25、ハリス公使の遺物か?「貴重」な下田のペッパーボックス拳銃
静岡新聞平成28年3月4日の社会面に出た記事だ。
下田の旧家でペッパーボックス拳銃が発見され、伝えられるところによると
最初に日本に外交官として来た、タウンゼント・ハリスが所持しており、江戸に公使館が日米修好通商条約締結のため移転する際に世話になった人に贈呈したものと言われていた。以下のその新聞記事であり、後輩の新聞記者に意見を求められた私はこの方式の銃とハリスの時代、それ以前、日本には輸入された記録がない、また護身用(軍用でない)、保存状態などからハリスのものであった可能性が高いというコメントを述べた。(記事になった)
①ペッパーボックス拳銃とは
前装填式輪胴拳銃以前、1830-50年ごろの銃身が回転するダブルアクション方式拳銃でデリンジャー型から長銃型まで数十の種類がある。管打ち(パーカション)を使い、ダブルアクションが普通である。引き金を引くと、銃身が時計回りに回転して棒型の引き金が上がり、所定の位置で落ちる。
サミエル・コルトが特許を取得、1840年代に多く制作された。引き金を引く指に力がいる、その分撃鉄を挙げるバネが弱いのか不発が多い。(実験画像より)
重量が1kg以上で、重い。軍用ではなく護身用である。
名前の由来は「胡椒引き」に似ているからだ。
②静岡新聞の記事内容
結構大きな記事だ。社会面25×25㎝くらい。地元の人が家財整理をしていたら、箱入りの一挺の珍しい形の拳銃が出てきた。由来は下田市・須崎にある旧家に
託した(寄贈したのだろう)もので、その子孫の人が家財のなかで発見した。
写真を見ると錆びてはいるが、未使用で程度は良い。完全である。
撃鉄の右横に1845という年号、パテントナンバーと製作者(不詳)が刻印してある
前長26㎝、重量1.1㎏、6銃身である。ニップルもきれいだ。全体のバランスから推測すると銃身長は20㎝弱で、口径は.32口径(約7㎜)ほどであろう。
銃口から黒色火薬を入れる。鉛製の球弾丸を入れ突く。ニップルにパーカションを被せておく。撃鉄が接している、1発はパーカションを外しておくのが常識だ。
発射は引き金を引けば、銃身が時計回りに周り、撃鉄は上がり、銃身が真下にきたら、落ちる。パーカションが破裂し内部の黒色火薬に着火し、弾丸が発射される。
製造年は撃鉄に書いてある。「1845」と、またこの銃は最も一般的なものでサミエル・アレン社の製造だ。日本の登録制度では完全な「古式銃」だ。
米国骨董品業界で完全品を購入しても10万円くらいだ。
③今後の問題点
関係者に聞いたら、警察署が発見者に「任意提出」を求め、警察が持って帰ったそうだ。
通常、判定は警察署ではない。この場合は、発見者は警察署に「発見届書」の発行を求める。警察署は係員が発見のいきさつ、場所、発見者などを聞き取り、
「発見届書」を発行する。発見者は「発見届書」を都道府県教育委員会が行う、登録審査に持ち込み、そこで審査員が古式銃か否かを判定し、古式銃であれば「登録証」を発行、その原書は文化庁に行く。銃砲史学会にも大勢の登録員がいる。
警察署にも意図はある。悪意にとれば、「摘発実績」を上げることができる。
「拳銃」というくくりで、数に入れてしまうのだ。
その際は、発見届書は発行せず、任意提出、処分という形をとる。
「発見届書」を必ず要求せよと何度も言うが、実態に明るくない人たちは
任意に出してしまうのだ。
この銃は登録できる古式銃だ。日本が米国から武器を輸入したのは米国南北戦争が終了した1866・7・8年ごろだ。拳銃は多くない。多くはミニエ方式の小銃だった。多くない拳銃は前装填式輪胴式で、コルト、レミントンなどの口径.44/45などでペッパーボックスはなかったであろう。また南北戦争以前はオランダを経由して高島 秋帆などが細々と書類にした銃器類だけでペッパーボックス方式はなかった。したがって、時代的にも、形式的にもこの銃は古式銃として登録できる。
④下田市としてのこの拳銃の使い方
下田は世界文化遺産に登録しても良い地域だ。「日本がはじめて公に外国人を上陸させたところだ」さまざまな遺跡があるがばらばらだ。
江戸期には東海航路の風待ち場として栄えた。現在も2.2万人の人口があり、観光地であるが、目玉のない、つまらないところになった。
行政が何か作るべきだ。ハリス以外にも吉田 松陰、ロシアのディアナ号遭難、反射炉、米艦ビアィフィング号遭難など、近くの海中をダイバーに探してもらえば遺物は山ほど出てきて、新発見もあろう。歴史を語れるはずだ。もったいない話だ。
(この項以上)