12、所沢に来た飛行可能な零戦五二型
確かに飛行可能だと言うことは、靖国神社などのモックアップ機と比較すると
迫力がちがう。ピンと張りつめた空気が感じられる。昨年12月から本年3月まで展示されて、好評なので夏休み8月まで延長された。次世代の若い人に見て貰いたい一品だ。上から見ると操縦席が裸でパラシュートをクッションとした。
同機、機体は三菱、発動機は中島となっているが、その沿革は不明だ。
零戦は三菱航空機で開発されたが、図面を渡し、中島航空機でも製造され
中島の数量のほうが多い、また五二型が各型のなかで一番多い。
1944年6月サイパン島陥落の際にアメリカ海兵隊に13機まるごと鹵獲され、アメリカ本土に持ち帰られ、1950年代スクラップとして払い下げられた。
それらをチノ飛行場の「マロリーコレクション」が持っていたが現在は「プレーズ・オブ・フェーム」と言う民間博物館がリストア、展示している航空機の
ひとつだ。1970年代、ここで「雷電」「秋水」を観た。飛行場の大きな格納庫がその施設だった。この61-120号機の軌跡は、1943年6月に硫黄島に進出し
それからサイパンへ移動した。
そういう経過の機体は多いが70年も前のものを飛ばすには、良い部品の収集、配線やパッキングの取り替えなど厖大な手間暇が掛る。だから元機材がそのまま飛行可能になることはまずあり得ない。この機体は過去2回、日本で飛んでいる。
機体の下にはオイル漏れに備えて板とパンが置いてある。おそらくパッキングは全て取り替えたが、それでも日本機のオイル漏れは有名だった。
タイヤは細い。左右、時間差を置いて収納されるのが特徴だ。尾輪も収納される。
日本機生産7万機のうちⅠ万機が零戦だから日本の航空勢力のシンボルと見られても仕方がない。日本帝国には空軍がなく、海軍航空隊と陸軍航空隊が別個に開発、運用、作戦を行っていたが、操縦士が足りない、発動機の予備がない、
で稼働率は悪かった。その結果が、訓練なかばの操縦士による「特攻」だった。
(この項以上)