11、幕末日本の大砲開発と製造その2
①江戸期「米村流」伝書に見る大砲製造砲
19世紀初頭、欧米艦船日本近海への接近から幕府は海防意識の高揚に努める。
各藩の各流派は「大筒」、大砲の製造に着手するが、1、原材料の金属製造、
2、近代砲の情報不足から、中途半端で時代遅れな製法を真面目に考えた一例である。「米村流石火矢鑄方傳」の一部だ。
反射炉がないので、タタラを幾つも造り、少量の鉄を一か所に集める方式。
この方法は反射炉が出来るまで一般的であったが、大型砲の製造は不可能だった。この時期の製造方法は円の中心に縦穴を掘り、周りから一度に融鉄を流し込む方法と横に製造する方法があった。失敗も多かった。この図でみるとタタラは8個、その配置は周囲が100mくらいにもなる巨大な装置だが、製造する大砲は小さい。
この図では横に砂型を置いて製造する方式であったのだろう。
砲自体は子筒を使う後装砲で、16世紀伝来し、その現物は19世紀まで残されていたことは、北方領土でロシアに鹵獲され現在もモスクワに保管されている
実物で明らかである。(保谷先生の本)そのようなものを見本にした伝書であろう。黒い部分が鉄で、その他は青銅であろう。子筒の長さは一尺二寸(約35㎝)なので、全長、120㎝くらいの小型野砲の寸法であった。上の図には砲耳があるが下の図にはない。
この方式の砲は欧米では少なくとも300年前の大砲で、すでにこの時期には造られても使用されてもない。この方式の砲は威力がなかったのだ。
恐らく、欧米の新しい大砲知識が入手できるまでの一時期の間に合わせの伝書であったのだろう。日本の海防情けない状況であった事実のひとつだ。
まずは反射炉による多量の金属の製造、それと近代的大砲の設計、これら二つの要素が決定的に遅れていた。
②諫早の応変台
長崎の雛型砲 全長約30㎝
陸上自衛隊西部地区見学で長崎を訪れた際に観た不思議な台座の大砲雛型の件で佐賀県教育委員会世界遺産室の前田室長(銃砲史学会会員)から情報を送っていただいた。織田武人氏「諫早台場の円形台座」―砲身と円形台座考証―と言う論文から、大砲雛型は石の円形台座に設置されようとしたものの一種である可能性が考察される。諫早の砲と台座は19世紀初頭の開発例であろうと思われるが、長崎の雛型砲とは少し違う。だが、長崎の雛型砲もコロを使用し回転させる仕組みと思われるので、石の円形台座を使用しようとした可能性はある。
以下は諫早の例である。文化五年(1809)の砲台で、まだ欧米の知識が入っておらず、和流の「石火矢」の開発であろう。
二つの台座の石台が遺跡として残されており、「経ケ岳」は直径7.4m「東望山」は3.6mであり、大型砲と小型砲用であろう。大型が三百目、小型が百目と記されている。地図では「経ケ岳」は海上に面し、「東望山」は川に面している。
応変台は砲を吊り下げる架台であり、紐を使い砲角調整する方式だ。台の前後にコロがありそれで砲口を回すことが出来る。二つの図があり、中心軸のあるものは想像図としてあるが、この図は砲の兵器としての性格上、実用性がない。
また台座を石座の中に置く元図も実用的ではない。
(上は中心軸を付けた想像図だが、中心軸はかえって台座への負担が大きい)
両方とも、和流砲術の欠点、砲の反動、駐退の理論が欠落している。
また砲をこのような複雑な架台に搭載するにも無理があっただろう。
長崎の雛型砲も駐退は考えられてない。
和砲は19世紀初頭には大砲に必要な科学の知識が不足していた。
③韮山砲
表示には「三百匁玉施條砲」とある。
江川沢庵が韮山に反射炉を造り、鉄の生産に乗り出した。砲を造るためだ。
この砲も遊就館に展示されているが、口径7㎝、全長113㎝の野山砲用の
ライフル砲だ。鉄の鋳造品としては完璧ではない。
照準器が砲に備えられている点が和砲である証明と言って良い。
アメリカ南北戦争当時の野砲照準器は外付けで、照準を付けると発射の際は外した。
また尾栓は開くようになっており開けた形跡がある。これも和砲の特徴の一つだ。架台・車輪がないのが残念だ。
④弘前城(津軽藩)の山砲とその装具
銃砲史学会の9月例会・見学会で青森、津軽藩弘前城に行った。その際に観たものだ。
弘前城は北のほうで現存している珍しい江戸期の門、天守閣がある。天守閣といっても大きなものではない。
砲身
砲は現地の作だろう。不格好だ。鉄鋳物国産砲。しかし照準器の枠もあり、ライフル6條でアメリカ南北戦争時、1860年代の形式だ。外国のものに比較すると肉厚で重い。
