18、教練・学生競技に使用された銃器

戦前、日本は軍縮期に余剰となった陸軍将校を学校教練制度に採用することになった。予算は陸軍省でなく文部省の管理で予算も文部省が出した。
制度は宇垣軍縮により始められ、中学以上の各種学校全てで行われ、週2回以上の軍事訓練で、当然射撃も含まれていた。学校で軍事教練を受けた者は
徴兵制が一年間に短縮され、勤労者数増加にも貢献した。
帝国陸軍は出向する将校を教育が上手である、人格者であると言う基準で選び、後に「教練教官にいじめられた話」が多く残されたが、戦後の左翼ジャーナリストの仕業であろう。
日本ライフル射撃協会の坂本会長の話によれば競技にはすべて三八式歩兵銃が使用され、距離は300mであったそうだ。

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ただし、日本には明治以降の余剰兵器、村田銃、村田二十二年式などがあったので、それらも専門学校、中学校など低学年の生徒には使用された。
日露戦争で60万挺生産された三十年式小銃は輸出され国内にはなかったようで、教練に使われた記録はない。
以前「慶応義塾」と印を押された三十年式銃剣を観たことがあるが、大学においては三八式初期型の銃が払い下げられたようだ。しかしそれらも第二次世界大戦が厳しい状況になると回収されビルマなどに派遣される新しい部隊に
支給されたと言う。

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尾張中学

これらの写真は、日本ライフル射撃協会のものと、尾張中学卒業アルバムからのものが入っている。尾張中学の卒業アルバムには多くの教練の写真があった。
米国でファイザー社法務に努めていた日本教練研究科に進呈した。米国では目的をもって研究した材料は長く、継続して保存されるからだ。

射撃訓練は基本である。
基本を叩きこまれた当時の日本人若者はある程度の能力を持つ射手であったはずだ。学校には銃器庫が設けられ、絶えず銃器の整備や手入れも訓練された。

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尾張中学

大学には昭和10年頃から「射撃部」が創設されやがて全国大会が行われるようになった。

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各写真には軍事教練の教官であった陸軍士官が真ん中にいるがいずれも
立派な軍人である。

競技の射撃姿勢は伏射で、地面に厚いゴザを引きマットとした。

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(この項以上)