した。各学校に備えられた 射場はこの狭窄弾用のものであった。先が平らになったものはライフルのある銃つまり実物の小銃に使われたものであろう。
6.5mmと7.7mmがある。少年用の訓練銃は特殊な寸法のものを使用していた。
狭窄実包は弾丸の分のみ一般実包より短いのが、これを実際の寸法の弾倉に複数入れることができる。実物の小銃でも使用した際は黒色 火薬を使うため銃が汚れるのを恐れていた。昭和初期の陸軍の狭窄弾射撃は実包射撃と同じ位の数、年間125発位だった。

3)空包弾
空包弾は弾丸部分が木製もしくは紙製で、発射後これらの弾丸は銃口から粉々になって出ていき、前方が安全なように作られたもので、野外の演習で使用された。音と煙は出るが弾丸は飛ばない。機関銃の訓練には欠かすことの出来ないものであった。また二式の擲弾器にもこの種の弾薬が使用された。外国の空包弾は薬夾の先をつまんだ形のものが多い。日本にもこの種のものは存在していた。「空放銃」(ママ)はこのような空包弾専用であったのであろうか。

4)実包
実射訓練の際は実包を使用した。日本軍の訓練に使う実包の数は非常に少なくて、日中戦争が始まるまで一人の兵士当たり年間125発であった。しかも一回の訓練に数発単位でしか撃たせて無かった。これらの射撃は射撃専用の演習場に赴いて実施し、距離は200-300mで各種の標的を使用した。従って実弾射撃は一種のイベントであり、ここまでに至るまでの課程で様々な工夫がなされた。

陸軍の小銃取り扱い書にある弾薬の訓練用のものに関する記述によれば訓練用弾は以下の通りである。
①「空包は薬夾、雷管、装薬及び紙弾より成り其の全量は10.42gとす。薬夾及雷管は実包のものに同じ。装薬は小銃用の無煙空包 薬0.8gなり。紙弾は洋紙製にして外部に塗料を塗る。」
②「擬製弾は薬夾、雷管及弾丸より成り其の全量は14gとす。薬夾は実包のものに準じ外部には特に2条の刻線溝を施す。雷管は銅製にして爆粉を填せず。弾丸は黄銅製にして2条の帯溝を施す。」
③「狭窄射撃実包は薬夾、雷管、装薬、填綿、木填、及弾丸より成り其の全量は11.8gなり。薬夾、雷管は実包のものと同じ。装薬は 黒色小銃薬0.2gなり。
填綿は装薬を雷管の近くに保持する為使用す。木塞は薬夾の前部装す。弾丸は球形の鉛弾にして中径は6.6mm、重量1.7gなり。弾丸の外部には実包究成の後塗蝋す。」
「九九式狙撃銃取り扱い」には空包の重量は12gで装薬は0.8g。狭窄射撃実包は14.26gで、装薬は無煙拳銃薬0.25g、「弾丸は被甲を銅とし弾身を鉛として径は7.9mm、全長8mmにして重量は3.2gとす」とある。これが7.7mmの狭窄弾であったのだろう。

昭和の初期の軍備縮小時代の日本の小銃用の弾薬の生産量は、年間実包が2000万発、狭窄射撃実包が500万発、空包が300万発くらいであった。軽機用は別途あったが、これでみると狭窄、空包で実包の40%も生産していた。
日中戦争の頃、昭和15年には実包は2億1000万発、狭窄射撃実包は2100万発、空包は520万発であった。訓練用の弾薬の生産比率 は下がっているが、当然中国と戦争中であり、戦場での実包消費のためである。
訓練用の弾薬の生産でみると、訓練の規模は昭和15年には昭和の初期の約3倍になっていた。

上記の仕様を元に、近代の6.5mm用薬夾(ノーマ)を使い、新しい狭窄弾を実験用に製作して貰った。全体の重量は、薬夾が使い捨ての昔の軍用と異なり、再使用出来る近代のものは重いので若干重くなった。弾丸は鉛の円弾にした。
これらを実物の狭窄射撃用の標的を使用し射撃してみた。
室内で実物の三八式騎兵銃を使用し10mの距離で射撃したが、弾丸は正確に飛ぶ、しかしその威力は予想以上に強く、厚さ5cm 程の上質紙の本を貫いてしまう。発射音も意外に大きく煙も沢山出て、「射撃」の臨場感は80%ある。
黒色火薬僅か0.2gしか装填されてないのだが、この威力では室内でもちゃんとした施設が無いと危険である。この狭窄弾は射撃の訓練において手軽にまた数多く出来るし、銃に慣熟するには大変有効な方法であると実感した。
余談ながら現代の射撃教練は様々な電子的映像を使用したシュミレーション的なものから入り、初心者の安全性を考慮した経済的・効率的なものになりつつある。アメリカには幾つかの専門業者があり、各々の技術を競っている。

