2 、中世、大砲の定義と実力

概要)12世紀ごろの欧州とイスラムの戦闘の中で生まれてきた大型投擲兵器と火薬、(火薬は投擲兵器の焙烙弾(焼夷弾)にも使用されたが)その結合が金属筒の中で火薬を燃焼させ、石や金属弾を飛ばし、城壁、建物、船舶、人員の殺傷に使われる「砲」として発達した。初期の砲は製造方法も、点火方法もまちまちであった。当然、能力的にも大きな差があった。

1、砲の起源を定義

砲の起源を定義するなら、砲は火薬を筒に詰め、その燃焼力ガスで石弾を飛ばすものに変化した。従って「砲とは金属筒の内部に火薬を装填し、その前に石弾を込めて発射する兵器」と定義されよう。
これらは、欧州、ならびにイスラム勢力とその勢力圏内だけの兵器であり、大型投擲兵器の存在しなかった地域には砲も出現しなかった。日本においては大型投擲兵器、少なくとも長さ10m以上の柄をもったカタパルトなどはなかったので、このような砲も大規模に存在しなかったと言って良い。西欧、イスラム圏では小銃より大砲が先に出現し、大砲をだんだん小型化することで、小銃になった。(John Norris著Gunpowder Artilleryより)また初期の砲は装填の困難さを考えて、後装式が多くあった。これは欧州の開発だが、広くイスラム勢力圏でも使われた。イスラム人が欧州人を「フランク」とよぶことにより、「フランキ」とよばれ漢字では「仏狼機」と当てられた。
砲は欧州ではバルカン半島、ニュールンベルグ地方で製造が進んだと言われている。これは戦闘がこの地域に多かったことによる。砲の難点は移動であったからだ。

フランキ砲各種

2、実用になる砲の条件

①筒の強度 完成しつつあった初期の黒色火薬の燃焼ガスに耐えられるもの。
②装填時間 装填までの時間 数時間という記録(武器学校資料)もあるが、20分間くらいで次弾が発射出来ないと実用的ではない。
③架台の確実性 現在残されているものは砲身だけが多いが架台がないと、砲弾がどこに飛んでいくか予測がつかない。
④砲身と架台の固定 砲耳など架台に砲身が固定されなければならない。
⑤反動の処理 駐退後座機能 発射した砲を架台が受け止め、それを効率的に元に戻す機能があること。
⑥照準と命中率 砲身を使い方向を定め、角度と発射薬量で弾丸の飛ぶ距離を
計算する。
⑦装填と発射の安全性。特に船舶からの発射では事故は自爆を意味した。
⑧弾丸の強度 初期は石弾だったが、城壁などの破壊を目的とするために貴重な金属弾が使われた。
これらの条件を満たしたもの、満たしてないもの、様々な方式のものが製造され、後装で子筒を楔で固定するもの、砲身が二つに分かれねじで結合するものなどが13-15世紀に存在した。後者は大型であったが、移動が困難で、発射弾数は1日間で1-2発とも言われた。前者は子筒を幾つか用意することで、発射準備時間を短くすることができたので、多量に製造された。しかしガスが有効に使えず、威力のあるものではなかった。砲身の支え柄を見ると分かる。
15世紀ごろの鋳造した筒に丸い石を弾丸として発射する後装式砲は、少なくとも40kgくらいの石を200m離れた船舶、城壁、10m四方くらいに半分の確立で命中させる能力があり、数分で次弾が発射、最大射程距離は1000mくらいで、移動できたものではないか。石は発射の際に壊れやすいので、やがて金属弾に変わってきた。ダーンハルト博士の実験では800mの射程を得たという。

ダーンハルト氏と中世の砲

その推定の根拠はそれまで世界に広く使われていた、カタパルト、トレビシュットなどの兵器が数十kgの石や可燃物を300m飛ばす能力があり、東洋でも元の時代、南宋攻撃に使用された。イスラムにより内陸から伝達された。
恐らく中国ではこの種の投擲兵器を相手の構造物や人馬を燃やす弾丸も発射したから、「炮」と言い、それ以後の筒状で火薬を使用して石などを発射するものを「砲」と言ったのではないか。(洞富雄氏談)
欧州の博物館には火薬、筒を使用しない投擲兵器とその弾丸は良く見られるが日本でこれらが使用された痕跡はないのでは。日本の古文書に記述はあるのであろうか?日本では砲を「石火矢」と呼んだ。投擲兵器が燃える投擲物を多く使用したのに対して、相手を破壊しる個体、石を使用したから、そう呼んだので砲のことを指している。(有坂著「兵器考」には投擲兵器の中国への伝来、石を弾丸とする砲の伝来は詳しくある。)日本では大型投擲兵器を使用してなかったことが砲の発展の基礎がなかった軍事状況であると、Iで述べた。

