1 、鉄錆地当世具足・甲冑の例(桔梗紋)

この甲冑・鎧兜は江戸期の製作であろうが、形状は南蛮甲冑の影響を付けている。
特徴は、5枚胴、横引7枚桶側胴で、一列ずつ鋲で止めてある。中央に角度が付いており、
形が良い。上から頬当て(面頬)から脛当てまでの全部分は保存状況が良い。籠手、脛当て、佩楯の鎖を比べてみると同じものであろうと見える。西洋甲冑の特徴は中央正面が膨らみ線となっていることである。また小物の旗印からこの家は桔梗紋であったが、甲冑にも細かいところに桔梗紋が入っている。非金属部分、布、皮の下地に入った模様はうえから下まで同じものだ。甲冑や小物には合わせ物と言い、異なる部品を合わせたものが古くからあったので、これらが「一作」、元々組であったかを検証する。

兜は16間同じ作りだが、形状の異なるものふたつある。一つは江戸期の形状で、これには天井に八幡座があり、庇には3個の鋲、もうひとつは胴の形と合った戦国期の経常で拭き返し(庇)には鋲が5つある。前立ては共通なものではない。この獅子面の前立ては平たいほうには付かない。

(古文書の参考図)

兜1、胴と同じく鉄錆地であるが、しころは5枚。皮札であろう。軽い。八幡座(天辺の座)は5重になっており、金メッキの部分もある。上の穴は直径20mm。兜の高さは約17㎝、前後長26㎝、幅23cm。拭き返し(庇)は60㎜でているが、角度は浅い。鋲3個。わき立にも紐の飾りがついており、

高さ7・5㎝、幅7㎝。こちらの兜のほうが内部の様子から使い込まれている。江戸時代の形式である。

兜2、鉄錆地であり、しころは4枚。八幡座は簡単ながら頑丈なものだ。16枚の鉄の曲がり飾り、天井も鉄。外径3㎝、穴2㎝。拭き返し(庇)は60㎜出ているが角度が付いており、戦国期の形状という。側立は高さ7㎝、幅6㎝、シンプルでここだけ茶色の漆ぬり。形状の時代は笠間 良彦「日本甲冑事典」146ページ写真より
1と2は同じ作であろう。鉄の質、工作、糸その他細かいところに共通点が多い。

前立がある

面頬は、所謂「越中頬」と言う形状で、顔全体を隠すものではない。顎から頬にかかる。
鉄板には細い横筋が入りまん中には桔梗紋、横の板、5×3㎝の左方「耳」が欠落している。

古図面からの例

垂は、ここだけ紐が新しい作だ。模様は合っている。「鼻」が別になるものもあるがこれは装着する部分がない。

置袖は横27x20㎝、7枚のつづりだが、重量からみるに鉄板で出来ている。左右互いに反対側の籠手と装着するように出来ているが、紐の長さが合わないので、ここに入れる接続紐があったのであろう。下の板の飾り紐は2列、前部赤である。退色しているが。

 


左右は同じである

籠手は左右完全で、寸法は全長64cm, 上幅22cm、手首の周囲25cm、手首より先16㎝、丸桔梗紋直径25㎝

 


古文書の籠手、下の部分が異なる

籠手は袖手、手甲部分すべてを手作業で製作すると推定ひとつ数100時間はかかるのではないか。親指の先が稼働できるようになっている。刀や槍の操作に重要な握りの力をそがないためにだ。あとの4本の指も指先だけしか出ない。しかも曲がる。手甲には「桔梗紋」が入っている。ひじ金は三重だがやはりまん中は桔梗紋、瓢(上拍部を守るところ)のひょうたん型の鉄細工は割に大きなものだ。しかし細工は細かい。10本の筋と大小4列の10個の丸。瓢箪の上には小板と言われる5×3㎝ほどの鉄板が付いている。鎖は基本形で外直径5㎜のものを四角つなげてあるが、鎖の数は恐らく片手で4000個ほどになるだろう。腕の下を守る部分には5本の長さ15㎝ほどの篠(鉄短冊)が入っているがこれも強度を増すために2本の太い筋が入った細工である。「ひじ鉄をくらわす」の言葉はひじ鉄からきたものと思われる。籠手は戦闘で一番重要な部分でこれが自由に動かないと武器が扱えないしかしこの甲冑では鉄砲の発射は出来ても装填が出来ないと感じた。

 

