7 、「大砲文明」を支える要素―駐退機構の有無―

概要:

大砲にはさまざまな技術要素がある。なかでも「駐退機構」と言う要素に注目して16-19世紀にかけて、日本の大砲技術がいかに西欧に比較して劣っていたか、日本では近世への文明の流れのなかで、大砲戦闘が成立していなかった事実を明るみにすることが主な題材である。現在、16世紀末ごろ、製造された、使用されたとされる言われる大砲が何種か存在する。それらを良く観察すれば、駐退機構を有しておらず、物理的に大砲として実用になるものではなかったと推察できる。アメリカ南北戦争(1861年より65年、日本の戊辰戦争2年半前)に使用された各種砲の実射(練習弾)を通じ、駐退機構とは実際にどう働くかを簡単にまとめた。

北斎画、西洋の艦載砲

1)反動の理論

駐退不可能な砲身には実用性がない。(臼砲のような特殊な例外はある。)砲には砲弾の威力に比例する反動が必ずある。反動を駐退する際に考慮にいれる概念は「時間」である。時間がかかり過ぎると威力は減退する。まったく反動を受けないと、砲身には不自然な力が掛り、飛び上がったりし正確に砲弾は飛ばない。銃砲は反動をある程度逃がし、ある程度受けないと、弾丸、砲弾を正確に飛ばし、目標に命中させて、円滑に発射を続けることはできない。その加減の学術的理論が、駐退理論である。日本式砲術には駐退に関する基本的な考え方はなかった。日本古流の砲身と架台に関しては、日本の古式流派伝書にある砲架では金属個体弾を発射するのは不可能であった。日本古流砲術が棒火矢、焙烙弾などを最大到達距離、砲身仰角約40度で発射する機能しか考えてなかった証左である。天山流、中島流など現存する絵図を見ても駐退の意識はなかったことが推察される。この北斎画でも砲耳の大きさは実際よりはるかに小さく描いてあった。


中島流仕掛けの図(杭と縄だけの架台)

2)駐退機構とは

銃や砲を火薬の力で弾丸・砲弾を発射すれば必ず反動がある。反動の力は単純に考えても、弾丸・砲弾を発射するエネルギーの半分差し引く砲の重量近くになる計算だ。この反動を如何に処理・管理するかが、駐退である。現代兵器はそれらの力を無駄にはしておらず、小火器においては反自動、自動装填・発射に、砲は排莢に使っている。近世の駐退は砲耳(砲耳とは砲身の左右に出た凸起)、それらをバランス良く、稼働するように支えた頑丈な架台、車輪、ロープなどを使用し、反動により、ある程度砲自体が後退するも、とどめておく機能、時間差を管理した。注 (計算式)
小火器は個人が構え、発射する兵器であり、人間の体がその反動を緩衝する。
ちなみに、個人が操作しうる銃、もちろん目的別にその反動は異なるが、現在では大きなもので、狙撃銃口径12.7㎜程度である。散弾銃の場合は12番(1インチの12分1と言う意味)で約18㎜である。日本では大鉄砲と言うのが戦国末期から江戸期に掛けて発達し、一般的な五十匁筒は口径が30㎜ほどである。同じ頃西欧で使われていた砲に近い大きな口径の大鉄砲も日本には多く存在した。しかし,活用に関しては大砲としてかどうかは疑問がある。銃と砲の大きな違いはその反動の処理、つまり駐退機構の差であると言っても過言ではない。また大鉄砲から発射された弾丸は信管が作動し、炸裂することはなかった。
砲弾は西欧では城壁破壊などの目的から鉄製、日本では人馬殺傷の目的から鉛製だった。

