20、日本軍の将校拳銃収容嚢
1、将校の拳銃
将校の拳銃は自前で、様々な種類があった。銃砲店や偕行社で購入したが、ときは大体、満州事変から日中戦争にかけて帝国日本軍将校は拳銃を下げるようになった。兵器と言うよりは、護身用、自決用であったそうだ。航空機操縦士はドイツ軍のそれをまねてごく小型な拳銃を背中に付けた。将校が拳銃を購入するようになり困った問題は、国内生産では間に合わず、輸入もままならなかったことだ。スペイン製(スペインは中立国だったので)アストラなどが多く見られるが、コルトポケット、ブローニングなどが多かった。熊本で震災があり被災した家屋から少なからず帝国軍人が使用していた拳銃が屋根裏などから発見された。熊本は軍都であったので、退役した軍人や終戦時に持ち帰られたのだろう。
将校の拳銃が私物であったと言う事実を知らない人は多い。
汎用拳銃の収容嚢
十四年式後期型防水帆布製
頑丈な造りだ
十四年式前期型 名前が入っていたので将校が購入したものだろう
二十六年式拳銃収容嚢、これもハードフラップ
2、 収容嚢の製作
従ってほとんどの将校用拳銃はその収容嚢は持ち主の将校がカバン屋、靴屋に特注した。
勿論、大量生産はできないので、銃砲店、偕行社で販売していたものも、手作りで、大体の
形状は決まっていたが、製造する側も実物を観ず、生産したので、細かいところが異なる。
また価格の問題で使う皮革の質や作りが異なる。
武器学校の資料館ではできるだけ多くの異なった収容嚢を収集展示している。
3、 南部小型拳銃(左)とブローニング拳銃の収容嚢
形状は似ているが、大きさが異なる。米国で実物を入れてみたがブローニング拳銃は
左の収容嚢(ホルスター)には入らなかった。
この収容嚢は仕上げの良いイボ皮を使い、作り(縫い)も丁寧だ。フラップを開けると
7mm弾15発入りの紙箱が治まる袋があり、予備弾倉はない。帯にして一発ずつ入れる弾帯方式(南部大型の方式)のも多い。
留め具も丁寧だ。
下はブローニング拳銃の留め具と横に入れる予備弾倉嚢