4 、晴嵐(せいらん)

この機体は分解保存されていた頃、20年くらい前か1度見せて貰った。
さすが「タミヤ」だ。同社がスポンサーになり復元された。

「晴嵐」は帝国海軍の賢さと愚かさの2点を証明する生き証人だ。
昭和18年、愛知航空機(時計)が開発製造した、世界に類のない攻撃機だ。
潜水艦(伊四〇〇型)を母艦として、1艦、3機を搭載していたそうだ。直径約5mの筒の中に、主翼、尾翼、垂直尾翼を折りたたみ、収納した。機体は乗員2名、全長10.6m、横幅12.2m, 全高4.6mの本格的攻撃機で魚雷か、800㎏爆弾を搭載したまま収納し、潜水艦が浮上し3分間で離陸可能であったそうだ。潤滑油などはすでに温めて置き、暖気運転の時間を省いた。母艦に戻ると横にフロートで着水、クレーンで吊り上げ収容が基本設計だが、フロートを離脱し、機体を捨てるという方式もあったと言う。筒と機体との間にはわずか5㎝の隙間しかなかったそうだ。
潜水艦と機体は別々なところで製造するが、誤差がわずかでもあると機体は入らない。

米軍軍需部調査

帝国海軍の偉いところはこの発想だ。機体は最高時速480㎞くらい出て航続距離も長いものだったので、「パナマ運河の攻撃」を目的にしていたはずだ。ハワイ攻撃と同時にやればインパクトは4倍になったはずだが、時間的に間に合わなかった。28機が生産されたが、ほとんど戦闘には使用されなかった。
帝国海軍の愚かな点はこの機体は1機で戦闘機数十機の費用が掛った。潜水艦の分も合わせると、戦闘機1500機、小型空母2艦程度になる。(日本の空母は大戦中25艦)これは非現実的な夢物語と言っても良い。しかし
戦後アメリカはこのアイデアを使い、原子力空母にミサイルを搭載した。

工場に1機あった、米軍家族も見物していた。この機体が現在展示されているものだ。

博物館の説明員は世界一高価な攻撃機と言っていたが。この1機は工場で接収されたもので、他の終戦時に作戦中のものはすべて海中に投棄された。
今、タミヤさんが世界中に日本人の独創性を証明してくれている。

とてもごちゃごちゃしたところに展示されており、もったいない。 以上