洋式銃



 20、ミニエ方式小銃の20年間とその性能

概要:ミニエ式小銃は1850年から70年までの約20年間しか、製造・使用されなかったが、銃砲史上最も有名な小銃方式のひとつであり、主に英国エンフィールド工廠、米国スプリングフィールド工廠などで多量に生産され、クリミア戦争(1853-56年)、米国南北戦争(1861-65年)などの大戦争で使用され、およそ数十万人がこの銃の犠牲になったと推定される。

image001エンフィールド歩兵銃(写真1)

1、ミニエ方式以前のライフル銃
銃弾に回転を与えると丸玉でも直進性が増加して精密になり、射程も長くなることは古くから知られていた。ライフル銃は米国で猟銃として開発され、俗に「ケンタッキーライフル」「ミズリーライフル」と呼ばれていたが、銃工の手作りによるライフル刻みだった。
NRA博物館やメイン州博物館(ホットワースの例)に模型があるが、ドリルをハンドルで回し、滑腔銃にライフルを刻んだ。生産効率は悪く、高額な銃であった。また丸玉を装填するのが難しくローダーロッドと木ハンマーで弾丸打ち込み、弾丸がライフルに噛んでからロッドで装填したので、時間が掛った。主にバッファロー猟に使用された。ホーケン・ブラザーズ(セントルイス、ミズリー)が銘柄としては有名で、「平原銃」と呼ばれていた。また滑腔ゲベール銃にライフルを刻んでも使用もされた。初期のライフル銃はフリントロック、パーカションロック両方あった。丸玉でなく、回転を与えると椎の実型の弾丸はもっと効力があるという事実も経験的に発見された。

image002米国のフリントロックライフル小銃(写真2)

19世紀になり、ライフル銃方式を軍用に使用できないかは英、独、仏などで研究された。ミニエ方式は仏で考案された前装ライフル銃のひとつで、主に英国、米国で採用され生産・使用された。

image003独ドライゼ銃(写真3)

2、ミニエ方式小銃の定義と性能
ミニエ方式は1849年仏クロード・エティセンヌ・ミニエ大尉が開発した。
初期の軍用前装ライフル小銃で、口径.58インチ(14.66mm )内外のプリチェット弾(底に凹のある椎の実型鉛弾)を黒色火薬でパーカションキャプを使用して発射するサイドハンマー式管打ち銃のことである。

image004エンフィールド側板(写真4)

発射に必要なものは、黒色発射薬、雷管(キャプ)、蜜蝋、プリチェット弾である。射程1000m以上、有効射程は100-200m、発射速度分間数発の能力がある。
蜜蝋はミニエ式銃にとっては、弾丸裾(スカートと言う)の拡張とガス漏れ対策と装填に必要不可欠なもので、村田銃弾薬にも使用されていた。
生産は、主に英国のエンフィールド工廠(長さは3種類、歩兵、砲兵、騎兵用)と米国のスプリングフィールド工廠、その元に30社近いマサチューセッツ、コネチカット、メイン、ロードアイランド、ニューハンプシャー州などのコント
ラクター(下請け)で南北戦争用に生産された。
その他にも英国ではウイルキンソン社、米国ではレミントン社、コルト社、スナイダー社、各国で生産された。軍用にはエンフィールド100万挺、スプリングフィールド100万挺の数あったと推定される。エンフィールドには側板(サイドプレート)に「王冠」の、スプリングフィールドは「鷲」の刻印が打たれている。またエンフィールド銃の多くは、米国の北部、南部連合に輸出された。
パーカションキャプの発明は19世紀初頭であった。底に雷硝が付いている。

image005管、パーカッション(写真5)

 

3、 ミニエ方式小銃が使われた「クリミア戦争」と「米国南北戦争」
① クリミア戦争はオスマントルコを圧迫する露国(220万の兵力)に対抗し、仏国、英国が土国に加担(計100万)がクリミア半島他広い範囲で丸3年間戦い、ほぼ同数15万人ずつ計30万人の犠牲者を出した大戦争だった。1853-56年

image006(画1)

