14、日本の滑空機訓練 初級機(プライマリー)

画像のプライマリーは戦後の機体だ。JAナンバーだからだ。

(戦前の日本はJであり、敗戦によりJはジャマイカがとり、日本はまだJAのままだ)

 

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霧ケ峰式「はとK-14」と言う形式名である。長野県霧ケ峰がこのプライマリーのメッカだったからだ。今でもやっているのであろうか。

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(必ず風に正対する)

戦前、戦中、プライマリーは中学以上、各校に装備されており、学校の近くの広場や砂浜で飛ばしたと言う。どんな教官が指導したのであろうか?

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(戦前の本の図)

プライマリーはゴム索を動力として飛び上がる。必ず風に向かい、斜面を下に飛ばす。写真を見ると4名ずつが索を引き、機体最前部に操縦学生が座り、機体後部の綱を3名ほどで押さえている。索がある程度引っ張られると、教官が「放せ」と言う。後部を押さえている者たちが綱を放すとゴムの引っ張り力で、機体が前に走り出す。索を引いていたものは左右に離れる。スリングショット(パチンコ)を同じ原理だ。

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(姿勢と水平尾翼の作用)

機体は初速を得ると揚力が発生し飛び上がる。機体の最前部に載っている操縦士が操縦棹を引くと、機体の前部が上がり高度10mくらいだが、何十m、飛行する。着地の時は成るべく速度を減らすために操縦棹を引く。橇で地面を走る。
1機に10人くらい必要で、自分が操縦する番は10回に1回だ。
更に、飛行した機体をえっちらと斜面を登り元に戻す。次の飛行まで30分くらいは掛るから1日、2回飛べれば良い。でも最初から「ソロ」(単独飛行)だ。

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(下迎角と釣り合いの図)

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(戦後の指導も戦前とほとんど変わりはなかった)

昔、ガスと言う教官の助手で霧ケ峰に行き、1回だけ飛んだ。その時は「滑空機上級免状」を所持していたが、飛行はあっと言う間だった。これで操縦感覚が分かるかよと疑問に思った。ガスは面倒だから私に理論の座学をやらせていたのだ。
操縦棹を引きすぎると失速する。失速は翼面の空気の流れが急角度になることではがれ、いきなり機首が落ちる。数mの高さでも、操縦学生は怪我をするし、機体は壊れる。「ふぁ」と上がりふらふらすると、教官は「押さえろ、押さえろ」と叫ぶ。幸い、音はほとんどしないから良く聞こえているはずだ。2-3週間に1回くらい事故はあったようだ。霧ケ峰では草の上から飛び上がり、草の上に降りる。草が濡れていると、かえって滑らなかったように記憶しているが。

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戦前の本には「飛行機操縦 練習の第一階程」とあるが、燃料を使わないと言う点では利はあるが、効率が悪すぎる。訓練効率は複座の発動機付航空機には敵わない。
しかし飛行原理は同じである。教官がこのプライマリー練習で操縦士適正のある者を選び予科練を受けさせたりしたそうだが、大いに疑問だ。しかし、見ていたら各学校から来た学生たちが、同じチームでたちまち仲良くなりチームワークを造ると言う意味では良い訓練だった。
第一次大戦後、航空機の製造、運用、訓練を禁じられた独逸が発祥の地であるが、日本も燃料がないので、こういう方式で訓練した。アメリカにはプライマリーやセカンドリー滑空機はほとんどない。いきなり、ソアラー(上級機)を飛行機曳航で山岳上昇風のあるところに連れて行き、放すスポーツだ。
飛行訓練は教官同乗の発動機付練習機で行う。

参考資料:
山崎 好雄著「滑空機の理論と実際」 産業図書株刊 昭和29年
増田 正文著「グライダー」 岩波書店刊 昭和10年