23、江戸期における燧石銃
何度か書いたが、欧州では火縄式の期間は短く16世紀より燧石(火打ち石)
式が主流になった。日本は火縄式の期間は長く、燧石式の期間は短い。
従って日本で燧石式の銃を観る機会はあまりない。
文化5年(1808年)長崎のフェートン号事件以降、同地の高島 秋帆が個人として輸入し、徳丸が原調練で使用したのは図の如く燧石式だ。19世紀初頭ナポレオン戦争期にパーカションは開発されていたが、欧米でも燧石式、パーカッション式が19世紀半ばまで使用されていた。
高島の佐賀藩への資料に掲載されていたゲベール銃 口径推定18㎜「前装燧石式銃競技」は「軍用燧石式銃」と言う名称で口径18㎜と定義している。
高島は幕府に見せるため、天保12年(1841年6月)約100挺のゲベール銃の一斉射撃を含む調練をおこなった。
ゲベール銃はクリミア戦争などで日本に輸入が途絶えた期間に国産化されたがそれらは管打ち式(パーカション)銃で、陸自武器学校の展示には国産が3挺、オランダ製が1挺ある。
この時期に国産化された銃剣、胴乱などはその後のミニエ式の時代にも使われたようで、残っているものもある。
同じ頃、画家北斎は燧石式二連短筒の画を残している。このようなものも存在し、また和式拳銃の収容嚢が残っている。
徳丸が原調練の図
100 挺のゲベール銃が使用された。
(この項以上)