11、日本のクーデター「ニニロク事件」と機関銃

80年前の昭和14年2月26日の東京は雪が激しく振っていた。
都心でもかなり積もっていた。
現在、港区の新国立美術館の辺りにあった「麻布第三連隊」とその向い、現在のミッドタウンと呼ばれる商業施設の辺りあった「歩兵第一連隊」の門が開き、
約1400名(三個大隊ほど)の兵が完全武装、兵器、実弾を保持して、雪を踏みしめ「ザックザック」と六本木の方に向かい、交差点を左折し溜池方面に坂をおりた。これが日本初の軍事クーデター「2・26(ににろく)事件」である。

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皇居を警備する近衛部隊の一部も参加、いずれの部隊も首都と皇居におられる天皇をまもる精鋭たちであった。
麻布第三と歩兵第一の機関銃中隊(各8挺)も同行した。
ここでの機関銃は『九二式銃機関銃7.7㎜』、弾丸こそ歩兵の6.5mm三八式歩兵銃とは互換性はなかったが2年前に開発され、まだこれらの連隊にしか配備されてなかった新兵器だった。

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機関銃は軽機関銃、十一年式が各分隊に、そして小隊が大隊に、合わせ40挺、重機関銃は小隊に、配備され、中隊と合わせ、この時出撃した約三個大隊規模には40挺以上あったとおもわれる。十一年式は三八式歩兵銃の装弾子をそのまま使える機構であり、九二式重機は保弾板を使用した。
(松本清朝著『二・二六事件』より)

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安藤中尉 威張っていた

普通、『クーデターとは軍のトップかトップに近い人間が指揮を採り、軍事力で
国家の政治を自らの手に握る』と言うことだ。
しかしニニロクの場合はこれほどの大部隊出動であるのに指揮官は尉官クラスであった。しかも交代したばかりの内閣幹部、議会、官僚、マスコミ、財界、
軍まで社会全体を相手に武力で制圧すると言う非現実的、乱暴で、計画性に欠ける内容であった。しかも当日は大雪が降り、行動が制約された日になり、叛乱軍の拠点は永田町近辺に限られた。下首相官邸

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決起文

ただ、九二式重機関銃をこのような街の真ん中で発射すれば、大変なことになることは容易に想像される。実際、首相官邸は下から天井を撃たれ、シャンデリアが落下した。

写真を観ると、九二式重機は通常携行弾1万発だが、機銃の後ろの弾薬箱からみると2000発くらいの規模だった。連隊にはそう多くの弾薬は置いてなかったのだ。続けて発射すれば1分半くらいしかもたない数量だ。

数年前の5・15事件の際に犬飼首相ら数名が殺害されたいきさつから、警視庁は拳銃を装備した特別部隊を用意していた。
だが、九二式重機の前には.32口径のアストラカブ拳銃などは役に立つ武器ではない。警視庁はたちまち降伏した。

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警視庁特別隊

天皇の判断は早かった。
叛乱軍は規模的にみて、また近衛師団隊員もいたことから、方針は「皇居を占拠、昭和天皇の直接指揮のもとに政治を行う」つもりであったのではないか?
しかし昭和天皇は重鎮が殺されたことを怒り、叛乱軍鎮圧を指示、九段会館で鎮圧部隊の結成が行われた。どこから鎮圧隊は兵員と武器兵器を集めたか。首都防衛の連隊、部隊、例えば習志野などであったのであろうが、2日後には、
1、 四年式榴弾砲中隊 2、八九式戦車中隊などの重武装の兵力が見られる。
これこそ拳銃で対抗の上の上を行くものだが、中には正規軍がどうか怪しい、棒の地上機関銃も見られる。これは首都という土地柄、民心を安心させるのが目的であろう。訓練用機関銃かもしれない。

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棒の機関銃

一方帝国海軍も東京湾に戦艦長門ほか40艦艇を配備、叛乱軍に砲の照準をあわせ、 芝浦にクロスレー装甲車2台、三年式機関銃を備えた陸戦隊を上陸させた。

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八九式戦車

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四年式榴弾砲

帝国陸軍は、ラジオ、アドバルーン、ビラなどで野外にいる叛乱軍に降伏をすすめた。

かくして、このクーデターは4日間で終了したが、
1、 この10年後に日本は崩壊した。
2、 計画が粗雑で荒い。
この2点から、「ニニロク事件」の背景を日本が国家、社会として過小評価した。
現在も歴史上、軍国主義化の発端としての二二六事件は重い存在とは思われてない。機関銃だけが目立った。
(この項以上)