16、世界に流れた日本小銃とチェコからの「サイアミーズライフル」

① 界各国への三八式小銃輸出
現在、第二次大戦までの日本の小銃は日本国内では無稼働で係員に苦労もと、各地自衛隊資料館に展示されているだけだ。おそらく全部合わせ30もないだろう。(以前、中国から輸入、販売されたものは含まず。)
アメリカは第二次世界大戦の戦闘で、そして戦後も記念品として持ち帰られたので、約2万挺は下らないだろう数量があると筆者は推定した。
戦後、アジア各地に残された銃は各国独立戦争や朝鮮戦争に使われた。
ベトナム戦争でも一部米軍に鹵獲されている。
実は様々な記録には、三十年式小銃、三八式歩兵銃、騎兵銃は正式に英国、ロシア、中国国民政府と各軍閥、タイ国などに輸出されていた。それら数量も、三十年式を含み分からない部分が多い。(メキシコ用も製造したが開いてが債務不履行になり輸出はしていない)
英国へは第一次大戦中、ロシアへも赤色革命に対抗して10年前は敵だった白系ロシア向けだった。筆者の推定では総計100万挺を下回らない数になった。

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「Military Rifles of Japan」より三八式を担ぎ行軍するロシア兵

英国ではエンフィールド工廠で日本の6.5㎜弾薬を製造していた。戦後は中東の国々に渡ったと言われている。ロシアはソ連建国後、周辺国に。今でもフィンランドには「三八式小銃愛好会」が存在し、最近までコンタクトがあった。
一方、九九式小銃は大戦が始まってからの生産で輸出はされてない。

②ロサンゼルスからの情報
ロサンゼルスの収集・研究家H氏がサイアミーズ(タイ国)三八式小銃を手に入れたら、以下のような紙が銃床の中にあったそうだ。サイアミーズライフルは6.5㎜ではない。8㎜、30・06、7.92㎜などと様々な実包用に改造されている。

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この紙には1934年8月31日で、チェコ語(左)とタイ語(右)になった、射撃証明、品質証明と引き渡し状のようなものだ。距離は100m、5発射撃していた。(日本の小銃は小石川でも東洋工業でも300m射撃試験して合格しないと
軍に引き渡せなかった)
H氏はアメリカにはタイ語が分からず、アラビア文字としていた人がいたと書いてあった。
この銃はシリアルナンバー「09016」で極初期の番号だ。
弾痕サイズから推定するに角は7x10㎝くらい両横のサインを入れ30x40㎝四方くらいのものではないか?

③日本のタイ国への武器輸出
「日本の軍用銃と装具」に紹介した。タイ国は日本の良い顧客だった。日本の武器兵器を信頼していたようだ。泰平商会も熱心だったのだろう。九五式軽戦車は50両輸出した。今だに国防省の玄関に展示してあるし、トヨタの人の話では同国は古い武器も捨てず多くを保管してあるそうだ。最近までM4戦車を暴動鎮圧に使用していたくらいだから古くても兵器は兵器、国内用に使うにはこれで十分という「消極的先進性」がある。
日本は大正14年(1925)から4年間、三八式小銃43100挺、三十年式銃剣
48199振、そして弾薬蓋など備品約20000万個を輸出した。
銃剣の数が5000振多い理由は分からないが砲兵などにも装備させたからか。それ以前、有名な三十五年式小銃はタイ国が輸入した。
この4年間で小銃の輸出が終わったのは、小石川のストックを輸出し、その後、
名古屋で生産が始まると、満州事変など輸出の余地がなくなったのではないか。
従ってタイ国には様々なサイアミーズライフルが存在した。


「Military Rifles of Japan」より
上は8㎜口径
三十年式と三八式(下は私が所持していたものと同じ形式30・06口径)

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「Military Rifles of Japan」より