② アメリカ南北戦争はリンカーン大統領の就任により、南部連合11州が独立を宣言して合衆国(北部)との丸5年間の国内戦争である。
北部220万の兵力(35万の犠牲)、南部100万(47万の犠牲)計82万人の犠牲者を出した大内乱であった。戦争の原因はまさしく北部の工業地帯で進行中であった「産業革命」で、そのための奴隷解放であったと言われている。北部ではマサチューセッツ州のスプリングフィールド工廠でミニエ方式小銃が大量に生産された。南部連合には正規軍も大きな工廠もなく、欧州から武器兵器は輸入された。その多くはエンフィールド銃であった。1861-65年

 

③ 普仏戦争 ミニエ方式小銃は一部しか使われなかったが、後に書くプロイセン(独)と仏の全面戦争で約10カ月間、双方100万人規模の大戦争であった。1870-1871年
④ 欧米大戦争の日本への影響
1853-56年、1861-65年、日本は開国していたが、上記の戦争のため欧米からの圧力は比較的小さく済み、武器兵器輸入は供給が少ない状態だった。米国南北戦争終了と同時に多量の武器兵器が日本に輸入された。その後、明治維新(1868年)直後、欧州は戦争が続き、その間に日本は兵器国産化の努力がなされた。

4、 ミニエ式小銃の優位性
① 前装ライフルであるが装填が楽である。
② 弾丸が大きく威力ある。
③ 命中率が高い。
④ 有効射程距離が滑腔前装銃の約3倍あった。
⑤ 規格工業製品として製造されている。(部品の互換性がある)
⑥ 整備が楽である。パッチは使わない。

image007砲兵銃の射撃(写真6)

5、ミニエ式小銃の欠点
①戦闘における発射は、「伏射」か「膝射」の姿勢が一般的だが、装填のために兵が立ちあがる必要があった。(膝立ちの姿勢でも装填できる)
②弾丸が大きすぎた。当時でも軍用口径は12㎜以下で十分であったが、
プリチェット弾は底にくぼみをつける、浅いライフルで回転させるために
口径が大きくなった。

image008プリチェット弾(写真7)

③携行弾数が少ない。胴乱のサイズから15発くらいではなかったか。
④銃剣の使用法が中途半端になった。銃剣を装着すると装填がし難い。
⑤サイドハンマーのためバランスが悪いと言われた。
⑥玉割りが難しい。細かい調整が必要である。

 

6、ミニエ方式小銃のライフル形式
筋の数は3条から5条まであるようだ。戦争中の製造は数が少ない。
筋の形には3種類あり、それらが将来、エンフィールド型とメトフォード型に
分かれたものと思われる。ライフル旋は1㎜程度と推定する。
ミニエ式小銃を発射しての経験では.58口径と言われているが統一されてない。
.577から.585くらいまでの幅(約2㎜)がある。このため、所謂「玉割り」が難しい。少しでも大きな弾丸は入らない。小さい弾丸は装填も発射もできるが、弾丸に回転が付かず椎の実弾が横転する。正確には飛ばない。
火薬の量も難しい。少ないと回転不足になる。多すぎると弾丸の裾(スカート)が壊れてまた横転するなどの問題があるからだ。「手銃論」によれば、最大到達距離を得るため銃身を上向けて発射しても頂点で回転を失うとしている。
これは現在のライフル銃でも同じ理論である。

image009(画2)「手銃論」より、イはエンフィールド、ロはラチェット、ハはメトフォード

7、ミニエ方式小銃の工業的背景
16-7世紀の産業面での優位性は欧州ではなくアジアにあった。
18世紀末英国で勃興した「産業革命」は動力と鉄を多く使う、工場制機械工業化が進行した、良質な鉄は兵器には必要不可欠なものであり、銃腔の削刻は鋼のドリルと強い動力が必要であった。大型反射炉とコークス燃料は良質の鉄鋼を多量に生産して、蒸気機関は動力の源となった。
しかし兵器産業は産業革命の後発産業とも言われている。
まとめると①鉄、②燃料(動力)、③規格化 メートル法など、条件が兵器生産を大規模化させた。(中江 秀雄名誉教授講演より)

