8 、日本帝国の大砲
自衛隊OBの方から頻繁に受ける質問のひとつに「日本帝国の大砲はどうしてあんなにちゃちなものだったのでしょうね? 戦後の供与兵器をみて驚きました。」と言うものがある。
確かに陸上自衛隊武器学校火砲館に展示されている各種砲を観察するに重厚感はない。しかしなかなか良く工夫されている点は感じられる。大体、日本帝国の砲の定義とは何か?
日清・日露の頃の砲は含まれないだろう。外国技術が多くの部分を占めていたからだ。
九六式15㎝榴弾砲(左)、八九式15㎝カノン砲(遊就館ロビー展示品)日本重砲の代表
従って定義としては「第一次大戦後、日本帝国が独自の陸上、艦船用に開発、生産し第二次大戦において使用した各種砲」となろう。一言、砲と言ってもその種類の多さは分類の仕方にもよるが、陸・海軍で使用目的によりおびただしい数になる。またその装備されていた数量はどうか、と言えばこれは各種資料によっても、私が小火器で計算したような明確な数量は出ていないのが事実である。
種類としては大体、以下のようになろう。
① 陸軍 (口径20㎜以上を砲と定義した)
野戦砲: 地上で使われた軽砲で野砲、山砲、小型砲で頻繁に移動ができた
重砲: 地上で使われた大型重砲でカノン砲、榴弾砲、陣地を構築し長距離に使った
迫撃砲・臼砲: 地上で使われた曲射砲
要塞砲: 要塞に設置された重・軽砲類
高射砲: 上空を通過する、攻撃してくる航空機を迎撃する砲、機関砲
対戦車砲・速射砲: 戦闘車両を攻撃する砲・自動砲を含む
航空機搭載砲: 大戦末期に大型機に対抗し航空機砲とした
戦車搭載砲: 戦闘車両に搭載した砲
② 海軍 (口径による分類はしてなかった)
艦載砲: 各種艦艇に搭載された砲、対艦砲、対空砲に分けられ、多種あった
要塞砲: 海岸要塞、軍港要塞の防備に使われた各種砲
地上砲: 海軍陸戦隊が使用したものでほぼ陸軍兵器と同じもの
数量において、独逸と比較し陸軍砲が桁違いに少ないことを指摘していた資料があるが、
独逸は陸軍国で日本に比較するとその海軍力は著しく小規模であり、恐らく海軍砲に関しては逆の傾向であっただろう。佐山氏は第二次大戦期、帝国陸軍野戦砲は7000門、重砲は1500門としていたが、これは例えば各大隊に2門装備されていた70㎜小型砲の数量を鑑みても少ない数字である。日本の砲の生産数に関しては図面からみる諸元とは別に大きな研究課題として残る。例えば、分隊兵器であった50㎜擲弾筒(氏は砲の範疇に入れていたが)は約12万門生産されていた。野戦砲に関しても、日本の戦線は本土、満州、中国大陸、太平洋各島に広がっていたので7000門と言う数量ではないだろう。10万門以上あってもおかしくない。ただ日本軍の宿命として移動手段の問題があったので、軽砲の比率が高いものであったことは推定内であり、それが「なんであんなちゃちなもので」と言う質問に至るのではないかと思う。
8-1、大隊砲
ライフルの様子
映画『土と兵隊』の最後のシーン、終わりなき戦闘に向かう、大隊の列。
最後に馬に曳引された2門の大隊砲が続く。この珍しい大隊砲を
ホノルルの「陸軍博物館」にあった。日本に実物はないのではないか?
程度も良い。完全品で、車輪の仕組みなども良く分かる。
70㎜砲で、短い砲身、それを平射と曲射できる。駐退は両方ともよく出来ているから、短砲身のわりには命中率はよかったはずだ。
車輪は鉄板、木、鉄輪で構成され分解して馬載することも可能。
日本軍は何でも「分解」の思想が生きている。
70㎜砲弾は空薬莢にその場で平射用と曲射用に造り変えて使用した
と言う。大隊の展開、及びその使用法に関してはとても詳しい説明があった。
砲、左右に九二式重機、さらにその前方に軽機、擲弾筒、散開する歩兵。
日本軍の大隊の陣形であったようだ。人数的には200人くらいか。
との説明があった。
この砲は再塗装であろう。
8-2、九六式15糎榴弾砲
日本帝国は第一次世界大戦陸戦に参加しなかったので、榴弾砲は四年式(1915)が欧米の水準の兵器であったと推定される。1930年代、自動車曳引式にして近代的な自己緊縮砲身、
リーフスプリングなど新技術を活用した「九六式15糎榴弾砲」(1936)を開発し、中国戦線、ノモンハン、ルソン島など太平洋各地で使用していた。砲の設置、展開が早く出来るのが特徴であった。射角は65度あり、射程12000mだった。およそ440門が大阪工廠で製造された。最後の活躍場は沖縄で、アメリカ軍司令官サイモン・B・バックナーJR中将は、この砲弾の一発で戦死した。(現在までのアメリカ軍の戦闘で戦死した最高位将官である。沖縄の人たちもこういう犠牲を払ってまで占領された、返還されたと言うことは認識すべきだが)