③私の所持していたサイアミーズライフル
これも画像を「日本の軍用銃」に紹介した。九九式の改造に見えるが三八式の文字が残っている。

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全長は109㎝と20㎝、短くしてある。重量は3.5㎏だ。シリアルナンバーは
オ77214でこれは大戦直前のもので、タイのナンバーは83-2512だった。戦後、日本軍が置いて行った装具の可能性がある。
タイ国では「六六式」としていたらしい。問題は、元の6.5mよりはるかに
大きな米軍実包30.06用に改造してある点だ。そのために排莢口が大きくなり、薬室も大きく、さらに銃身は短い、三八式と刻印された部分まで広げてある。
あまり格好の良いものではないし、更に、銃と弾薬のバランスが問題で、射撃性能も限界があったかもしれない。

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米軍の帆布製のスリングが付いていた。

④なぜチェコか?
第一次大戦後、チェコのブレノには多くの中古兵器が集まり、再生していろんな地域や国に販売していた。日本もブレノ製のモーゼル銃を購入していた。
だが、私が推定するにサイアミーズライフルは元々チェコからきたのではないか?と言う事実だ。

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(シベリア出兵、日本軍の後ろに外国兵が続いている)

これには「シベリア出兵」が関係ある。
1918年から22年まで日本とアメリカはロシア赤色革命を阻止するための協議をしてシベリアに出兵した。日本軍は73000人がシベリアに渡った。
一方、シベリアには「チェコ軍団」がいた。この由来は何を読んでも良く理解できないが、赤色革命が進むにつれて、チェコ人がシベリアに残される形になったのだった。
推定するに、第一次大戦のロシア軍に加担した兵力、雇われた兵力などではなかろうか。(ロシア軍のチェコ人捕虜35000人が主体とも言われている)
帝国日本軍のシベリア出兵の理由のひとつも「チェコ軍団」の救出と言うものであった。「チェコ軍団」は同じく赤色革命を阻止したかったフランスのジャナン将軍の指揮下にあり、フランス政府を通じて日本に武器供給を要望した。
二十六年式拳銃1000挺は正式に文書に残っているが、シベリアに送られ、代金は駐日フランス大使館が支払った。(収容嚢は500個しか購入してない)
白色ロシアに輸出された三八式小銃、歩兵銃、騎兵銃は、統一された兵器装備のない「チェコ軍団」に・・・と言うことは自然の成り行きだ。
「チェコ軍団」はボリシヴィキと対立した象徴的存在だったからだ。

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「Military Rifles of Japan」よりロシア兵が三八騎兵銃をと記してあるが、帽子、プッターなどからチェコ兵ではないか。
結果、ソ連が誕生して、出兵が中止なると、チェコ軍団は海路、故郷であるチェコに数年ぶりにほとんど全員が帰還できた。(チェコには日本に感謝する文書が少なからずあるそうだ。)帰還してチェコ軍団は武装解除されなかっただろう。
従って数万挺の日本の小銃がチェコに渡った。
その後の「プラハの春」のことを考えると歴史は皮肉なものだ。

⑤サイアミーズライフルの一種はチェコ軍が持ち帰ったものではないか?
これが私の推定だ。
数万の兵力でほとんどが軽武装だから三八式小銃(日本はすでに中期型、
腔箋4條を採用していたから)は初期型をシベリアに送ったと考えられる。
「チェコ軍団」帰還に関しては少なくとも数万挺がチェコに持ち帰られた。
それらを、当時ブレノでさかんに造っていたモーゼル実包銃7.92㎜にチェコで
改造し、それをタイ国に輸出したのではないか。H氏の銃床に入っていた紙はその引き渡しの証明であった可能性がある。

私の偏見かもしれないが、サイアミーズライフルの仕上げは良くできている
6.5㎜を他の口径に改造するのは大変な作業だ。弾倉部分、薬室、銃腔、そして
照準器の作業だ。タイ国の工業水準、これが戦前でも戦後直後でも、これほど
までして改造する必要があったのか?と言うのが疑問だからだ。
名銃、三八式小銃をいじる意味は何だったのだろう。
チェコ工廠には商品の価値を高めると言う意義はあっただろうが。
またタイ国に日本から直接輸出された三八式小銃4万挺はどうなったか、果たしてどこかに三十五年式のようにそのままの姿で残されているのか?
改造されてしまったのか?
謎は深まるばかりである。
(この項以上)
参考文献:Military Rifles of Japan
By Fred L. Honeycutt ,JR and F.Patt Anthony