社会構造の変化は、軍隊を近代化し組織、制度、訓練、兵站、戦略などが進化した。社会的には資本の蓄積、大規模投資が行われた。

第一次産業革命は一単位として約50年間かかり、英、ベルギー(工業に於いては別格の地位があった)、仏、米、独、露、日と言う順で進行したと言われているが、日本の場合は西欧諸国に100年間遅れ、30年間で追いついた。「明治三十年制定兵器の例」)また大型兵器、艦艇、大砲への軍備の変化と、交通つまり艦艇、列車による兵站近代化に貢献した。

8、ミニエ方式銃の代表的弾丸形
ミニエ方式銃弾丸は椎の実型で多くは横筋が3本(2本のものもある)入っている。筋がライフルに噛み、弾丸に回転を与えやすくする。筋のないものもあり、尖頭でないものもある。
弾丸の製造は丸玉より手間が掛り、さらにタップによる成形と蜜蝋の塗布が必要である。日本のものは筋がなかったと推定される。(エネルギー効率が悪い)

image010各種の弾丸、左は日本製(写真8)

9、同時期の他国、独、仏のライフル小銃
独と仏は未完成ながら長い撃針を使う後装銃を開発使用していた。
独(プロイセン)のドライゼ銃(日本名ツンケール銃)口径15.4mm
熕棹(ボルトアクション)で閉鎖が出来たが、弾丸底の雷管を叩く方式で、
有効射程距離が短かった50万挺生産された。

image011シャスポー銃(写真9)ゴムをパッキングに使う

仏のシャスポー銃、ドライゼ銃と同じボルトアクション・長撃針銃で1866年開発、口径11㎜、有効射程はドライゼより優れていた。120万挺生産された。
いずれも閉鎖が完全ではなかった。弾薬を紙包→底部金属→金属薬莢と進化させた。まだチェンバーと言う考え方はなかった。排莢にも問題があった。

10、ミニエ方式小銃の改造と後継
ミニエ方式小銃は1880年代半ば、兵が立ちあがって装填する必要がないよう後装式に改造された。
スナイドル(英国、米国)、アルビーニ(ベルギー)方式がそれらである。すでに独、仏の後装式小銃が出現していたので、自然な発想であった。
ミニエ式銃の後部を横もしくは前に蝶板を使い開くようにして後ろから弾丸、火薬、雷管が一体化した弾薬を込めた。これにはボクサー雷管の出現が貢献した。ミニエ方式からの改造が一般的だが、新たにも生産された。(改造銃と新たに「スナイドル銃」として生産されたものは区別される。)

image012スナイドル改造型(写真10)

スナイドル改造銃なども「閉鎖」が不十分であった。ガスは後方にも抜け、弾薬が金属底、金属薬莢になっても排莢機能がなかった。
結果、閉鎖、排莢の優れた各種のボルトアクションライフル銃になる。

image013底だけが金属(写真11)

ボクサー雷管は火打ち金が内部に仕込まれたもので、金属薬莢底部に装着できた(センターファイア方式)。19世紀半ば、ボクサー大尉の発明と言われている。
(帝国日本軍実包はボクサー型を使用しなかった。)

image014現在のボクサー(写真12)

11、ミニエ式小銃と戊辰戦争 日本が最後のメイジャーユーザー
戊辰戦争で使用された前装式洋式銃はミニエ方式、エンフィールド銃とスプリングフィールド銃が多い。
米国南北戦争の終結(1865年)とともに、主に英国に負債を抱えていた南部連合の銃、十数万挺が日本に欧州商人を経て輸入された。戊辰戦争でスナイドル改造銃はわずかしか使われてないが、明治になりミニエ方式はスナイドル方式に小石川小銃工廠で改造され、金属薬莢の弾丸製造機も輸入された。
明治十年、西南戦争ではスナイドル改造銃が使用された。
興味深い点、日本は銃のみを輸入しその他の装具、弾薬入れ、パーカッションキャプ入れ,負い皮、帯は国産のものしか使用してない。いずれも牛革に漆仕上げで質的には高い。家紋を入れたものが多い。日本製胴乱と管入れ(下)

image015(写真13)

image01616発、限度だったのではないか?(写真14)

