10 、「バンザイシュート」報告

アメリカでは5月の終わりに戦没者を奉る「メモリアル・デー」の休日がある。この休日の性格上、様々な軍事的なイベントが全国各地で実施される。日本軍の軍装・兵器の収集・研究家の間では毎年、アラバマ州のブレビンズ氏の家で「バンザイ」シュートアウトと言うイベントが行われ、30-40人のメンバーが集合する。
私自身、「バンザイ」の会員になり10年以上、過去3回このイベントに参加しすでに多くの人達とは顔なじみの間柄になっている。「日本の軍用銃と装具」の執筆に彼等の協力は無くてはならぬものであった。ここでは普段は出来ない様々な日本の兵器の実射を体験した。今までに村田十三・十八年式・三八式、九九式の各種小銃、各種拳銃、各種軽機関銃の実射はもとより、一〇〇式短機関銃、擲弾筒、擲弾器などを借用して、また実包も用意して貰い研究を拡大することが出来た。

アメリカにおける「日本軍」愛好者

アメリカはいろんな国から来た人達で構成されている国であり、恐らく自国以外の文化や歴史の研究では世界で一番多種のものに挑戦し、またよく実施されている。
正直言って日本軍のものはマイナーである。しかし大戦後半世紀を経過した現在、その規模は拡大もしてないが縮小もしていない不思議な存在である。「バンザイ」は月刊の研究誌でドス・ホワイト氏が主幹、約600人の会員が全国的にいる。この他に各地方に小規模なグループが幾つかあり、日本軍の研究家と言われる人達だけで私は1000人とみている。またコレクターに関しては日本でも有名なオークションハウスの「マニオン」の日本軍の部のみで3000人いるので、全体で1-2万人の規模であろう。

研究家は私のように全てのアイテムに関して、その背景や数量を捉えるような手法で行っている者は少ない。多分、日本語による情報の取り方に問題があったのであろう。
しかし、個々の兵器に関してその分類や特徴の捕らえ方、性能に関する研究は実物を手軽に見れる、実射できるので、とても日本では出来ない水準にまで進んでいる。また自国、その他の国の物との比較も公平に行われている。兵器であるという認識のもと、単なる遊び的に実射して軽々しく日本のものは「奇怪だ」「良くない」 というような素人的な批判はあまり聞かれないし、このような態度は研究家内でも相手にされてないように思 える。
大戦後の一時期、NRA(アメリカライフル協会)の機関誌「アメリカン・ライフルマン」に日本・ドイツの小火器系のレポートがよく掲載された。アメリカ及び英国の研究はすでに、小銃、拳銃、銃剣、その他の軍用刀剣などが出版物として存在し、現在、機関銃、訓練用小銃、実包、大砲に関する研究の出版が計画されており、筆者もそれらの研究者に出来る限りの協力を惜しんでいない。

私が3年前にドス・ホワイト氏に頼まれて執筆した英語の「中国戦線の日本兵」は1930年代の日本軍の兵器・装具を当時の東京日々新聞社の写真で見せるというもので、まさに彼らの研究を大いに助けていると確信している。アメリカに在住する日本人の研究家は、私の知る限り、吉田四郎、葉山泰彦、中川和人の各氏であり、それぞれに自分の分野と日本人としての観点を持ち尊敬できる水準に達した方々である。
「バンザイ」シュートアウトはこのような研究家、収集家、その関係者及び野次馬も含め毎年銃規制の比較的楽なアラバマに集合し、各々持ち寄った物を実験し、情報を交換する最良の機会となっているのである。 毎年、私はいろいろなテーマに関して彼らの協力をお願いし、今までその期待を裏切られたことは無かったが、本年は以下のテーマに関して実射を含めた研究を行ったのでその一端を皆さんに報告したい。

A. 村田二十二年式連発銃の実射
B. 日本が幕末に輸入した初期の後装式小銃の実験
C. 九二式重機関銃の実射
D. 十四年式と九四式拳銃の命中率の比較
E. 訓練用小銃に関する情報

などであった。ブレビンズ氏の家はアラバマ州の北部に位置し、私の住むニューヨークからは片道約1300キロ、車で14時間掛かる。しかし、自分でも実験する銃器や機材、撮影のものを持参しなければならないので、自分でこの距離を運転して行く。
ブレビンズ氏は近隣のスクールバスを配送する業務を経営しているが、その地所はどのくらいあるか分からぬ広さで、その一角が射場として使われる。参加者は彼の家に泊まる者、庭でキャンプする者様々である。

