4 、南北戦争と戊辰戦争の大砲
南北戦争1861-1865年、戊辰戦争1868年、「甲鉄」などの艦艇や様々な兵器がアメリカから恐らく欧州の武器商人(南部連邦は欧州に借金があったから)を通じ日本に来たに違いない。ピーボディマルティーニ銃11㎜などは多量ではないが、最新式のレバーアクション銃として日本に輸入されていた。南北戦争と逆で、幕府が発注して倒れてあとも明治維新政府が輸入を引き継いだ。
手前から臼砲、山砲、野砲
それゆえに幕末・維新期における日本の武器兵器はアメリカ南北戦争の影響なくしては語れないと、今回、バージニア州、ウエンチェスターでは特別に依頼し南北戦争時の3種類、大砲発射を経験させて貰った。
それらは1、口径20cm中型臼砲 2、所謂ナポレオン砲12ポンダー野砲、
3、小型山砲、もしくは榴弾砲、6ポンダーである。これらの大砲がすべて
当時のオリジナルか、また改修されたものかは確かではないが、発射実験としては当時と同じ方式で、訓練弾(プラクテスラウンド)と標的を使用し本格的なものであった。演武の空砲とはまったく違うものであるが、また実戦の実弾とも違う、中間的なものだった。また今回はコンフェダレート南軍方式で行ったが似たような兵器は両軍共使用していた。結論から言うと幕末の日本の大砲文明の水準をはるかに超えた規模、性能であったことは否めない。
戊辰戦争のほうが後だが、南北戦争では砲の使用は比較にならない規模だった。
1、 臼砲は総鉄製で、これと同じような巨大なものが写真に残っている。
今回のものは架台が150x58㎝、砲身は外径44㎝、口径20㎝、砲腔長は44㎝であった。中型だろう。また砲耳は直径25㎝で、車輪のない臼砲の宿命で大きい。砲耳を押さえている鉄帯の幅だけでも8㎝あった。「サージモーター」攻城迫撃砲とよばれ、「PULUISON BROS’」の刻印があった。砲身の角度は3段階に棒を梃子にして変えられる。
臼砲
木製の三角定規を使い、角度、つまり距離を設定する。方向は架台ごと2本の太い棒で動かす。この砲弾は48ポンドあり、火薬は9オンス(500g)くらいに見えたが、それに着火吸う方式はフリクションプライマーと言い、細い筒に針金が入り、それを引っ張る時の摩擦で火薬が発火するものだった。針金を引く紐は3mほどで、柄を握り腹に固定、身体をねじれと言う。身体をねじると結果的に発射の際には砲に背中を向けていた。砲弾は上に数十m上がり、放物線を描き標的の箱の手前に落ち、大きな土煙が上がった。もし信管の付いた実際の戦闘に使った炸裂弾なら大爆発が起こったはずだ。今回の練習弾は地面に深く入り回収は不可能とのことだった。
2-3発撃つと音にも慣れる
2、 大型野砲 巷で見るナポレオン砲より少し大きい。いろんな形があった
のだろう。架台は240㎝あり、車輪の直径は140㎝、これは普通だ。車輪には14本の柄があり、二つの車輪の幅は160㎝。砲身は184㎝あり、ロットマン砲の形式だ。ライフルは新しい。砲尾の筒は33㎝あり、丁度この部分だけ長い。この長い砲身の重心位置に砲耳があり、簡単に砲身を上下することが出来る。砲耳の直径は9㎝、これもかなりの大きさだ。口径は8㎝、外形は14㎝。火門は7㎜くらいの孔だ。発射の手順は、包んだ火薬を入れる6オンスで、1Fより粒の大きな火砲用の黒色火薬だそうだ。砲弾を入れる。これは実弾でないので、6ポンド半。照準を付ける。方法は砲身の横の照星、と砲尾に立てた、真鍮製の照尺で行う。
照準
火門に針を突き刺して火薬の包を破る。そこにストローのようなヒューズを差し込み、上を折る。その部分に鉄パイプに入った火縄で着火し、ヒューズは派手に燃えていき、火薬を発火させる。砲弾の軌道は見えない。
2-300ヤードの距離であると小銃のように砲弾は直進する。1200ヤードくらいが有効射程であるそうだが、その時はラダー式に照尺を上げて行く。火縄をそのままに着火させようとしても上手くいかない。火縄銃式に火縄の火先を少し何かで叩いて平にすると、うまく着火するが、必ず車輪の外から行う。実弾だと車輪は2m後退するからだ。練習弾だと50㎝くらい。だが、後退した砲を元の位置に皆で押して、戻して再度照準するのがなかなか大変だった。
南軍兵士
3、 小型野砲 これはMaryと書いてあり、奥さんの大砲だそうだ。架台160
㎝、車輪直径は105㎝、幅1m、砲身は109㎝、口径55㎜、外径100㎜、
多分、接近戦闘で使用したのであろう。これも火縄式で着火する。200ヤード先の的に良く当たる。
山砲
3時間ほど、大砲を撃っていたら、砲隊は、まずチームワークである。
と言うことは組織化された軍隊が必要だ。次には様ざまな計算が必要である。
これには教育が必要だ。また絶えず、腔内を水で洗う。ブラシや、モップを使いと言うようなことで、大規模な運用が鍵だと感じた。
今回も砲弾、火薬は大分あったが、おそらく一日の戦闘では100発分は必要だ。
砲弾、火薬の数々
これには馬や馬車を使用した兵站がなければならない。
だから「大砲と馬」はセットと考えて良い。日本に大砲文明が発達しなかった要素の一つには馬の存在と言うことも挙げられよう。今回はクボタのトラクターが活躍していたが。
私たちが研究したいからと言ってもなかなかこれだけはやってはくれない。
米国インターナショナル前装銃協会に大感謝する。
フリクションプライマーの残骸と改修された3インチ砲弾
米国連盟長ゲーリー・クロフード氏夫人デビーさん個人所有の
ナポレオン16ポンダー。これが大体オリジナルだろう。
戊辰戦争で会津を攻撃した新政府軍は50門の大砲を備えていたそうだ。
しかし、城の写真で観る砲弾跡から大型砲ではなくて、ほとんどが野砲、山砲
せいぜい四斤砲であったと思われる。
土佐藩のアームストロング砲。これは実物で完全品だ。結局架台と車輪が付くとこれだけ迫力のあるものだ。しかし良く観ると車幅がアメリカ南北戦争に使われたものに比べてやや狭い。日本の地理的な事情のためか。
アメリカでは6頭、8頭の馬で、バッテリーとともに曳く。日本では人馬で曳いたり押したりしたのだろう。道路事情と言うやつだ。
みての通り鋳造砲ではない。鋼鉄で製造されたもので輸入品であろう。
この砲弾、廻りにイボがついてライフルに噛む方式は前記の砲に使用されたものよりもやや大きい。以上