12、発射法と競技 火縄銃との比較
ミニエ方式銃の国際競技は100m伏射、13発(10位までをとる)、拳銃用ターゲットを使用する。パッチの使用と競技中の清掃は禁じられている。
100mの距離では命中率が良いのか口径が大きいので同弾率が高く二枚の標的に6発と7発撃ち分ける。欧米ではミニエ方式小銃は人気があり、参加者は多い。銃はオリジナルのみで細かいところでは様々な規則があるので、銃器検査で一番揉める種目でもある。筆者は1980年頃、日本前装銃の米国研修でミニエ方式銃射撃を習った。2011年、環太平洋大会でこの競技に出場した。
火縄銃も同じ方式の競技があるが、オリジナルとレプリカが分かれ、ミニエ式と異なるところは距離が50m、標的がミニエの約4倍のフランス陸軍200m標的を使う。これで計算してもミニエ式小銃は日本の火縄銃の数倍以上の命中率があることになる。滑腔銃は有効射程が100mを越えることはない。ミニエ方式ライフル銃は有効射程が200m、近代ライフル銃で400mくらいだろう。例えば日本の十匁筒(弾丸33g)と言われる火縄銃は100mの距離では有効射程を越えるがミニエ方式はほぼ同量の弾丸(31g)で、火薬量は少ないくらいだが、有効射程距離は4-5倍になろう。(有効射程距離は50%の確率で人像的に命中させる能力)

image017

(写真15)

その後、日本の火縄銃と、ミニエ方式の小銃の性能に関して実験を何回か実施したが、まだ計算式などは出来てない。様々な条件、①命中率から推定した有効射程距離、②発射速度、③耐久性、などの比較だ。(標的参照)
日本の火縄銃は100mの距離であると現在50mで使用している標的に命中する
確立は非常に低い。従って有効射程距離は5-60mではないか。一方、ミニエ方式銃は100mの近代ライフル標的でも十分に命中し、推定有効射程距離は200mある。発射速度は日本の火縄銃は1分間に3-4発、ミニエ方式小銃は6-7発撃てる仕組みだ。白兵に於いての耐久性は日本の火縄銃は役に立たないが、ミニエ式小銃は銃剣を付け、また銃床には厚い鉄板が張られ、それ自体十分な打撃武器となる。数量的に比較するのは難しいがミニエ式小銃は日本の火縄銃の10倍くらいの有効性能があったのではないか。

image018各種実射試験の様子(写真13)

13、ミニエ式小銃は日本で生産されたか?
所 荘吉氏の「古銃事典」には少量、生産されたと記されている。
輸入または国産化したゲベール銃にライフルを刻むことによりミニエ方式小銃は造ることができる。だが、私が観察した明治維新前の火縄銃以外の国産銃は材料が、工作が良くない。また規格品でないので、近代銃としての部品の互換性などと整備がし辛く、実際の運用には厳しいものがあった武器のように見えた。外国の文献、オークションには日本製ミニエ銃と言うものが出ているが。

