6 、19世紀半ば混乱の日本での自衛用拳銃
江戸期末から明治初頭、日本は体制変革を迎え、社会は混乱した。今では考えられないような凶悪な犯罪が増えた。一般民衆は防ぎようもないが、富裕層は自衛した。3年前「銃砲史学会」で、野田市立博物館旧茂木邸を見学した。多量の銃器、屋敷を囲む高い塀、頑丈な門、屋敷内のシェルターなど。茂木家は醤油生産を家業としていたが、現金決済が多かったのだろう。家や工場を日夜守る、また醤油を江戸に横浜に運搬するに途中の難を逃れるために、屈強な若者を雇い武装させたそうだ。同じ日に見学した武器学校に展示されていたその頃輸入され主に民間で使用されていた拳銃類だ。
木箱入りは、火薬入れ、管入れ、道具、玉型(○と椎の実型がひとつ)などが組になっている。これは1867-8年にマンハッタン社(ニューヨーク)で製造された前装輪胴式である。口径は.36で軍用でなく、民間用のものだ。5條のメトフォードライフルで、約1万挺作られたが日本にどれだけ入ってきたかは不明。これは完全品だが銃身で無稼働化されている。照門はどこですか?と聞かれたが、撃鉄をあげるとその先端が割れていて照門になる。
無稼働化されている。
この写真の2挺、上はSW社の.32口径、下はマンハッタン社の.22口径だ。マンハッタン社は多分SW社からライセンスを得ていたと書いてある。製造は南北戦争前だが、両方ともリムファイアの金属薬莢を使う。輪胴を回すノッチが前後しており異なる。この形式は国産の銃もあった。完成度で見分けはつく。
SW2型.32口径は幕府から引き継いで明治政府が輸入した。およそ総計17000挺と言われている。それ以前にもアメリカ南北戦争直後に日本に入り、いわゆる坂本 龍馬の拳銃として有名だ。1855-60年7万挺生産されたと書いてあるから日本にきた数は多い。
無稼働化
古い形式なので価格がバーゲンだったのか。リムファイア金属薬莢を使用するがこの形式は輪胴を外し装填しまた装着するのが難しい。一旦、装填したら打ち切るしかない。ジョン・フォードの『駅馬車』に短い銃身のモデルが出てくる。江差で引き上げられた開陽丸備品にも朽ちた多くが見られた。
明治期、現金、手形を運ぶ郵便馬車の局員がこれで護衛したと折原先生の論文にある。
(協力:陸上自衛隊武器学校 資料:フレイーマンガイドトゥアンテークアメリカンファイアアームズ他)