1 、大型投擲兵器と日本

火薬を使わない投擲兵器とは木材や金属のしなりの反動、錘、巻き戻しなどの物理的な力で人間が投げることのできない大きな物体を投擲し、人員殺傷、城壁や門の破壊を目的とし、ローマ時代から使用されていた。固定架台、車輪付台に載せられていた。
城壁戦が主流になる中世初期に発達し、何種類もの投擲兵器、投擲物体があり、
欧州とイスラムの戦闘、イスラムがアジア、中国に持ち込んだ。
(13世紀、元の南宋攻撃にイスラム人により使用されたとの記録がある。)
岩石だけでなく、鉄籠に燃える素材を詰め込み、火を付けて飛ばす所謂「焙烙玉」も使用した。あるいは腐乱死体などを投げ込み疫病を流行させたとも言われるが、これは自軍側にも危険性が大きく疑問がある。

大型投擲兵器の種類

バリスタ

バリスタ

バリスタ

石弓を大型化したもので、矢が丸太のような太いもので、主として、門などの破壊に使われた。3kgの矢を350m飛ばした。

カタパルト

カタパルト
カタパルト

現在、空母の航空機発進機に使われた名詞で、第一次大戦中、手榴弾の投擲にも使われた。原則的に材料のしなりの反動を使い、石を飛ばしたもので、柄を止める高さで距離を調節できた。4kgの石を350m飛ばした。

トレビュシェット

トレビュシェット

トレビュシェット

十字軍の最後の戦い9回目、13世紀や、欧州内の戦闘、14世紀にはこれらの大型兵器は攻城戦に威力を大いに発揮していたが、14世紀火薬が発明されると(ロジャー・ベーコン)、火薬で物体を飛ばし、構造物を破壊するために使用されるようになった。初期の砲は、砲身に砲弾、筒状を被せる方式だった。
爾後、ボンバードとよばれ、銃口から着火させたり、フランキ(イスラム人が指すヨーロッパ人)後装式であったり、欧州だけでなくイスラムでも積極的に採用された。鉄砲式、前装も砲が出現するまでの一時期のものだった。

その着火

その着火

 

初期の後装砲の例

初期の後装砲の例

ブリーチと呼ばれる部分に火薬と砲弾が入っており、エッジと呼ばれる楔で押さえた。この砲の架台に注目して欲しいがこのような細い柄では強い反動を受けとめることはできない。つまり威力のない兵器で、主に対人用に使用されたようだった。

フランキ砲の子砲(鉄製)ポルトガル軍事博物館

フランキ砲の子砲(鉄製)ポルトガル軍事博物館

この頃の砲の弾丸は石で、中国にイスラムが伝えたとき「砲」と書いたそうだ。
燃えるものを使った焙烙投擲兵器を「炮」と記したとする説もある。石は石で造られた城壁にはあまり効果がないので鉄製の弾丸が使われようになった。
(洞富雄博士談)
欧州では石の砲弾を飾りに町の中心や建物の入り口に置いてあるのを見るが、固い石である。砲腔に差し込まれる部分の形状に注意。横にエッジ(楔)を使う。
この部分を正確に描いたのは有坂鉊蔵氏「兵器考」だけである。

日本では使用されなかった大型投擲兵器

以上が大体16世紀初頭まで、欧州やイスラム勢力、もしくはイスラムから伝来し中国で使われていただろう大型投擲兵器の例であるが、日本では「応仁の乱」(15世紀、京都を中心にした)でカタパルト投擲兵器が使われたと言われているが、その記録は見ていない。
従って、この後、時代がさがり、出現したフランキ(仏狼機)砲とほぼ同時に伝来した小銃、鉄砲の製造や使用がまたたくうちに広まったのとは対照的であった。
この背景は何であったのであろうか。
大型投擲兵器は主に攻城戦に使用された。後装砲は船舶戦に使用された。
「そのような戦闘体系が日本になかった」、と言うのはひとつの理由だ。また初期のフランキ砲のような閉鎖が不十分で威力のでない砲の役目は、人間が操作できる大口径鉄砲で果たすことができたのも理由の一つであろう。
いずれにせよ、16世紀後半、日本は「鉄砲文明」、つまり鉄砲の開発、製造、運用、の規模が桁違いに大きくまたそれらを支える兵站思想も確立していたからだ。

大友家のフランキ砲、

大友家のフランキ砲

あまりにも完成された鉄砲が砲の代わりをした。と言うのが日本の16世紀の現実であったと言うことは考えられる。
また対象となる、平城、艦船(同時に砲の一番扱いづらい難点、移動をつかさどる)の活用が少なかったからだ。
日本で一番、熱心に大砲活用を言ったのは徳川家康であると言われている。
しかし彼の時代が終わると、戦闘もなくなった。(藤原彰著「軍事史」)

戦国期から幕末まで使用された。欧州がアジアで製造したものと推定され、10門くらいあった。下部の架台への支柄を観察するに、威力の大きな砲ではない。
(宇田川武久博士発表、北方領土で鹵閣された砲)

国産鋳造砲の内部

国産鋳造砲の内部

砲腔が曲がっていて実用にはならなかったろう。これを鍛造(フォージド)とする説もあるが有坂鉊蔵氏、吉岡新一氏は鋳造としていた。
いずれにせよ、現存する江戸期以前の日本の大砲は極めて少ない。これは日本には「大砲文明」が存在しなかったことを証明しているのではないか。
以上。

スケッチは「Artillery Through the Ages」1947年より。