3 、アメリカ独立戦争時代の砲艦遺跡

アメリカ独立戦争時代の砲艦遺跡


発見された当時とほとんど同じ

18世紀半ば、英国とその植民地であったアメリカは、植民地管理が原因で険悪な状況にあり、ボストン茶会事件を機に、それまで地域単位組織されてなかった軍隊が民兵を主にかなり大掛かりな軍備を行い、要塞の建設、民兵の組織化砲や小銃の製造などが行われた。最終的には海上では圧倒的な装備をほこる英国軍には勝利することはなかったが、ジョージ・ワシントンが率いる独立軍が1776年に独立宣言を勝ち取った。それから半世紀もしないうちに日本近海にロシア、英国などの外国船が活動しだし、幕府を脅かした。さらに独立国になったペルー提督と黒船が日本の歴史を変えた。下、人間の大きさと比較して。

この砲艦は独立戦争でつかわれた平底で外海に出て行くものではないが、入り組んだ海岸線を防御するものとして造られ、4門の大砲を装備していた。「フィラデルフィア号」と言い英軍との戦闘で淡水のところに沈められ、1935年に発見された。第二次世界大戦後、復元と研究が行われた。現在はスミソニアンのアメリカン・ヒストリーミュージィアムに展示されているが、一部復元されただけでほぼ完全な姿を伝えている。砲艦であるので、帆は横にはる大小2本マスト。沿岸警備が目的であるが、日本には同じ時期、おそらく同じような考え方すらなかった武器兵器の例だ。

9ポンド砲

砲艦は長さ15m、幅5mくらいの平底で、艦首に一番大きな砲12ポンド砲が据え付けられている。全長およそ3m、底部直径50cm、前部25㎝、口径は12-3cmである。この砲は駐退するに架台が木製のレールを後部に滑る。左右には左右互い違いに全長2.2mほどの9ポンド砲、口径約9cmが2門。架台は各々4個の車輪で駐退摺る仕組みである。これら3門の砲は砲身の角度を変えるには砲身後部に木製の楔をいれた。

舷側には口径は8ポンド強と大きいが全長は1mほどの接近戦闘に使う砲がひとつあり、これは舷側を移動して使用したが駐退機構は舷側のしなりしかない。葡萄弾、散弾などを詰め接近戦闘で使用するのが目的であったろう。
架台に載った砲は、日本の大鉄砲などに比較すると砲として機能が異なり、鎖国をしていた日本にはこの程度の技術もなかったと考えられる。観察するにかなり実戦的で、砲弾を熱するために甲板上に煉瓦のかまどを設置して熱して赤くなった砲弾を敵の木造船に打ち込んだ。
また、駐退機構からもかなり強力な砲であり、砲弾の直進性も2-300mはあっただろう。砲艦が航行中は平船で喫水が浅いので、砲口には木栓がしてあったそうだ。その時にはすでに火薬や砲弾は装填してあったのかもしれない。
鉄の砲弾は完全な球体ではなく、多少凸凹している。また大きな砲弾は砲腔の途中でつかえるとやっかいなので、簡単なゲージも装備していた。

 

砲の砲耳に注目して欲しい。砲には無くてはならないもので、これがない大鉄砲は砲には成りえなかった証左であろう。

 


新しい建物に入り、とても見易くなった。

この博物館には他にも興味深いものが多く存在し、例えば下の例は米国独立軍が英軍から鹵閣して野砲の砲身である。残念ながら架台や車輪はないが。
赤み掛った合金製で全長約1m、口径は8cmほどの携帯に便利な小型砲。
しかし砲耳の直径が口径と同じくらいの太さがあり、この程度の砲が19世紀になりしばらくして幕府が盛んに鋳造したものであろう。なお砲艦も含め以上の
砲が炸裂弾を使用したかは不明であるが、学芸員のディビット・ミュラー氏と
アポを取って行ったので、彼に聴きながら加筆する。

 

なお砲艦[フィラデルフィア]号には30人くらいの兵士が載っていたと推定される。沈没したのは左の喫水線に英軍の20ポンド砲弾が命中して沈んだそうだ。

以上