3)中世から近世へ、カノン砲の発達

16世紀大航海時代から19世紀初頭までの、西欧砲の具体的な形態と機構を観察することで、大砲がどのように活用されたか、どの程度の威力があったかを推定するのは、研究の重要手段である。ちなみに、日本の戦国期、16-17世紀初頭には車輪の付いた金属砲身金属弾丸を発射する大砲は存在していなかったと思われる。駐退能力は大砲の威力に比例する。従ってフランキ砲のように砲耳でなく細い支柄の砲は大きな力を発揮した砲ではないと言えよう。
砲の種類によっても駐退装置は異なる。前装砲の時代は長く続き、約300年間、19世紀半ばまで後装砲は出現しなかった。(子砲を使用するフランキ砲は16世紀以前、一時期のもの、前装ライフル砲は19世紀初頭に出現した。1861年勃発した米国南北戦争は多種の大砲技術を発達させた。)
カノン砲、艦載砲や要塞砲は長い砲身を持ち射的距離も長い。これらの砲は頑丈な架台、それに並行して付けられた2個以上の車輪、船体や壁に繋がるロープで砲撃反動を緩衝した。艦載砲の砲口は船体から出して発射する。砲は反動で船内に戻り次弾を砲口から装填し、ロープで引っ張り砲を押し出し次弾発射した。艦艇(ガリオン船)は航行中、砲口が出る窓の蓋を閉め、大砲は内部に入っていた。また左右の砲列は互い違いになっており、砲同士が扱い易い状態になっていた。(ガリオン船は15世紀大航海時代に使われた帆船で、砲列艦であった。)カノン砲より砲身が短く、口径が大きく、砲弾の直進性は短いが大型の炸裂砲弾を使う砲を榴弾砲(ホィッワー)と言った。駐退機構はカノン砲と大体同じである。

4)野砲、山砲の発達

1630年頃、スゥエーデンのグスタフ大王が野戦砲(フィールドキャノン)(上の図)を開発した。それまでの砲は移動が困難であった。絶えず戦線が移動する野戦において大砲を使用する戦闘が難しかったのを、軽い砲身が載せられた大きな二つの車輪で支え発射できる仕組みを作った。車輪は当然、駐退機能もした。やがて野砲は、プロシャのフリードリッヒ大王により歩兵、騎兵、砲兵隊の3つの異なる兵力を組み合わせる戦法を確立させた。18世紀末にはナポレオン一世はこの野砲を4斤砲として規格統一し、砲兵隊の数量も増やし機動的に活用した。この種の野砲の駐退は二つの車輪が後退することで緩衝した。(砲身を、簡単な架台に固定、荷車の車輪を付け、行った発射実験に立ち会ったことがあった。一発の発射で架台が割れてしまい、砲身は後ろに落ちた。架台の造り方も木種、木目の取り方、金属の補強などの工夫が必要であり、簡単な技術ではない。)
野砲をさらに軽くして分解・組み立てを容易に造ったものを山砲(マウンテンガン)と言った。4斤はフランスが採用したメートル法の単位であるkgの日本語標記であり、女子砲丸投げの砲丸がその重量である。

 

5)砲身には「砲耳」が必要

砲耳(ほうじ)とは、砲身と一体となり、左右に付き出た凸、突起であり、これらが砲身を架台に固定した。架台には彫り込みがあり、そこに砲耳を入れ、上部180度は金属帯を架台に打ち、砲身を上下に廻るよう固定した。砲耳のない砲身は実用に使われたことはないと断言して良い。砲を鋳造する際には、材質にかかわらずこの部分がバランスの良い位置に頑丈に出ておらねばならない。砲耳の位置は砲身の重心に近く、仰角を決めるためにも使われた。
架台は頑丈な一体型が必要である。砲身の反動を砲耳で受け、架台に伝わり、架台は車輪で後退する。これが近世の西欧砲の基本的な仕組みだった。また、頑丈な架台は方向を変えることで、また後部か前部に楔を入れることで、砲身仰角を距離に合わせ照準できた。艦載カノン砲などは約300m、野砲は約200mまで砲弾は直進性を有した。近世砲は車輪で後退すると、そのまま前装で装填し、元の位置に押し出し再照準して発射した。砲身の尾部を輪転で上げ下げする方式もあった。車輪の数は、野砲は2個、艦載砲、要塞砲は4個が一般的であった。

