5 、幕末日本の大砲開発と製造その実態 その1


各地に幕末の海防に戊辰戦争に使われたとされる大砲が存在し、ほとんどが架台はなく、砲身のみのゴロンと置いてある。日本が本格的砲戦を経験したのは、文久二年(1863)の長州4カ国艦隊戦争と薩英国戦争であった。

それまでも嘉永三年(1854)のペリー艦隊の来航以来、幕府をはじめ各地で大小様々な大砲の製造努力がなされてきた。しかしそのほとんどは成功しなかったと言って良い。長崎から佐賀、幕府、各藩に大砲製造の方法だけは広まったが、多くは材料である多量の鉄、青銅などの生産で躓いた。欧米はほぼ100年間に渡り産業革命が進行し、産業革命の第一義的意義(中江教授談)は多量のエネルギーを消費し『多量金属材料』を生産する、と言う概念であったので、日本の現状は欧米とはかけ離れた後進的なものであったと言えよう。

韮山の江川塾では反射炉を作り、鋳鉄砲を生産した。しかしこれは小型の所謂山砲で射程も2,000mくらいのものであった。

その後の一つの日本の社会的傾向として、幕末の後進性を非常に恥じるコンプレックスを持ったと言うことが特筆され、その結果、なぜかおかしな現象が起こり、それが現在でも事実として継承されていることだ。

幾つかの例を上げることが出来る。

某博物館展示品の例である。

① 青銅80ポンド陸用加農砲 安政元年湯島大砲鋳造所製 品川台場に装備されていた。口径25㎝、全長3830㎝ 滑腔 と説明がある。

後部と発火装置跡

観察すると砲耳(長さ18㎝、直径18㎝)は砲身の下部にあり、その上には砲を吊り下げるための柄が左右対照に2本ある。船舶用のカノン砲ではないか?さらに後部には欧州風の刻印があり、それを潰した跡が見える。

刻印の跡

ロシアの軍艦ディアナ号が下田で安政元年(1854)の大地震に遭遇し、戸田で帰国のための船を製造した話は有名である。実はディアナ号は下田で何回も横転して散らばった54門の艦載砲を全て幕府に譲った。船を軽くして戸田に向かう途中、沼津沖で沈没した。幕府はこれらの大砲を海防のためや幕府の軍艦に使用した。しばらくは幕府の大砲はディアナ号のものを様々に使用していた。

砲耳(下部にある)

海陽丸にも搭載されていた。技術的にペリーの来航の頃、幕府がこのような大砲を完成させたとはとうてい思えない。しかし、日本の歴史のなかで、日本が技術的に劣っていたと言うことを言えない時期があった、そういう時に

この大砲は誤った表示をされ人の目に付くところにあえて展示されたのではないか?と言うのが疑問のひとつである。

② 青銅150ポンド砲 口径29㎝、全長422㎝、嘉永二年(1849)薩摩藩鋳造、

薩摩天保山砲台に装備、明治初年、元は滑腔であったが大阪砲兵工廠でライフルを刻む。文久二年(1863)、薩摩には80門の砲があり、この砲は大きなものであったが、滑腔で榴弾はなかった。たまたま英国旗艦ユーライアス号の甲板上を砲弾が滑り、司令官と艦長が死亡した。当時、青銅砲は地面に井戸のような穴を掘り縦に製造した。ライフル砲は中に入れる棒に刻んだ溝で形つくられ、さらに水力などで掘削、研磨した。しかしこの砲のライフルは明治初年(1863)に掘削されたとしているが、当時日本には機械で回す掘削機材はなかったはずなので、おかしな説明であろう。

この砲は天保山にあったものではなくて、後にオランダから輸入したライフル榴弾砲であり、薩英戦争に使われたものではないのでは、と言う疑問が残る。

ライフルは明らかに研削したものだ

③ 江川塾韮山で鋳造された小型砲『韮山砲』

多量に鉄を作るための反射炉は1840年頃から日本各所で試みられ、韮山の江川の反射炉はペリー来航頃には完成していた。その後、鋳鉄を使用した比較的小型砲の製造にかかり、幕府や各藩に供給されたようだ。

この砲は「三百匁玉施條砲」鋳造、口径6.7㎝、長さ132㎝、6條ライフルを備えた、前装「カノン砲」とある。カノン砲の定義は要塞、船舶などに装備された遠距離砲で、明らかにこのような砲ではない。

この砲は、軽便な「山砲」である。砲耳は前から94㎝、つまり3分の2の位置にあるのもその証左だ。砲耳は9㎝x9㎝。尾栓があり、開け閉めのために回した跡もある。本来、この手の砲には尾栓は必要ないが、製造の過程で研削を容易にするために和砲はこのように開発されている。

本来、車輪と架台があり、4つに分解し馬載しりか、数名で分解し運搬した。

車輪、架台があればこのように間違った、分かり難い説明は受け入れられないが、この砲は貴重な国産品だが残念ながら砲身だけである。

 

5-1、青銅150ポンド砲

靖国神社遊就館の庭、入って左側に展示されている大型砲で保存状態は
良い。表示板には以下のようにある。

image001

「青銅百五封度陸用加農砲 嘉永二年(1849)薩摩藩鋳造 天保台砲台に据え付けていたもので、明治初年(1863)大阪砲兵工廠が砲内に施條を施した」
諸元
口径  全長
29㎝ 4.22m
天保台砲台の150ポンド砲と言えは文久三年(1863)の薩摩・英国戦争で使われた滑腔砲であろう。不自然だ。

image002

まず第一、ペルーの来航前にこんな巨砲を薩摩で製造する必要があったか、また技術が存在したか?だ。それになぜ明治なり工廠でライフルを刻んだのか?
薩摩にあった砲をなぜ大阪まで運搬したのか?
ライフルは素人が見た目でも当初から刻んであったと観える。幕末にお台場用か、艦艇用に欧州より輸入した砲と考えるのが常識的だ。

image003

image004

 

