8 、陸上自衛隊武器学校小火器コーナーの機関銃 3

戦後の機関銃

日本の機関銃は1945年8月15日(占守島などソ連との戦闘を除き)、終了した。
連合軍は膨大な種類、数量の日本軍武器兵器を接収処分した。米軍は多くの小火器は個人の記念品として申請して持ち帰る(機関銃にはこの制度は適応されなかったと言われているが)のと、集めたものを小型船舶を使い近海に処分した。一方、大陸では、日本軍兵器の多くは共産軍の手に入り、共産軍は日本軍が管理していた工廠で1950年くらいまで弾薬を製造してこれらを使用していた。ここにあるものも、朝鮮戦争中に共産軍が使用していたものが鹵獲され、持ってこられたと推定できるものが幾つかある。
朝鮮戦争中日本においては武器兵器の補修修理などの復興が続いていた。その後、自衛隊の前身警察予備隊、そして自衛隊が設立されると、米軍が主要兵器を供与した。(「兵器供与の時代」である。やがて冷戦期には「兵器国産化」の時代に移行した。
武器学校小火器展示にはこの二つを分けて各種、兵器を展示している。

1、 兵器供与の時代

① ブローニング1917 30.06(7.7㎜口径)
大型であった液冷機銃を空冷にして、朝鮮戦争期を通じて一般的に使用された。金属弾帯を使い、その収容箱が良くできていた。200発の弾帯が入り、右から左側に
装填する。箱は丁度、三脚架の高さであり、下に入る。弾帯の欠点は射手だけだと
飛び跳ねて捻じれてしまうことだ。それで助手がいて帯を押さえていた。スプリングフィールド小銃、ガーランド小銃と同じ30.06弾だが、アメリカ軍は小銃の弾丸を機関銃に融通するなどと言う考えはない。使い放題だった。

世界中で使われた廉価な機銃。

2、 兵器国産化の時代

米軍供与兵器は朝鮮戦争後、国産兵器の開発と生産に移り、日本の兵器産業を育成したが、武器輸出三原則により海外に販路を求められない。従ってまずは性能より、価格で競争力がない。兵器は性能、生産効率、価格、これらの多面的な要素が経済的に
価値を決める製品であるから、有事の際には日本の兵器は全てが心もとない状況にある。

① 74式車載機銃12.7㎜ 4條 重量約20㎏

②ブローニングM-2車載機銃12.7㎜

③62式地上機関銃
米軍の新しい実包、7.62㎜を使った。ライフリングは右8條、金属帯給弾、射程1200m、重量3.82㎏ 射程約3800m 分隊兵器としては中途半端。

左は昭和31年に試作、右昭和35年試作 この小火器館には戦後の試作兵器が多く
収集されている。

④ ミニミ軽機関銃
FNの開発、新しいNATO弾、5.56㎜を使った、日本の軽機関銃を思い出させる兵器で、ライフリングは右6條、30発の箱型弾倉、金属弾帯、M16弾倉が使える。全長1040㎝、重量7kg。この機関銃は世界の多くの国で採用されているが、実際の戦闘で使用されていた映像を初めて観たのはイラク戦争である。分隊兵器として他の兵士の行動の際、パッパッと軽快に発射されていた。

現在の世界主要国の分隊兵器

⑤スポッテイングライフル
12.7㎜弾を使い、大砲の照準を合わせる銃。狙撃銃に発展した。

⑥ 96式試作40㎜自動擲弾機(グルネードランチャー)
口径40㎜の擲弾を弾帯を使い装填、自動的に発射するアメリカ軍は採用しているが。全長975㎝、重量24.5㎏、発射速度250-350発。

戦後の兵器は当HPの内容ではないが、研究者に興味深いものがあれば逐次
取り上げて行きたい。