 

6)駐退の課題は複座

砲の駐退後座は前装の時代では元に戻り、複座しなくても、艦載砲、要塞砲などでは装填に便利であった。しかし、後装砲が出現すると、砲身が発射後また元の位置角度に戻ることが正確な照準と発射速度の重要な要素であった。駐退複座と言い、照準を合わせ直すことなく正確に直ぐに発射できるからだ。鉄砲は個人兵器だから一人の兵士が操作し照準しなおすが、架台に搭載する機関銃には同じことが言える。駐退複座にはバネ、油圧、空気などを活用し20世紀、砲には無くてはならない技術になった。
7)南北戦争の大砲を実射し駐退を観察した

車輪の外から火縄で着火させる

 

① 臼砲、口径8インチ, ②山砲 6パウンダー、③野砲 12パウンダーいずれも空砲ではなく、練習弾(プラクテスラウンドと言う実弾の3分の1ほど重量)を込めて発射した。この中で駐退機構がないのは①の臼砲(左の黒い塊)である。全体が鉄製であり、木製の架台には載ってない。発射すると全体が地面にめり込むか滑り、次弾を装填する前に太い棒を2本使い、梃の原
理で位置を置きかえる。臼砲は砲身が極端に短く、初速が遅いので駐退をしなくてもったが、発射弾数は限られていたそうだ。南北戦争中、臼砲をトロッコに載せて発射した写真、駐退できずひっくり返った写真などが残されている。野砲など車輪付きの砲を発射後、元の位置に戻すことをバッテリーと言い、駐退する距離を調整していた。②と③は規模のだけの差なので③の野砲、ナポレオン砲と呼んでいたが、その場合においては車輪が約50cm後退した。実弾の場合は2m後退するとしていた。回数を重ねて発射すると車輪と架台の後部が地面を摺るので轍が出来た。(バッテリーには砲と装具弾薬のセットのことを言う場合もある。)
臼砲の発射、設置した地面に注目、小石で滑るように置いた。駐退しない砲なので、離れた場所からフリクションプライマーという紐を引き着火さす。

まとめ:

16世紀、日本は伝来以来、またたくうちに鉄砲を製造、運用し、これをもって一種の文明を確立した。しかし、大砲に関しては、16世紀初頭鎖国により、ガリオン船の建造、運航を禁止して艦載砲の考えはなくなった。城は平城になり要塞砲の必要性もなくなった。鎖国直後1630年に野戦に大型車輪で移動し駐退しやすい野戦砲が開発された。これも皮肉な偶然だった。もとより大型投擲兵器(火薬が出現する前)の概念がほとんどなかった日本においては19世紀、外国船が搭載する大型艦載砲を見てはじめて大砲文明の必要性に接した。この社会的衝撃の大きさは想像に余る。大砲技術は、治金、鋳造、掘削などの製造技術の正確さ効率だけでなく、発射においては弾道(ガリレオの研究)、それらの基本になる数学、物理、空力、工学、気象、測量など、また炸薬、信管など化学、と広範囲で深い知識が必要であった。大砲文明の構成は学問の発達を意味した。また兵への教育、訓練、組織的運用、兵站思想など徴兵制を含めた近代的軍隊組織の社会性を必要とした。そのような意味で、19世紀初頭、すでに産業革命が進行していた西欧に比べて日本は社会的に大砲文明が非常に遅れた状態にあった。その後、半世紀あまりで西欧水準に追いついた日本の兵器技術開発は銃砲史において、特記される事項であろう。以上

幕府は野砲(4斤)の採用に積極的で関口で製造したとあり、フランス軍事顧問は高い水準にあったとしていた。これは1862年頃の調練の様子を描いた
絵巻もので約20門の同じような砲が描かれている。4斤砲は3名の砲手が操作した。

使用画像 大砲の歴史表
北斎漫画 艦載砲
絵巻物 野砲
中島流 の図
砲の写真 ウィンチェスター・バージニア

参考文献:別紙