現在、各地に残されている火砲は尾栓が故意に取り除かれているが、この例は閉鎖の様子が良く理解できる。
8-3、八九式15糎カノン(加農)砲
日本帝国大型砲の代表的存在ではあるが、果たして何門製造されたのか不明である。沖縄戦では8門が洞窟陣地などから発射された。
八九式(1929)カノン砲はノモンハンに80門が投入され28000発の砲弾を
ソ連軍に浴びせたが、それ以上の攻撃を受けた。ノモンハンでは日本軍はトラック輸送、ソ連軍は列車を使ったので、最初から戦略的な企みにはまっていた。
射角は43度、榴弾砲より長い砲身で、18000mと言う射程をもつ。
数種類の砲弾が用意されていた。発射速度は1分間に1発。ノモンハンでは砲身の冷却に苦労したそうだ。
車輪を付けてトラクターで牽引し、砲列準備に2時間かかった。
この例でも駐退複座や閉鎖の仕組みが良く見てとれる。凸凹しているのは弾痕。
8-4、四年式15糎榴弾砲
(武器学校の展示、閉鎖機構が取り外されており、仕組みが分からないのが残念だ。)
迫力のある砲であり、日本の大火器の先駆的な立場にあった砲だろう。
陸上自衛隊武器学校火器館に一門が展示されている。また大正、昭和の様々な絵葉書や写真にも残されている。演習で人家の直ぐ横に砲列を敷いたものがあったが、恐らく発射の際は、住民は避難したことだろう。
榴弾砲はカノン砲より同じ大口径ながら、仰角が深く、砲弾は山などの障害物を超えて飛んでいく。
第一次大戦の初期、大正4年(1915)に制定された。280門が製造された。独特の形状で、第一次大戦の青島攻撃に使用されたと言う。だから以前書いた、日本が大大砲を第一次大戦で使用しなかったは、訂正する。一門の砲に約10名の将兵があたっている様子が分かる。
仰角65度、この写真に注目は、仰角を浅くしてあるのと、駐退している砲身だ。射程8800mだったそうだ。欠点としては機動性の効率が悪く、横においてある車輪を後ろに入れて動かしたのだろう。
8-5、 三八式野砲ならびに改造型
三八式野砲は日露戦争中に開発され小銃と同じく戦争が終了して明治40年
(1907)に制定され、その後日本軍の主力野砲として第一次大戦から1945年まで使用された。大阪造兵廠で製造され改造型を含め3000門と言われているが
少し少ない数量のように感じられる。当初は日露戦争中、クルップ社に発注した砲身が使われた。
諸元
重量 | 口径 | 砲身長 | 有効射程距離 | 製造数 |
947㎏ | 75㎜ | 228.6㎝ | 8358m | 3000門? |
改造型重量1135kg
改造型は駐退機能が改良され砲身が自動的に元の位置に複座するようになった。
駐退は今まで何度も江戸期砲からの記述で述べたが、砲身の反動を受けとめる機構で、複座はその砲身を自動的に元に戻す機構だ。これが作動すると照準が非常に楽になり速射できる。油圧、空気圧、バネなどを使用した。この改造型は大正14年(1925)に完成した。
『陸上自衛隊武器学校砲火館』には両方の形式が並べてある。比較すると、改造型は砲身の下の筒が前部で開けられるようになっており、砲架が長い。
両方の砲とも、後部の閉鎖装置が取り除かれ無稼働化されている。
5名の砲手が必要である。右の兵士は電話で弾着を確認中。
8-6 四一式山砲
三八式野砲を小型軽量化して、分解・組み立てを1容易にした。駐退複座機能も備え分間発射数を増加させるとともに、馬曳きの他、人力搬送も可能とした。
連隊に一門備え連隊砲とも呼称されたが、地形の複雑なところ、また密林などの戦闘に威力を示した。
諸元
重量 | 口径 | 砲身長 | 有効射程距離 | 製造数 |
540kg | 75mm | 138cm | 5500m | 2500門? |
上2枚の画像は満州、北シナ国境の戦闘
8-7 九一式10㎝榴弾砲
フランスのシュナイダー砲を元に開発された。この時期日本はフランスの火器、ホチキス対空機銃などの多くを採用した。口径が10㎝なので大型である。
昭和11年(1931)制定で、一部自走砲があった。
諸元
重量 | 口径 | 砲身長 | 有効射程距離 | 生産数 |
1250㎏ | 10.5cm | 209 cm | 8500m | 1100門、 自走式100門? |
装填は大型砲方式の分離型で、まず砲弾をそれから薬筒を押し込むと言うものだった。重量が馬曳きには重すぎるので、自動車が必要であった。約100門の九七式戦車車台を利用した自走砲が製造されたとしているがこの数は疑問である。本体の1100門はおおむね正しい数量であろう。ノモンハン紛争に投入された。
仰角を付けた状態
8-8 九四式37mm対戦車砲
帝国陸軍に重要な存在の兵器であった。敵戦車が強力化して、大口径の速射戦車砲が必要となったのだ。この砲もノモンハンに投入された。ノモンハンは対戦車が重要な課題であったが、その評価は如何なるものであったのだろう。
