9 、分隊兵器としての軽機関銃の数

ドイツ人の研究家ハンス・クリスチャン・ボーティシュ氏からの質問があり、帝国日本陸軍(海軍陸戦隊含む)の「分隊組織」とその武器・兵器及び弾薬などについてもう一度おさらいしてみた。
帝国陸軍の分隊は10-12名の構成で、NCO(曹長)が指揮をとり、10挺の
小銃(各自120発携行)と分隊支援兵器としての軽機関銃1挺(機関銃手は2-3名、サイドアームは拳銃、騎兵銃など)と小銃を持った擲弾筒手を兼任していた。日本分隊行動の基本は全員が徒歩で車両の活用は限られていた。
部隊駐屯地を出る時の内務班がそのまま分隊になったり、現地で編成されたり
いろいろな発生があっただろう。
各自の装具は鉄帽、背嚢、毛布、携帯天幕、雑嚢(3個の手榴弾)、弾薬蓋、軍靴、被服、脚絆、飯蓋、小円匙、ロープ、2-3日分の携行食で小銃と合わせた重量は30kgくらいになったそうだ。その他に機関銃と兼用する帆布の四角な予備弾薬150発収容嚢が数個(手分けして運搬した)。機関銃手と助手は機関銃の清掃装具、眼鏡、弾倉8個、装填架を持ちサイドアームは拳銃であった。装填架を扱う兵士は小銃手だった。擲弾筒は小銃を持った兵士が背嚢に括りつけて運搬し、砲弾は4発ずつ左右、身体の前にくる二つの収容嚢、これらを2組、16発所持していた。50㎜砲弾だから重い。従って、機関銃(約10kg)、投擲弾筒(5㎏)を担当する兵士の負担は大きく、弾薬は手分けした。弾丸は小銃用、機関重要合わせて、分隊総数約2000発、砲弾は16発、輸送力がないので、食料、弾薬補給が毎日なければ戦闘出来ない、空挺隊なみの装備だった。各自三十年式銃剣は必ず保持した。その代わり、日本軍は夜間これらの装具をもち2-30㎞の移動が可能であった。
では上記のような理想的装備をしていた分隊の数はどのくらいあったか。
軽機関銃の生産数でみると、
十一年式6・5㎜ 29,000-挺
九六式6・5㎜  41,000-挺
九九式7・7㎜  52,500-
九二式ルイス・303㎜ 19,000- (半分は航空機旋回機銃)
チェコBZ26 7・92㎜ 約20,000- (鹵獲品)
計150,000挺くらいだ。
(画像は下、九九式、九六式、十一年式、九二式ルイス機銃)

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擲弾筒は十年式7,000-門、八九式120.000-総計13万門くらいだ。
軽機関銃は重機関銃と3挺の機関銃小隊が中隊以上の単位であったからすべてが分隊兵器ではなかっただろう。
従って、軽機関銃、擲弾筒を装備して主体的分隊は約10万ユニットではなかったか?帝国陸軍には中国大陸に200万、太平洋に200万、本土に200万、満州に100万の兵力を展開していたから、10万と言う数は少ないのではないか?
海軍も陸戦隊の分隊は陸軍をほぼ同じ構成であった。陸戦隊は当初は数千の鎮守府所属のものであったが、艦艇が沈むと予備の人員は陸戦隊に転入させられた。終戦時には60万と言う大兵力になっていた。(当然武器兵器は不足した。)
兵器の生産数でみると10万くらいの分隊であるが、軍の組織は歩兵だけでなく、兵科が多かった。航空隊、機甲部隊、砲隊、工兵隊、医療隊、輜重隊、補給隊、気象隊、通信隊、警備隊などの前線部隊に加え、事務を行う内勤も2割程度は
人員が必要だ。また前線が消耗すれば兵だけ補うなど、小銃、機関銃、擲弾筒はこの位の数であった可能性がある。

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(画像上から海軍陸戦隊、海岸に上陸した、氷上を行く、各分隊)
この項以上
協力:陸上自衛隊武器学校