せっかく小型に製作してならもっと軽便にしなければ。全長1m、砲身長850㎝、口径87㎜、砲耳は直径65㎜、長さ67㎜、砲口外径154㎜(峯田 元治氏計測) 架台、車輪の類はないのが残念だが、珍しくバッテリーが付属している。一つは両側から開ける3段の引き出し、細長い箱で、これは火薬入れだろう。もうひとつは万字紋と「長丸」の文字。頑丈な背負い箱だ。
多分砲弾入れだろう。山砲は分解可能、軽便に製造し、砲身、車輪、架台は、馬載、人間がそのまま急な斜面などを搬送した。砲身の後、上部が平らになっているのは砲が傾いてないかを観るためだ。「長丸」と言う砲弾は所謂4斤砲の椎の実型の
ものであっただろう。このバッテリーはどうみても6発くらいの量しかない。
日本の鋳造砲は尾栓があるものが多い。宇田川名誉教授からそれを指摘されたが、火門が後方にあるので、これには尾栓はないと答えたのだが、写真でみると砲腔の底には線が明確に見えて、尾栓があったことを証明していた。
この砲腔の状態ではほとんど使用されてはいない。「山砲」をどのように使うかは理解していただろうが、津軽では実戦がなかったので、山の上まで運搬し発射することがなかったのだろう。
⑤嘉永期の和砲の製造
肉厚でバランスの悪い砲の例
昭和35年、日本学士院が編集した『明治前日本造兵史』と言う本は、日本の武器兵器開発、製造、運用、特殊性を原始的な武器から幕末の兵器までかなり詳細に記録した資料である。但し、自分が詳しい火縄銃の項を観ると若干の間違いもあるので、全面的に正しい資料と断定はできない。(100%完璧な資料はないと考えてよいが)
このなか、19世紀中期、ペリー来航当時の大砲製作に関しての部分の一部を紹介したい。大砲と言うものがようやく中途半端ならが日本で理解され始めた頃であろう。(嘉永は1848-54年、ペリーは1853年に来航した)
④で紹介した南部藩の鉄製ライフル砲、前出の画像のような肉厚の厚い不格好な鉄製砲などはその頃の作だろう。反射炉のない時代の作である。
南部藩には大島高任が行き指導した記録がある。但し、全国的にみると当時の砲の先進性は佐賀藩にあった。
佐賀は長崎より西欧資料を得て近代的大砲の製造、運用に関して資料を得ていたようだ。(前田先生の発表)だが、嘉永以前の日本の砲は和砲、架台などが確立されてなく、
図のような架台は大きな反動に耐え、数多く、正確に発射することができない、大筒と大砲の中間のようなものだった。嘉永までに幕府に各藩より1050余門の大筒が献上されたが、黒船来航に役に立つ兵器ではなかったようだ。
この時期、反射炉の建設、砲の理論の理解、開発、製造など日本が一番苦労した時期だっただろう。(③の韮山砲は反射炉を使用して製造した野砲である。)
砲の製造は青銅、鉄ともに反射炉がないので、タタラを数個、もしくは十数個を円形に配置し、丸太を元にした砂型を造り井戸を掘り縦に挿入し、その周りに融けた金属を充填した。時間を置く訳には行かないので次々と手際よく融けて金属を充填していく手際があった。砂型は頑丈に造り木枠に入れ埋めた。
砂型はただの金属棒を造り後で砲腔を掘削する、もしくは真ん中に砲腔となる丸太を入れ、溶解した金属が固まり取り除いた、とする二つ方法が論じられているが、個体の金属を人工的動力(当時は水蒸気)なしに、真っすぐに掘削するのは不可能であると考える。後者の方法でも中を研磨する必要があるので、その作業はこの図では人力で、また大型砲は水力を使用したと考えるのが自然である。
タタラにフイゴで空気を送り込み金属を溶解する。これは仏像の製造などで
かなり古い技術であった。
砲の型を砂型でつくり廻りを木枠で固める。砲腔の部分には棒を入れている。
中身は小型でも木枠は大きなものになる。
木枠の補強
木枠の内部に砲の砂型が入っている。
木枠は井戸に縦にいれ砲となる廻りに溶解した金属を次々と絶え間なく
充填する。
金属が固まると木枠から出し、外部のバリを取る
砲腔部分の取り出し、内部の棒を取り出している
砲腔の研磨、この砲は小型野砲程度のもので、尾栓が付いた
型の図面、明らかに肉厚で、金属強度に自信がなかった
このような方式で1000門ほど製造したが、恐らく実用になる兵器とは成りえなかったと推定される。しかし、製造方式を藩が管理し、鋳物業者に任せると言う進歩が見られた。