袖部分の各所

胴は5枚を身体に巻きつける方式である。「仙台胴」とも言われる。縦40㎝、横幅はまん中の筋から左右12㎝ずつ24㎝。8枚の鉄板を横にして繋いだ桶側胴だ。鋲は5個の列4列と、4個が4列。形が良い。後部も同じ作りだ。右の一枚と左の二枚は横板5枚で鋲は4個である。ここの大きさは上に腕が入るので、20㎝x20、右は前後と繋がっているが、左の2枚は1枚ずつが前後と繋がり、身体に巻いてから紐で結ぶ。後ろが上に来るようにすると言う。大きさは2枚を組合すので、高さ20㎝だが幅は12㎝。

横と裏

胴の上、後ろが挺番になっており、そこから首を挟むように前に被せる部品がある。
仙台胴、雪下胴に多い方式で肩上先に杏葉を挺番を付けとして高紐の被いとした。(笠間 良彦著「日本甲冑事典」85ページより)
肩を打撃から守る部分だが、これが胴の前の革帯に引っかかる。これ以外にもその上に皮帯の細長い輪があり、それが挺番だけの固さ、弱さを防いでいる。非常に凝った設計だ。
胴の鉄板の厚さは裏に貼り物と漆が掛けてあるので正確には図れないが合わせの部分を観察する限り2㎜位と推定できる。


古文書にある胴の名称

下散は小札上下5枚ずつの板が2本組5本の紐でつり下げられている。これが前は3組、後ろも3組、軽い、寸法は上下12㎝、幅18㎝、ひとつが皮紐24本で胴に付ける環に装着されている。胴を廻る環は幅が3㎝あり、長さ50㎝、前後2個。環は鉄製であろう。皮革の紐で胴に固定する。皮革の紐、小札板を下げる紐の状態は良い。模様も他の紐や布と一致している。皮紐の部分には刀帯やその他の帯を巻いてさらに胴を身体に固定する。裾板の紐飾り3列は全部白である。この部分は「草ずり」とも言う。

草ずりは同じものが前後2組ある 古文書に記されたものは「腰巻」とある

佩楯(はいだて)は両足に分かれ、裏で脚に止めるようになっている。上下に分かれており、下散に隠れる部分は布だけである。その下は鎖地で、前の布の輪で帯に、後ろの紐で身体に固定する。全体の大きさは幅54㎝、縦57㎝のほぼ正方形で、鎖部の縦は33㎝あり、腿の部分を保護する役目がある。真ん中が両足の運動のために開けてあり、各々に袖と同じ鎖構造になっている。布の模様は述べたように袖と同じものが使われており、さらに短冊型の鉄板も同じ意匠で造りである。若干長く、袖が45mm、佩楯は55㎜である。枚数は各10枚。そでのひじ当てに当たる部分に膝当てがあり、これらも基本的は同じ意匠、同じ作りであるが、まん中の丸、直径約20mmが袖は桔梗を意匠してあるが、膝は細かい線である。裏地は柿渋染めの麻布である。

古文書においては「踏み込み」と称していた

脛当(すねあて) 下地は32X32㎝の布地、上の部分は丸型の金属板を縫い込んだ下挙(少し痛みはある)と長短7本の篠(短冊)、外側4本が長く、内側3本が短い。内側下には約10㎝角の赤い皮が当てられている。真ん中の23㎝ある太い鉄部には3個の桔梗の家紋の飾りが入れられている。鉄の短冊は中央が尖り、外から内に湾曲している。上部の皮革部に紐で包んだ鉄部(立挙)は21個ある。細かい細工だ。足元の内側は撃たれるところでなく、運動性を重視した。この部分を「かご摺り」とも言う。紐(緒)は上下に各2本あり長さは二重に巻き前で結ぶようなる。

 

裏は柿渋の麻布、古文書では頭の部分を「十主頭」と称していた

全体的にみると、この甲冑、バランスは言うまでもなく、鉄質、その時代、紐、鎖、革紐、小札、布、亀甲立挙など多少の補修はあったかもしれないが、元のままであったものだろう。紐を赤白に組み合わる、白だけ、赤だけなどと意匠してあるが。下地となる布部分は「家地」「家布」とも言い、その模様は同じものである。この甲冑に使われた菖蒲に意匠したような形は多く使われている。布地は全て同じ時代のものと見てとれるが、皮革紐部分はそれより新しいのではないか。

日本の近世の甲冑はまだ布や皮革、鎖部分がもっているが時代を経るにつれてだれがどう補修するか、大きな課題である。
(以上)