6 、戦国期日本の大砲開発と製造・・・その実態

近世欧州3軍共同戦術への明らかな乗り遅れが日本大砲史上存在した。
戦国期、16世紀日本は鉄砲大国であったし、その組織的な運用は当時の世界最先端をいっていたものと推定される。だが、大砲はどうだったか?欧州やイスラムでは様々な方式の大砲が使われていた。日本では人間が反動を受けとめる大筒までの発達であり、大砲は開発されなかったと考えるが、ある時期、日本では大砲も開発され製造され大掛かりに運用されたと言う説もある。
輸入品を使用した事実はあり、その実物は残されている。
大阪城攻城では多くの輸入大砲が使われたと言うがその実物は残ってないし、運用の実態も明らかではない。徳川方は五十匁(口径30㎜)以上の大筒を国友に多量に製造させ、昼夜に分かたずこれらを城内に発射させたとも言われているがこの運用の方は現実性が高い。欧州で大砲が画期的な発展を遂げたのは日本が鎖国をしたころ1630年で、スェーデンのグスタフ大王による車輪付き野砲の発明である。大砲の車輪は発射の反動を受けとめるだけでなく、機動性に優れ、これにより、実用的な兵器として欧州各国に大規模に採用された。(大型艦艇とカノン砲の発達があり、さらにフリードリッヒ大王の騎馬、歩兵と砲隊の3軍共同戦術が発展したが、これは後述する。)

① フランキ砲

15-6世紀にイスラム、欧州で盛んに使用された方式の砲で、日本にもまとまった数量が入ってきた。この実物は九州の大友 宗麟がポルトガル人から購入したとある。同じものが各地、また幕末、ロシアに鹵獲されたものが存在している(保谷 徹氏の調査)青銅砲で一部分、鉄が使用されている。
口径9.5㎝、全長288㎝、銘一貫目九匁とある。天正七年()ゴアで製造されたもので、臼杵城に備えられており、薩摩が攻め入った時に鹵獲されたと。
「国崩し」と呼ばれたほど威力のあったものと説明がある。

(装填筒は上から差し込む、下に出ている部分が穴に入り、後部の左右の穴に
楔、さらに後部の上にも楔を打つ、発射後、解除するのが大変な作業だ)
欧州の各国の博物館では良く観られるもので、そちらの説明では、装填筒(日本では「子砲」と言う、この実物には欠けている)を入れ楔で固定して発射するが、装填筒の口径は、砲腔の径より小さく、火薬燃焼のガスが効率的でなく、過渡期の砲で曲射砲的に使用したそうだ。日本語では「仏狼機砲」と書いた。
この砲の方式は威力がない、と言う証明は砲耳が小さく、最終的には木部の架台もしくは船縁に差し込む鉄製の細い柄であることだ。狙いは発射まで後部の鉄製の柄を砲手が抱えたものであろう。子砲は欧州で観ると、簡単な筒だが、その上部に頑丈な柄がふたつ出ており、それに棒を差し込み、梃子の原理で外した。威力は、同じ大きさであれば前装式の三分の一と言われている。

(細い砲耳が固定された鉄製の柄は凹型で下に尖った棒がでている)

江戸期にはさまざまな砲術流派がフランキ砲を取り上げていた。
(写真はこの砲が設置してある場所がホールとみなされ写真撮影可の時代に撮影したものである。)

② 芝辻砲

大阪城攻城に際して、徳川方が特に堺芝辻に命じて、鋼鉄、鍛造で製造させた
名砲であると、多くの資料に書かれている。瓦張りと言う瓦状の板で筒を構成していった製造方法であった。また58年産業考古学会の非破壊検査で、鋼鉄の
鍛造であることが証明された。それ以来、この砲は実用的で、大阪城攻城に大きな威力を発揮したと有名になった。
口径9.3㎝、全長313㎝、上部に異常に大きく「慶長十六年摂州住芝辻理右衛門助延作」と銘が入っている。

(火孔に点火する際には鉄砲のように照準はみることができない)

右に銘がある。しかしこの砲は実用に使われたのか?
大いに疑問なものである。まず鋳造でないか?砲腔がかなり曲がっているのである。口と元では45㎜のずれがある。

(鍛造なら尾栓だろう、中心から左に45mmずれている。技術的にあり得ない)
内部を見ると、一旦左上に行き、それから右に下がる形で曲がっている。

(砲口から内部をのぞいた画像)

鋼鉄か鋳鉄か、非破壊試験とは言え、内部の一分を削り、(右上の光っているところだろう)その炭素量を計測したと推定できるが、鋳造でも表面は炭素量が少なく鋼鉄的な材質になるとの説もある。鍛造、特に瓦張(本来、外部に向かう爆発力に対しての抗力と矛盾すると考えられるが)で製造したら、鋳造をことなり、砲腔が曲がることは製造過程で修正できよう。またこの巨大な砲、どのような架台に載せたのか、縄で固定するしか手はないが、ほとんど寸胴だから抜けてしまう。砲耳はない。
推理だが、この砲は幕末の作ではないか。例の井戸のような縦穴を掘っての製造。銃腔内は鋼鉄製には見えない。その実物を、幕末、明治初期に、こんな立派なものを日本人は1600年頃に開発、製造していたのだと、いう国内向け『士気鼓舞』に使用したのではないか。銘なども不自然だ。以前、ドイツにもこの砲のレプリカが造られてあったのをみて赤面したが。
鍛造、鋳造はともかく、どのように運用したのか、曲がっている砲腔に砲丸を
どのように装填したのか、それだけでもご意見のある方には聞いてみたい。
日本の多くの書物は「芝辻砲」なるものを絶賛しており、否定的に書いてあるものは2-3しかない。

(このバランスの悪さ)

なお、この砲は銑鉄製、豊臣家の遺品なり、と書いてあるのは有坂 鉊蔵著「兵器考」砲熕篇 昭和11年である。
(この砲の研究は、砲の展示場がロビーであった頃撮影、現物に一切手を触れずして行った、ことを明記します。)