3、砲の製作方法

砲は基本的には鋳造であった。鉄よりも砲金という青銅合金を使用した。溶解
温度が低く扱い易く、材料も多く存在した。下の画像の例は鉄製鍛造である。
短冊形の鉄板を並べて砲身を作り、輪を幾つかはめて強度を増やす。
青銅は銅に錫を一割程度まぜ、固さを増した。ポルトガルが15世紀末、インド
のゴアに工廠を作り交易品として砲を製造し、持ち歩いた。日本にきたフラン
キ砲は宇田川先生の発表にもあった通り、その飾り模様がポルトガルのものと
似ている。ただ、16世紀半ばの日本に砲は入ったことは事実だが、鉄砲の
ように大規模生産運用は為されなかった。この理由の一つは堅ろうな城塞の有
無と関係があったのではないか。
ゴア工廠では1万門の砲、銃を製造することを目的に主にセルビア地方の職人
を送り込み、インドに産する銅、錫、鉛などの金属材料を活用することで計画
され、製造された砲は東に運ばれたが、マレーに北から降りてきたイスラム勢
力との衝突は絶えずあった。

ポルトガル軍需博物館蔵大型のカノン砲であった。

ポルトガル軍事博物館

4、フランキ砲

フランキ砲の定義とは初期の後装砲であり、砲身後部の上が開いておりそこに
子砲装填筒に火薬と砲弾が装填されたものを挿入し、楔で固定、発射する。し
かし、砲口径と子砲の口径が同じに製作されたものはない。15世紀末から16
世紀にかけて欧州を中心に製造、使用された。主に船舶砲であったと推定され
る。特に東洋で盛んに使われたこともなく、性能上の問題からごく短期間の使
用で、19世紀半ばまでは前装砲が使用された。子砲、装填筒の現存する実物は
非常に少ない。

子砲は挿入されて装備されているが、楔が欠落している。鉄製の砲。

日本では大友宗麟が贈られた、購入したかは不明だが、10門ほどの同型の青銅

砲があり、そのうちの1門が存在し(装填筒は欠落している)、現在まで書かれ
た資料では威力がある、戦闘を変えた、とかなり肯定的に取られているが
果たしてそのような実力があったのであろうか。
挿入部に注目、子砲(装填筒)の先は、段差が付いて砲身におさまるような仕
組みだが、またその先にはテーパーの付いた部分が数㎝あり、砲身に挿入さ
れる。発射ガス漏れを少なくする工夫だが、見てのとおり砲腔径と装填筒の径
には大きな差があり、発射された弾丸は砲身内を転がるように飛んでいき、正
確な照準はできない。ちなみに、この際は係員の許可を得て、測定したが、口
径50mm装填筒径25mmくらいであった。支柄が細いので対人用、もしくは下
の画のように曲射的な使用をしたのであろう。

「兵器考」に掲載されているフランキ砲。仰角とつけ発射しているが、命中率に問題があったのだろう。また威力も優れた兵器とは言えないものであった。

装填筒の縁が実物と異なる。段差があり、さらにテーパーがかかってなければならない。
この図をもってしても装填筒(子砲)の内径は砲の内径よりかなり小さくないと、発射に耐えられない。またガスのもれは何十%にものぼるだろう。

宇田川武久著「鉄砲と戦国合戦」佐竹家の砲。装填筒の図、このような仕組みだとそうとう精密に製造してないとガスもれが起こる。

同、毛利家の砲。子砲の図がないが長さ35cmくらいとしているので遊就館の
大友家のものとほぼ同じ大きさ、尾部に鉄の棒が出ていてそれをもって操作した。宇田川先生の発表にあったが、保谷 徹教授が幕末、北方でロシアに鹵閣されたフランキ砲などの武器を見てきたことに関し、江戸期の武器兵器管理の
仕組みから、旧式、中世の兵器を19世紀まで装備していたのだ。

5、艦艇の発達と大砲の進化

砲の進化、大型化は、15-6世紀、欧州の大航海時代の艦艇と大いに関係がある。1571年、レパント沖海戦。キプロスを攻略したトルコ軍とキリスト教徒軍との大規模な海戦のころには、西欧の大航海時代艦艇形状とその武装はまったく違ったものになっていた。艦艇はガレオン船と呼ばれ、船底の部分が厚く、長く、後部がもちあがり、1-2列の砲列を備えていた。これらの艦艇と砲の組み合わせがなければそれから何世紀か続く西欧の優位性はなかった。砲は4つの車輪をもった砲架に載せられ、主にロープを使用して後退駐座を行い、左右の砲列は互い違いに配置され、発射すると砲は艦艇内に後退し、再装填された。
当然、日本人もこの種の艦艇のことは知っており、1613年に石巻で建造された
伊達藩のガレオン船は太平洋を渡り、メキシコとの間を往復した。

スペインのガレオン船
当然、日本のガレオン船にも砲は搭載されていたであろう。

北斎が18世紀に描いた砲架

この種の砲架が艦艇には使用されたが、日本では鎖国令(1633)とともにガレオン船のように武装して遠洋航海ができる艦艇建造は禁止された。
これも日本で砲が発達しなかった歴史上の大きな理由のひとつであろう。
ガレオン船と砲架に搭載された砲、これらは近世の幕開けを象徴したひとつの現象であった。日本はこの軍事現象に完全に乗り遅れた。以上