 

5-2、青銅八十封度陸用加農砲

 

image005

これも同じところ左側に5-1と対峙して展示されている。カノン砲は陸用か
艦艇用か架台がないと判別がつかない場合が多い。
この砲の表示は「この砲は安政元年(1854)湯島馬場大砲鋳立場鋳造 品川台に据え付けられていたもの」とあるが。???
この砲はライフル砲ではない。
諸元
口径 全長
25㎝ 3.83m

image006
(証拠の刻印)

明らかに外国の刻印があって、それを消してある。時代的に考えられるのはロシアのディアナ号の備砲だ。ディアナ号は下田で安政大地震の津波あい、20回
回転して砂浜に装備をばら撒いた。装備していた52門の大小の砲は幕府が引き取った。その代わりに戸田で小型の艦艇を製造し、ロシア人は母国に戻ったと言われている。そのうちの一門ではないか。湯島では当初、技術的に西洋砲を製造するのが難しく、川口の鋳物業者を使ったりした。

image007

(ディアナ号遭難の画)

image008

image009

image010

 

 

5-3、 松本城展示の小型前装砲

赤羽コレクションの一部か、城に元々存在したものかは知らないが幾つかの
疑問点がある。砲身自体は鉄製、装飾は青銅で良い造りだ。
砲長150㎝、口径7㎝くらいで前装砲だ。

名称未設定

砲耳が2組付いている。砲耳は1組で砲身の重心位置が一般的である。
(砲耳の役目は江戸期末まで、日本の砲術で理解されてなかった理論の一つで
架台に反動を伝える、砲身の角度を調整する、のふたつである)
砲身自体は16世紀、小型艦艇に搭載され、砲耳の替りに砲身下部に
柄が出ていた方式のものではないか。(柄を舷側などに差し込む、装填は
180度回転させる)
この架台の利用方法が分からない。車輪4個(直径35㎝、幅数㎝)が大きすぎる。スペースの限られた戦闘シーンでは扱いがやっかいだ。それにしてはロープ掛けの輪が細い。
と言うようなことで、砲身に加工し、架台を新作したものではないか推測するしだい。

 

5-4、幕末輸入青銅砲の例 (板橋区立郷土資料館展示)

幕末に約100の艦艇が輸入された、明治になるとほとんど残らなかったそうだ。
それらの艦艇の備砲であったのだろう。三門の割に小型な艦載砲が残されている。①と②に関しては炸裂弾を使用したのであろう。

①小型艦載カノン砲 銘参六拾斤銅砲

image001

腔箋は明確に残っている。

諸元

口径 弾経 腔長 砲長 全長 重量 砲耳
14.27 13.8 199 208 230 2500 14×12

(単位cm, kg)

image002

image003

② 12ポンド施條小型カノン砲

image004

砲身に取手がついている。関口製と国産品と言われている。
腔箋は擦り切れているが、これは使用のためか、製造方式か不明。
出来は①に比較すると良くない。
また様ざまな部品が鉄ネジ止めである。艦載、要塞、兼用だっただろう。

諸元

口径 弾経 腔長 砲長 全長 重量 砲耳
12.6 11.63 152 191.2 206.55 1050 10×8

(単位cm, kg)

image005

image006

image007

 

③ 24ポンド船舶用カルロンナーデ砲 4

image008

滑腔砲で砲耳の替りに砲身下に内直径5㎝のそれに駐退棒を差し込んで使用する架台があった。
砲艦クラスの艦艇が葡萄弾を詰めて近距離で、敵艦船の甲板を撃つ、もしくは
大きな艦艇の高い位置に装備されていた。肉が厚いので初期の兵器だろう。

諸元

口径 弾経 砲長 全長 重量
14.8 14.6他 147.9 173.4 1200

(単位cm, kg)

image009

image010

image011

 

5-5、アームストロング野砲の信管と砲弾(板橋区立郷土資料館蔵)

明治初期、西南戦争などで使用されたのだろう。

image001
(各種砲弾珍しい)

① 初期火縄信管
鉛の空洞な筒(長さ5㎝、上20㎜、下25㎜)に中に
火縄を時間に合わせて長さ切ってつめた。発射の火で着火し火縄の燃えた時間で炸裂した。時限信管である。主に前装ライフル砲に使われた。丸い砲弾の場合は木栓を打ち込んだ使用した。これはねじ込み。

image002 image003

② 初期のライフル砲弾

砲弾が着地した衝撃で炸裂する方式は目標が船舶、城壁など固いものには有効であったが、泥土などに落ちると不発の恐れがあった。これらの砲弾は、1後装ライフル砲に使用されたものだろう。そのために初期の時限信管は、あたまの筋で解除する、廻りのローレットを回すことで、ゼンマイなどの力で、曳火式信管が作動した。恐らく当時としては非常に高価なもので、あまり頻繁に使われたものではないだろう。ローレットは二重になっており、発射のGで一つが外れ、もうひとつが作動したのではないか。

image004

image005

image006

image007

image008

(発射済みの砲弾で不発弾だった可能性もある)

 

③ 鉛を巻いた砲弾
よく八九式訓練弾なので、まん中が凹んでいるものがある。鉛が巻いてあったのだろう。兵器の腔箋を痛めないのが鉛の役目だった。

image009
(発射済みの砲弾である)

 

④ 柔らかい金属の凸を砲弾に埋め込み前装ライフル砲にかませた。その他
珍しい砲弾の機能。

image010

image011

image012
(砲弾には信管が装着されるまで蓋がしてあった)