14、帝国日本軍が使った外国製小銃

image001(イ式(上)モ式(下) 「日本の軍用銃と装具」より)

1、 イ式小銃

拙著「日本の軍用銃と装具」を執筆中、1990年代初頭に、元陸軍技術本部の伊藤 愼吉氏からお話を聴く機会があった。伊藤氏は日本がイタリアに小銃を発注した経緯として、昭和13年(1938)イタリア駐在陸軍武官がイタリア工廠側と交渉したとしていた。同じ年、陸軍はイ式双発重爆撃機フィアットBR20約85機を輸入して、三菱九七式重爆撃機(1937制定)が揃うまで使用していた。イ式重爆の機体は、その後イタリアとの距離的関係だろう、補給部品、整備などの問題で使われずに満州でスクラップになったそうだ。イ式重爆は防備が優れていた、20㎜一門、ブレダ(ブローニング方式)12.7㎜x81二門、これは後にホ102一式機銃になり陸軍機の多くに搭載された。この重爆85機の輸入は運搬、組み立て、整備、訓練、そしてノモンハン・中国大陸などでの実戦使用と言うとてつもない大きなプロジェクトだった。

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(日丸のイ式フィアット重爆)

イ式小銃は伊藤氏のお話によると日本の三八式小銃と同じ仕様で、イタリアに発注したそうだ。しかし遊底(ボルト)のみはカルカノのボルトになっていた。

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(カルカノ1891小銃)

寸法と形状は三八式と同じで、同じ三十年式銃剣を使用した。木部においては、銃床は二枚合わせだが、木の質と塗装は違う(教練銃に多く見られるような木部)、銃身(色づけが違う)などで菊紋はない。日本の弾薬6.5㎜x51を使用した。(カルカノの弾薬は6.5㎜x52で、JFK暗殺に使われたかどうかの議論があったが、JFKに命中した3発の弾丸はこのマンリッヘル・カルカノ弾ではなく、もっと強力なものだったと、カルカノ暗殺説を否定する意見も多い。)日本は中国戦線の急激な拡大で小銃不足にあったが、イ式小銃が到着してみると日本軍の激しい使用に耐えるものではない(特にボルト)と判断され、前線で使われることはなかったようだ。太平洋で鹵獲されたイ式小銃は記録では海軍陸戦隊が使用していたとされているので、艦艇を失い、地上兵力の増強を図った海軍にこれらが移されて装備された可能性がある。実物を観察し操作すると、機関部のガタやもろさが感じられる。木部も曲がっていたものが多い。カルカノ機関部はモーゼルタイプの一種で、日本の三十年式のようにボルトの分解、組み立てに時間が掛る。

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(イ式小銃機関部)

製造はベレッタ社・フランキ社に発注されたが、2-3社で分担して組み立てられ、総数約6万挺が輸入された。アメリカには比較的多く残されており、タイプ「アイ」と呼ばれているが、価格は安い。なお、木部は日本で仕上げられたと言うことをも伊藤氏は述べておられた。

2、 モ式小銃

最近、エドウィン・Fリビー教授が、日本は独逸(チェコ併合後)チェコで製造されたモーゼルK98をまとった数輸入してはずだ、とアメリカ側の資料と実物、取り扱い説明書などを根拠に短い論文を仕上げ送って来た。多分のこの説は正しいだろう。モ式はモーゼルK98で7.92㎜x57弾を使い、昭和12年(1937)に約5万挺と輸入されたと言う。帝国日本軍の全体の規模、満州国軍、などの装備を考えれば大きな数字でない。それとは別に同じモーゼルK98 は中国国民政府軍(萱場四郎氏によれば国民政府は26種類の小銃を使用していたと言う)の主力な小銃であり中国国内の工廠でライセンス生産されていた。中国戦線において、帝国日本軍は厖大な数量の小銃を鹵獲しており、このモーゼル小銃を南京に保管していた。

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(モーゼルK98)

この銃口部分は日本の銃剣は装着できない、日本軍が使ったものは改造してあった。 モーゼル方式の機関部は分解・組み立てが日本の三八式ほど楽でなく
銃床の丸い凹んだ鉄輪は、そこに先端を押しつけて、組み立てた。

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(BZ26を構える日本兵)

斎藤茂太博士は、昭和19年(1944)「中国大打通作戦」に参加する日本発部隊の軍医であった。同氏のお話では日本を発つ時には、部隊は教練銃を、装備は防空鉄帽、竹の水筒など、物資不足のためほとんど何もなかった。釜山に渡り、延々鉄道でそのまま武昌・漢口に到着し、そこでモーゼル小銃、中国製の日本式装備、鉄帽、水筒、弾薬蓋、軍靴などを支給されたそうだ。BZ26軽機関銃は同じ弾薬を使い、日本軍はこれらも多く鹵獲して使用していた。弾薬は中国の工廠で日本軍管理のもと生産されていた。日本軍の前蓋で明らかにモーゼル弾用のものが存在する。またモーゼル銃は三十年式銃剣を装着できるようにしてあった。

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(重慶に向かう南寧での日本軍)

日本から延々陸路を来た部隊は国民政府軍から鹵獲した兵器、及び現地生産された装具を使用して、さらに南へと戦線を展開して行った。
モーゼル小銃は「学徒出陣壮行会」の写真にも学生が担いで行軍している写真がありまた、満州国軍のために奉天で製造された記録があると、リビー教授は伝えてきた。

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(昭和18年10月21日神宮外苑)

参考文献:
日本の軍用銃と装具
中国戦線の日本兵
日本の機関銃
防衛図書館資料
萱場四郎著「支那軍は如何なる兵器を使用していたか」
協力:
伊藤愼吉氏
斎藤茂太氏
エドウィン・F・リビー氏
陸上自衛隊武器学校
(この項以上)