11、日本帝国の輸送機はダグラスDC-3
帝国陸海軍は輸送機として、所沢の航空公園に展示されているものと同じような機材を使用していたのだ。
帝国陸海軍は輸送機の数や運用において中国大陸、太平洋と戦線が驚異的に拡大してもその規模は限られていた。大戦末期には本土を除きほとんど制空権を失っていたので、さらに輸送機による人員や物資輸送は困難を極め、戦局は地滑り的に不利になった。1944年頃からは以前は攻撃機であった、九六中攻、一式陸攻、九七式爆撃機、二式大艇などがかろうじてその長距離航続能力をかわれ輸送機の替りを務めた。みじめであった。
大戦初期の空挺攻撃には零式輸送機が1941年頃より運用され、使用された。
この機体は410機が昭和飛行機、中島飛行機で生産されていた。
元はダグラスDC-3 である。正式な民用機としてのライセンス生産から始まった。DC-3 の軍用がC-47で世界総計約1万機が生産され、戦後も広く使用された。ノルマンディやアーヘン橋の空挺作戦にグライダー輸送機とともに使用された。
全長約20m、スパン30mで一個小隊(約30名)の武装兵しか輸送できなかったので、数千の空挺隊を降下させるには数百機が必要だった。元より帝国日本の空軍輸送力にはそれだけの力はなかった。
尾輪式なので離着陸の際、操縦士はほとんど前方地面が見えない。片側の発動機にトラブルが起こると、かなり難しいことになっただろう。筆者はカタリナ島に自分で操縦して行く機会が何度かあったが、そこの格納庫には銀色の新品DC-3が保存されていた。「リグレーチューインガム」の所有だと聞いた。
そう言えば、映画で観た、この機体にのる空挺員は皆ガムを噛んでいた。
(この項以上)