その他訓練用機材

教練用手榴弾各種:右から陶器製大、陶器製小、十年式型、投擲用、九七式型鋳物、九七式型アルミ鋳物、九九式型アルミ鋳物
学校教練では「教練必携」をみていると、「手榴弾」及び「防毒面」に関しては後の要請・変更のため編集上追加された項目であることが明らかである。
「手榴弾」に関しては立ち投げにおいて30mを標準として、常に目標の半径5m内に落達させるべくとしている。

しかし九一式、九七式の手榴弾は重量が本体のみで450gもあるから、これを30m投げるには訓練が必要である。もともと日本の手榴弾は擲弾筒 で発射することも目的に開発されたので重い。しかし威力はある。教練、訓練用には合金製のもの、鋳物で本体を製作したものが用意されて いた。(実物も鋳物で作られているが) 従って、訓練用とは言えほとんど実物と変わらない感じのもので、信管の取り付けもネジこみである。但し信管、また擲弾筒での発射用のブースターが付いているものはその部分が単なる真鍮製ブロック状のものが付けられている。また本体の下部に紐通しのような輪柄の部分がある。これは何なのか。もしかしたら擲弾筒で何らかの方法で発射できたのものか、回収のためのものなのか。単に投擲するだけの訓練であれば、同じくらいの大きさ、重さのもので充分であるが、この仕組みで何らかの方法で発射できたのかもしれない。過去一〇〇式擲弾器の実験をして九九式の手榴弾を発射したが、その発射した本体を回収するためにリボンを目印として付けた。そ れでも厚紙の標的を突き抜けた手榴弾が木の切り株などに当たりはじけると回収するのに苦労したことがある。この輪はなんらかの回収のためのものであろう。

野球の殿堂入りした往年の名投手杉下茂氏は回顧談の中で、「軍隊で小銃や軽機を担ぎ肩を痛めていた。投球練習もしてないので、終戦直後 はボールが投げられるとは思わなかった。しかし投げてみると良いボールが出る。考えてみると、この理由は軍隊で手榴弾投擲をやったため だろう。手榴弾は重い、肘を使わずに腕を伸ばしたままにして遠心力を使う。これで25-30-40mと飛距離も伸びようになった。さらに コントロールも良くなる。タコ壷からタコ壷に投げる、腹這いになって投げる、トーチカの小さな窓に投げる等の競技があり、その為に、投手であったので練習をやらされた。」と語っていた。
昭和16年(1941)に、陸軍工廠で「手投演習用曳火手榴弾」が200万個生産された記録がある。これらは陸軍の訓練で使用されたのであろ う。これは時期的に見ると九九式手榴弾でなければならない。九七式模擬手榴弾の実物は鐵製でなくアルミ系の合金を使い、空の九七式とほぼ同じ重量315gに作られている。その為内部は空洞でなく、改造などが出来ない仕組みであった。真鍮製の厚い管が信管部になっている。寸法・胴の筋目などは実物に近く、胴は黒色、上部は赤に塗られている。信管には安全栓の穴のみで、「安全栓を抜く、信管上部を打 つ、投擲する。」という手順の訓練に使用されたものであろう。

「擲弾筒」は実物と同じように作られた鋳物砲身のものがあった。この現物は見たことがないが、機関部もちゃんと存在している。但し、間違っ て実弾を入れても発射出来ないように撃針が届かない仕組みになっているそうである。

「防毒面」は写真で見ると教練では直結式と分離式両方が掲げられている。実物の防毒面は使用耐久時間が長く大がかりなものであり、学校教練では簡単な直結式が多く使用されていたと推察される。軍隊の訓練でも防毒面の装着は重要な課題であった。
以上に挙げた以外に写真で見る限りでは、重機関銃や、自動車も使われていた。
年間5日の野外演習は、首都圏であると千葉、富士山麓の陸軍の演習場と施設が使われた。個人装具としては背嚢、弾盒、革帯などと兵器の 手入れ用具があった。
それらは小銃と一緒に納入され学校の装備品であった。但し学校教練においては「鉄帽」は使用してなかってのか、殆どのシーンは学生帽を被って行われていた。 大戦が開始されると資材の不足からキャンバス・布製の装具になった。