諸元
重量 | 口径 | 砲身長 | 有効射程距離 | 生産数 |
327㎏ | 37㎜ | 1707㎝ | 5000m | 3400門 |
直射して敵戦車の装甲に命中させる。近距離であると敵戦車の火力にやられる、
難しい運用だった。6種類の様々な砲弾を使用した。
8-9 一式機動47mm砲
昭和15年(1940)制定の47㎜砲で、日本の砲は急速に大口径化したが、まだ
世界の水準からみるとまだ小口径であった。砲の運搬、弾薬輸送が課題だったからだ。ようやく日本にもゴムタイヤの砲が出現した。ゴムタイヤは輸走速度を速めたが、従来の木製枠に鉄をはめた大型車輪に比較すると砲の安定、耐久性などに問題は残った。しかし諸外国特に米国はゴムタイヤの大口径砲を開発し、自動車で牽引し輸走速度を速めた。
諸元
重量 | 口径 | 砲身長 | 有効射程距離 | 生産数 |
411㎏ | 47㎜ | 2248.5㎝ | 5000m | 1500門 |
(8-4から8-9までの実物は陸上自衛隊武器学校火砲館屋内に所蔵されておりここには現存する日本の火砲を観察するには最大の種類を保存している。残念ながら閉鎖機が外され、砲身に詰め物がされ完全無稼働化されているが、塗装なども統一されている。だが、ここにある砲だけで旧日本軍の火砲を判断することはできない。ここにあるのは陸上、野戦で使用された軽砲類で、重砲、艦載砲などは見られない。重砲、艦載砲は遊就館に幾つかあるので、両方を見学すると日本帝国の大砲がどのようなものであったかおおよその想像はつく。大砲は現在の大阪城の敷地中にあった、大阪造兵工廠で生産された。)
8-10 帝国日本軍の噴進(ロケット)砲
帝国日本のロケット砲活用は限られていたと書いて、そんなことはないと言う
コメントを貰ったことがある。コメントの通りで種類や数量は少ないが、大戦末期に
1、「四式20㎝噴進砲」が制定、製造され、硫黄島、沖縄などで使用され、さらに日本本土には数多く配備されていたそうだ。
硫黄島では70門、各50発の噴進弾が使われた。沖縄でも存在感があった。
砲は滑腔で、砲弾自体が底の6個の噴射する穴の角度で回転する仕組みだった。
砲身は底が開いており、そこから発射のガスが噴射されたので、砲身自体の反動は少なく、駐退機能がなくても済んだ。砲身の製造は極端に言えば筒だけで、
取り付け金具、二脚、底板、照準器などは付属品だった。
砲長約2m、重量230㎏、射程2500m、砲弾は約84㎏もあった。射程は角度を照準器で調整した。また撃発が問題で、摩擦式のものを使ったが、長い紐を
外部から引く方式、発射薬は黒色火薬が主体であっただろう。
(白い帯は徹甲弾の意味)
二脚や底板は配備された現地製造で、運搬の手間を省いた。大戦末期にはこのような方式は帝国日本軍では一般的で、対空砲などにも採用された。
二脚や底板は木製であったと推定できる。巨大な「八九式擲弾筒」のようなもので、信管は着発と遅延だった。
2、さらにこの方式を大型化した四式40㎜噴進砲が大戦末期に開発された。
砲弾は510㎏、砲身なしで木製の架台から発射するロケットだった。
角度を45度に固定し、射程は4000m、電気発火方式だった。信管は着発と遅延。ロケット自体がとても大きなもので、正確に命中すれば大きな被害を与えた。この画像の木架は恐らく一基の発射を耐える強度しかなく、数多くを散開して陣地を形成したであろう。発射薬、ニトロとあるが、この手の発射薬は遅延性のものを使用したと推定される。従ってフリクション方式でも発火できたであろう。沖縄で使用された。
8-11、二式12糎迫撃砲
日本の迫撃砲は現物が残されているものは少ない。この迫撃砲は昭和18年頃から生産された。大型で本土決戦のため温存されていたと言われている。
発射機構としては墜発(砲弾を落としてその重みで砲筒の底の撃針が雷管を撃つ方式)と撃発(砲弾を装填してから撃針を叩いて発射する方式)があった。
前者は発射速度を早くすることができ、後者は正確に照準できた。
下はこの砲の有翼弾
諸元
重量 | 口径 | 全長 | 最大射程 | 生産数 |
260㎏ | 12㎝ | 153㎝ | 4000m | 1000門 |
当時、迫撃砲は臼砲の一種であるから、発射の反動を受けること、駐退は下部の板で行う。地面にめり込んだり、後退したりするが、砲手にとって危険な兵器であることに間違いない。従ってあまり口径の大きなものではなかったそうだ。
またこれだけ大型で自走もしくは曳引できない兵器であるから、南方や大陸など攻撃兵器としては作戦に制限があった。砲弾の輸走も貨物車が必要で、道路、
鉄道の利用は必だった。