13、F-86Fセイバー

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日本帝国の時代には「空軍」はなかった。帝国陸海軍が各々、航空隊を組織・運用し連携は少なかった。大戦後10年、1954年に航空自衛隊が創設された。下地となったのは帝国陸海軍の旧軍人で操縦士だった人々が多かった。それでもなお陸海軍の葛藤があったと言う。東西冷戦が始まり、アメリカは日本やドイツの再軍備にあたり錬度の高い操縦士がいたので、彼らを利用した。朝鮮戦争で戦闘機戦はすでにプロペラ機の時代は終わりジェット機に移った。ノースアメリカンが開発したF-86セイバーとソ連のミグ15の戦闘であった。満州工業地帯を爆撃したB-29はミグに次々と落とされた。それで危機感をもった。1956年からジェット練習機T-33とF-86Fは日本においてノックダウン形式で生産されることになった。10年間以上、日本の航空機産業はブランクがあった。最終的にF-86Fは435機、F-86Dは122機、計557機が生産され、それに加え練習機T-33の生産があったが産業としての本格的な、開発、電子部品、武装、などはアメリカ主体で日本独自のものはその後、数十年間なかったと言って良い。これはアメリカの日本、ドイツへの占領政策の一環であり、東西冷戦は日独や他の資本主義圏がアメリカと同じ装備を持っているほうに強みがあったからだ。フランスは独自な道を進んだ。日独に技術開発力の優位性がないと同時に競争相手にならぬよう、しむけていたのだ。(旅客機においては英国、フランスが競争相手になったが)F-2はあまり知られてないが、日本の技術をかなり認めた生産であったが、100機未満の採算の合うものではなかったし、輸出もできなかった。

F-86Fは全長11.4m、スパン11.3m、全高4.5m、亜音速機で1100㎞時、
武装は12.7㎜(.50口径)6門だった。後にサイドワインダーミサイルが
威力を発揮し主要武装となった。日本では1960年代半ばのことだ。
全世界33カ国で1万機が使用され第一世代のジェット戦闘機は大成功だった。

現在、日本の航空自衛隊はF-15を200機、F-2(日本版F-16)100機、F-4を含み350機程度の戦闘機を有しており、第5世代の戦闘機F-35の導入、そして、コンポジット(F-2が世界最初の技術)をはじめ尾翼以外、国産化できることになった。別な言葉で言えば「国際生産」。ようやく戦後70年間、日本の航空機産業への呪縛が溶けようとしている。

所沢のF-86F