18、「国産ミニエ式小銃」は存在したか?
フレッドLハニーカット、F.パットアンソニー著「ミリタリーライフルオブジャパン」を久しぶりに眺めていた。このようなテーマ研究も日本より先に外国で行われていたとは、戦後日本の屈折した武器兵器史の一面を見るようで嫌だ。最近は自分でも独自に研究したので、外国人が気付かない点、矛盾、間違いなどにも気が付き、鵜呑みには出来ないと言うことがままある。
この本は良く出来ている。A4の横版で、銃の写真に向いている。
最初に出てくる銃が、1955年英国エンフィールドモデル(ミニエ式前装銃)の
日本複製品(コピー)の写真だ。米国では1861-5年、米国南北戦争の主力兵器だった。北部軍は主にスプリングフィールド工廠で生産し、南部軍はレミントンで生産した。その他に数え切れないほどの英国エンフィールド銃(タワー)が両軍ともに輸入された。前装ライフル銃は1855年、フランスのミニエ大尉の発明だ。構造は何回か説明したが、弾丸後部がホロー(くぼんでいる)椎の実型を、薄い3-4條のライフルが入った銃腔に銃口から装填する。火薬の炸裂の力で、弾丸のスカートと言われる後部が開いて、ライフルに噛む。
口径は.58(14.66mm)となっているが.577くらいから.585くらいまであり、玉割りが難しい。大きすぎると入らない。小さすぎるとライフルに噛まない。
国際前装銃連盟のこの銃種の競技は300m伏射で行う。大体、この時代の前装銃の有効射程が100m内外であったのに、ミニエ式はライフル銃で、3-5倍の能力があった。しかし射撃に慣れるには難しい。単発だがそう数多く、続けては撃てない。装填には立ち上がらねばならない。日本でも戊辰戦争に米国南北戦争終結のタイミングで中古銃を数十万挺輸入したと推定されている。
しかし、明治になると後装填式のスナイドル銃に多くが転換されてしまったか、
輸出された。
私の研究では日本の、1860年代のライフルのない滑腔管打ち銃のロックを観察しても西欧のものを真似てはいるが、品質はその水準ではない。これは「産業革命」のせいだと思う。産業革命により良質な鋼を多量に生産し、削り出し技術で、同じ部品が他のロックにも使える、銃砲は産業革命が生んだ工業製品だったのだった。だが、日本は手造りであり、部品の堅さ頑丈さ正確さ、またロックそのものにも互換性があるものは少ない。それにライフルだ。日本では明治に機械を輸入するまでライフルを切れなかったし、一部にはライフルの理論も理解してなかった。(単なる角い真っすぐで回転しない銃腔を造ってあった例もある)
また私が石川県の登録で所持しているミニエ式銃は、長州県下の壬申刻印が大きく焼き版で銃床、左右に入れてある。しかもロック地板は削り上げたか、酸で処理したか、何の刻印も文字も残されてない。この銃を見る限り、まったく出目は分からない。しかし分解し、ひとつひとつの部品を丁寧に調べた。
とうとう発見した。1㎜ほどの小さな刻印だが、スプリングフィールドの「鷹」だった。長州藩が輸入し、民間に払い下げたものだろう。刻印や文字を消したのは日本の作業か、輸入前の作業かは分からない。しかし照門がハンダ付けで、スプリングフィールド工廠の特徴があり、また銃床、銃身のサイズもオリジナルと同じだった。
だから、何かこのようなものを日本の「エンフィールドコピー」としたのではないか。だが、私はミニエ方式のエンフィールド銃やスプリングフィールド銃が活躍した時代、1885年くらいまでには、日本にはその技術はなかったと確信する。
日本が欧米なみの武器兵器を造れるようになったのは明治になっての経済学的・人文学的にも、「富国強兵」「殖産興業」による『産業革命』が進行してからだ。
(この項おわり)