以下、佐賀藩の射撃記録、ご協力を得て鍋島文庫資料より引用する。

① 慶応元年二月(1865年)大銃製造方にて家中より長短2挺のエンフィールド(線)銃を見本として差し出す。(佐賀藩ではエンフィールド銃を輸入してある程度配備していた。)
② 慶応元年七月「八匁雷銃」(口径16㎜のゲベール銃ではないか)をエンフィールド(線)銃に変換する方針である。諸与組(佐賀藩では600名単位の小銃隊)を対象に。
③ 慶応元年八月、長短のエンフィールド(線)銃の発射試験の結果出る。
歩兵銃、距離600ヤード、90発の結果。角(21-28㎝の板)4発(4.4%)
幕(一間四方と推定される)10発(11%)、切剥(幕の裾ではないかもしくは横転弾)25発(28%)、葉内(バックストップの砂ではないか、大きさは通常5m四方くらい)35発(39%)、玉落不相分(弾痕不明)16発(18%)と記録されており、更に、700ヤード、900ヤード、1150ヤードと試射したが有効射程は角とすればとても実用にならない成績だった。
ところが、短い銃(砲兵か騎兵)だと600ヤード、60発、角に14発(23%)、幕に16発(27%)と良い成績だった。(近代ライフル銃でも550mで角に
当てる自信はないので、この距離の設定はひと桁異なるようにも感じる)
④ 慶応元年九月 「火術方」(佐賀藩における洋式兵装教導部)の判定は短いエンフィールド銃がめり込み(威力)は少ないが命中率が良いと判定。
⑤ 慶応三年、エンフィールド銃を製造準備していたが、藩内で製造するより
輸入する方が安価であるので、生産計画を中止して「細工道具」(工作機械)を売却する。とある。

image019

外国資料にある日本製ミニエ式方式小銃(図3)

縄武館の「手銃論」は慶応三年に日本で初めて活字印刷されたミニエ方式小銃の理論と運用の教本ではあるが、恐らく翻訳、印刷などに2-3年は掛っており、日本にミニエ方式式エンフィールド銃が紹介されたのは慶応(1865年)より数年前、であったと推察される。しかし欧米の大戦争の需要のため輸入が難しく、価格も高額であったのだろう。

image020大鳥 圭介が訳したという「手銃論」(図4)

日本が輸入したミニエ銃はエンフィールド、スプリングフィールドなど米国南北戦争の中古品であった。日本人が使うには銃床がやや長いのが欠点であり、それを短くした実物も存在する。(陸自武器学校小火器館展示)
明治四年、仏ジョージ・ルボン大尉のもと欧州から兵器技術顧問が来日し、小
石川にて兵器国産化の教授をしたが、小銃を担当したベルギー人銃工、フィリップ・ジェリー技師が各藩より新政府に返還された18万挺の小銃のなかよりミニエ方式小銃をスナイドル方式、アルビニー方式に改造する作業を行った記録がある。一番効率的な方式で村田銃国産化までの時間を稼いだ。明治初期の明治政府の小銃数は15万挺ほどと推定される。
(村田銃が14万挺生産された)

結論:
18世紀末から欧米の産業革命は様々な近代的な生産方式、商品を生みだしたが、武器兵器に於いても例外ではなかった。
燧石銃から管打ち銃(パーカションキャプ)へ小銃発火方式は移行し、滑腔銃からライフル銃の優位性が認識され、丁度、日本がフェートン号事件で海防意識に目覚めた頃、さまざまな効率的、強力な兵器が開発された。
小銃だけでなく、各種の砲、艦艇(フルトンの蒸気船)その他さまざまな兵器で欧米の軍事力は日本からみるとはるかに遠いものとなった。     12

ミニエ方式小銃、機構上はドライゼ、シャスポー式などの独仏の小銃より旧式
な方式であったかもしれない。しかし歴史上、特記すべき欧米の大戦争に使用され、近代的兵器の代名詞のようになっているが、実はわずか20年間しか、生産、使用されなかったのだ。しかも最後は日本の戊辰戦争、明治維新、新政府の安定(西南戦争)と重要な役割を果たした。戦争は我彼同じ兵器を使うことは少ないので、兵器・装備品の優位性は今も昔も必要不可欠な要素である。
(以上)

協力と文献:
ディビッド・ブリスデンIMLSA会長
フランク・ケッパー氏 USMLSA会長
サイロス・スミス夫人 元USMLSA会員
佐賀県教育委員会 世界遺産調査室 前田 達男氏

大鳥 圭介訳「手銃論」縄武館
長谷川 貴彦著「産業革命」
Civil War Weapons by Graham Smith
「兵器技術教育百年史」 工華会編
金子 常規著「兵器と戦術の世界史」中公新書
小山 弘健著「世界軍事技術史」 芳賀書店

image021

1865年オランダ
P STEVENS 社製造刻印

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