15、日本小火器弾薬発展表
銃が先か?弾薬が先か?論理的に言えば、目的に最適な弾薬があり、それに合致した
銃がある、と言うのが正論であると考えられる。現代ではAK47(7.62mmx39)を銃本体はほとんどそのままにしてAK74(5.45×39)に変換したケースがある。帝国日本でも6.5㎜弾を7.7㎜弾に拡大した九九式長小銃を開発したが、結果九九式小銃は機構、銃剣などは
同じものにしても短小銃が主流だった。下、日本の6.5㎜弾
話はもどり日本銃砲史上、江戸期、小銃の目的は命中率であり、それは戦闘のためと言うより「武道」として重要な要素であった。火縄式がずっと使われていた理由の一つだ。
当時の弾丸は直径10㎜ほどから18㎜ほどまでが一般的で、35㎜くらいまでの大大口径も
砲術の重要な一端を成していた。この時代、日本では銃の大きさを言うに弾丸の重さ、「匁」を使用していた。一匁筒は口径10㎜弱、十匁筒は18.2㎜ほどである。当時、欧米では大砲を砲弾重量で分類していた。弾丸の重さを測定すれば使用する黒色火薬の量も判定できるが、銃身の長さなどで別な計算式がいる。1886年前後の混乱期には世界各種の銃器が輸入されたが、主流はミニエ式、スナイドル式の.58口径(14.66㎜)弾だった。明治政府はこれに統一し、西南戦争までに弾薬製造機を輸入していた。(洋式銃の項で述べているが、
.58口径とは言え、エンフィールド、スプリングフィールド、レミントンなど多くの製造があり、口径は.575-.585くらいまで各種存在する。)
明治維新後、約10年後国産銃、村田銃が生まれたが、当初明治十一年式、十三年式は大型の11㎜弾薬だった。フランスの11㎜弾に似ているが互換性はない。明治22年、支那との戦争のため制定された二十二年式は同じくフランスのレベル弾に似ているが互換性はない。上記の村田銃を試射するにはフランスの似た弾薬を使用した。
日露戦争に備え明治三十年に制定された三十年式兵器の弾薬は、小口径6.5mmx51で当時
このような小口径は日本の他はイタリア、スエーデンが採用したのみだった。日本の小火器弾は雷管がボクサー式でなく、内部に打ち金が入り、穴が二つある方式で、殻は使い捨てであった)同じ弾薬でも例えば、日本の6.5㎜、半世紀ばかりの間に変化は幾つか見られた。画像のものは中期くらい、三年式機銃、九六式軽機と共通に使われていたものだ。
装薬、弾丸の形(腔旋が6條用は頭が丸く、4條用は尖頭であり、被甲の裾など)も変化した。このような改修は他国の弾丸でも同じ。
20世紀、世界の小火器弾の本流は7.7㎜クラス、英国の.303,アメリカ30.06(6年は制定年)そしてそれを3対5に拡大したのが、「.50×99」(12.7㎜)、独逸やロシアは7.92㎜を採用した。以上の弾薬は第二次大戦まで広く、小銃、機関銃に使われた。
拳銃弾、短機関銃弾では日本は南部麒次郎氏1902年開発の8㎜x22弾、独逸はパラベラム弾「9㎜x19」、様々な弾薬が出現したが最後まで残ったのが、このパラベラム弾だった。
現在でも日本の警察が保持しているHKM-5短機関銃、自衛隊の拳銃などの弾薬だ。
結果から言うと帝国日本の主流弾薬は日本でしか使えないもので他国と互換性のあるものは少なかった。三十年式、三八式小銃を輸出したので、6.5mm弾は、エンフィールド、フランス、中国の各工廠でも生産された。
世界弾薬史で名が残るのは「ブローニング12.7㎜弾」(地上、車載、艦艇、航空機共通)と「9㎜パラベラム弾」であっただろう。
大戦後北大西洋条約が発足し、各国が共通の弾薬を使用するようになった。所謂NATO
弾は7.62㎜ⅹ51(日本の64式小銃)、5.56㎜x45(日本の89式小銃、ミニミ軽機関銃)
など小銃弾は新しいものが出たが、重機銃弾、拳銃弾は20世紀初頭に開発された上記の2種が今でも使用されているからだ。NATOは1949年、12カ国で発足した北大西洋条約であり、冷戦時、兵器運用の効率性をうたい、現在では約30カ国が参加している。
スイス、スエーデン、日本はNATOには加盟してないが、NATO弾を使用している。
日本小火器弾薬発展表