小銃村田二十二年式は当時の新しいコンセプトを採用した名銃

恐らく戦後50年間で私がこの銃を実射した数少ない研究者であり、日本人としては唯一の射手であろう。この銃は数も少ないが、何よりもその実包が存在しない。 この8ミリ実包は特殊なもので他国のいかなる実包とも互換性がなく、また製作することも出来なかったのだ。村田二十二年式(1889)は、その前に存在した11ミリ単発の村田十三年式、十八年式に引き続いて村田少佐の開発による日本軍の制式小銃であるが、実戦に使用された機会があまりなく、20世紀にかけての北清事変(1900)で欧米各国軍と中国北部に共同出兵された数千の日本軍が装備していた。
従来より小型の小銃であり、思い切った小型の銃剣を装着する。それまでの黒色火薬でなく、開発されたばかりの無煙火薬を採用、口径を小さくし、連発式とした。
銃剣は世界で始めて銃身の下部に装着できるものとし、銃身の真ん中に握部があり、小型小銃、小型銃剣ながら、時代遅れの大型の打ち物に対抗するに、敵の懐に飛び込む形で体格的に劣る 日本兵の敏捷さでこれを倒すという日本的なコンセプトを明解に出している。この点はこの銃を見たアメリカ前装銃協会会長のマルソン氏も直ちに指摘したことで、その後の日本の銃剣術確立の第一歩がここにあった。
さてこの実包はやはり会員のビンセント・ダイナルディ氏に製作を依頼してあった。同氏は実包の研究家であり、実物の8ミリ実包を見ずに、薬室と遊底底部の寸法を測り寸法をだし、他の薬夾を一つ一つ改造することにより製作してくれたのだ。勿論無煙火薬を装薬としている。
この8ミリ実包の薬夾の底部は薄い縁があり(リムド)で、弾丸は長くその先は4ミリほど平たく銅で装甲された特殊な、手間の掛かったものである。これはライフルを4条メトフォードとしたためで、当時としては画期的な設計であった。連発機構は銃身の下部に管状の弾倉があり、遊底を開けて一発づつ押し込む方式である。銃床は後の日本の軍用銃の特色となった合わせ銃床である。

今まで、日本では銃の構造が複雑であるがたいした銃でないという評価がなされていたようだし、なによりも実際に見たことも、発射されたこともなかった。
実験の結果から言うと、当時の軍用銃としては考えられない精度、命中率を示した。
とにかく貴重な実包なので、8発しか発射出来なかった。100メーターの距離で最初の2発が真ん中より5センチばかり落ちた。横のダイナルディ氏を見ると、「少し弱装にした。」との合図。黒点の上に合わし残りの6発を撃つ。なんとそのグルーピングは5センチくらいにまとまる。これは三八式に匹敵する精度である。今回製作して貰った弾丸は先が尖ったものであったので、弾倉には一発しか込められなかったが、装槙は思ったよりも楽である。実物の弾丸の先が平たいのは前の実包の雷管を打たないためである。後の連発銃に比べると、この装置は複雑で、デリケートなものであることは否めない。しかしこれは火縄銃の時代から30年もたたずしてのテクノロジーなのである。今の感覚で批評は出来ぬ。
弾倉には7発収まるが、うまく入れないと時間が掛かる。しかし当時の戦闘を想定するに、遭遇した敵に対してとりあえずはこれ以上の弾数は発射することは無く、すぐに白兵戦に持ち込んだに違いない。一人の兵の携行弾数は60発程度であった。実包は15発づつ紙箱に入れられ二つの前盒を使用していた。 弾倉は銃床を火縄銃のサク杖を入れる穴のように先から元まで長く掘られて、そこに真鍮製もしくは薄い鉄板のパイプが入れられて、内部に先からコイルスプリングが付けられている。非常に手の掛かった工作である。さく杖は短いものが一本、銃床の中に入っており、何人かでつなぎ合わせて使うという新しい発想であった。
連続番号から推定するに約15万挺が東京工廠の小銃製作所で生産された。

筆者の村田二十二年式小銃は初期の生産で、「廃」の文字が尾筒の上に、銃床に「仙台工業高等学校」の焼き印が押されている。この同じ焼き印の銃は知る限り、アメリカには数挺存在している。銃の程度からみると野外の教練に長い期間使用されていたものとは思えない。技術の実習に使われていたのかも知れない。いい銃である。 まさに名銃の名にふさわしい性能と作りであることが今回の実射で証明された。

九十四式拳銃は優れた軍用ポケット拳銃

九四式(1934)拳銃に関しては初めから終わりまで良く書かれたものはほとんどない。果たして本当に「奇怪」で「くだらない」設計であったのであろうか。「あなたの腕が悪いので当たらないのでしょう。」筆者は何度もこの拳銃のレポートに関しては疑問を持っていた。今回私が行った「仕掛け」は十四年式(1925)と九四式の二つのカテゴリーで射撃競技を実施することであった。距離も同じ、標的も同じ、実包も同じ、発射弾数も同じにして上位何人かの平均をとれば、この2種の拳銃の比較が出来る。十四年式はもとより工作が良く、命中率も射的銃並に良いという評判の拳銃である。日本から鎧、兜、刀のミニチュアなどの賞品を運びこれらを優勝者に提供した。参加者は各々10名強で、そのうち、7名が両方の競技に参加してくれた。距離は15メーターで小さいピストル標的(10点部分は直径4センチ)を使い、5発競技(満点は50点)。NRA(アメリカライフル協会)の審判員にも来て貰う。その結果、驚くことに上位3名の平均スコアは、十四年式は36点、九四式は33点なのであった。しかも回転不良は十四年式 に2回あったのに対し九四式は零であった。今回使われたほとんどの九四式拳銃は昭和12年から14年にか けて作られた初期のものであった。次回は距離を25ヤードに伸ばしものに挑戦してみたい。使用実包はアメ リカ製の最近のもの。
見ていると、日本の拳銃の問題は回転不良とか命中率ではなくて、なんと弾倉への実包の挿入であった。確かに現代の自動拳銃の弾倉の設計・工作に比べると日本の拳銃は8ミリ実包の形状、傾斜、バネなど指の太いアメリカ人には手こずる要素がある。何度も言っているが、九四式拳銃は薄く作ることを目的にした設計である。工作も良く、従って回転も良い、命中率も悪くない。南部麒次郎氏の名誉に掛けてこれらは言える。残念ながら今までのテストは射手の腕が悪かったか、終戦直後の一部の評論をまるのみにしたとしか言いようがない。