4 、刀と切っ先

1 刀編

日本刀はどんなに長いものでも、その切っ先が品格を表すと言われている。
外国のブレード武器と違う点は刃への焼き入れだ。刃の焼きがくっきりと見えている。いろんなパターンがある。それを楽しんできた文化があった。
そして切っ先にも焼きが入り、その焼きは「帽子」と呼ばれ、上にも返っている。それを誇ったのだ。以下、幾つかの例。

1、 細い直刃の刀
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image003鞘は木製である。刀身は研いでない。拵えはきれいである。35年ほど前、刀剣博物館で観て貰ったところ、「古三原」と言われた。長い64-5㎝ある。

2、 明治軍刀拵えの刀

刃長は短い、61㎝で、西洋式の拵えに日本刀が入っている。しかし
日本的なのは握りだ。西洋のサーベルは片手で握るがこの刀は両手で握る方式だ。

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刀身は古刀だが残念ながら程度はあまり良くない。中くらいの直刃、研いでない。拵えは健全だ。

3、 紀州銘の新新刀

軍刀拵えであるが、大分使いこまれている。刃は研いで貰った。焼きは綺麗に出た。

image006 紀州切っ先

太い直刃であり、痛みも、欠けもなかったが帽子の返りも明確に見える。重い刀である。長さ65cm

4、 加賀の刀

これもオリジナルの拵えでその状態は良い。刃は赤錆だったので研いで貰った。
細直刃で、ほとんど反りのない刀身だ。長さ64cm

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5、 肥前の刀

軍刀拵えに入っていたが、龍の一作で新たに拵えを作った。鍔は「若芝」だ。辰年生まれの長男誕生を祝ってだ。(本人は何の関心もない)刀身は欠けがあるが、研ぐまでのことはない。何よりも銀座の綱取のオヤジ(故人)が「あんたの刀ではいちばん良いが、偽名だと」言った。ぐの目の豪快な刀で反りも良い。65㎝。

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6、 伯父の刀

美濃銘の古刀、長さ62㎝、細身で大分疲れている。彼は中国奥地から武漢に向かう飛行中、戦死した。昭和19年11月末。もう1か月生き延びれば航空機もなくってしまったのに。故郷、和歌山に二つの軍用こおりが届いた。その中に二振りもっていたうちのひとつ、この刀があった。日本軍占領地に墜落したので、遺骨も帰った。しかし戦争も末期、武漢から上海、そして東シナ海を経てよく私物が戻ったものだ。戦争初期にはこの刀を下げていたが、戦死した時は地上においてあったのだろう。祖父に青木司令官から伯父の戦死に関して私信が届き、祖父はそれを印刷して(物資のないときだったが)知人、親戚一

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同に知らせた。焼刃はほとんど残ってないが細直刃である。弟である叔父が研ぎに出した。

2 短刀

1、錆身だった短刀

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昔、欧州を旅している時にフリーマーケットで見つけたものだ。外の金具も錆いたくらいだから、身は完全な錆身だった。ただ錆が全体にあり、深いものはなかった。柄は糸巻きで珍しいと思った。目抜きが蝉で、表が成虫、裏が幼虫としゃれている。ふっかけられたⅠ万円位。購入してのは、研ぎ師に心当たりがあったから1だ。コネチカットにいた頃、家に乗りつけてきて錆身を買ってくれという人が時々来たが、空港での煩わしさ、研ぎ師が亡くなり、当然息子は跡を継いでないからどうしょうもない。研いだら案外良い身だった。

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2、南紀重国との銘

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まだ刀を観る目がない頃にサンタモニカで手に入れた。1970年代、あの辺りには日本のものを扱う店が幾つもあった。この身は研いでない。当時のままだ。
柄巻きだけはやり直し、休め鞘も造った。何も分からないから日本の業者の言う通りにした。ただ、徳能一男先生が羽田で登録証を発行してくれ、若手の刀剣研究会に入らないかと誘われた。
これはただ単に刃身の迫力に圧倒されたから手元にあるだけだ。

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2、 自分でデザインし新たに製作した拵え
恐らく、刃身も金具も良いもので、家の家紋である五三の桐だ。しかしこれらが一作であったのかは確かでない。

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昔、家には刀剣は沢山あったと父親、叔父は言っていたが、現在従兄弟家には脇差が一振りしかない。彼はそれを観ると必ず頭痛がするので、出さないそうだ。熊野古道の山のなかだった。現在は神社も家も学校も全部、山林になっている。

 

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(この項以上)