1 、鉄砲伝来と定義

火縄銃アジアへの「伝播」と日本への「伝来」

ポルトガル銃砲史学会資料によれば大航海時代、同国は1515年、インド西部ゴア(島)に工廠を設立した。
ここで大小の銃砲を製造し、それらはアジア各地との交易商品とするためであった。目標は1万挺の銃砲の生産であったが、その数まで達したかは明らかではない。原材料の鉄はインドから、職人は欧州から来た。
また貿易のための人間もいた。メンデス・ピントは1525年にゴアに赴任した。
ポルトガル人は海路、アジア各地に銃砲を交易商品として持ち歩き、販売した。
当然、日本の存在、その金銀の豊かなこと及び戦乱の時代で銃砲の需要があったことは認識していた。
ポルトガルの商人は、1543年、マカオ付近で傭船したジャンク船で日本に向かい、種子島に漂着し、そこで銃砲を売ることができた。翌年、1544年にも来航しさらに様々な鉄砲に関する技術を伝えた(販売した)。商談の通訳は傭船の中国人が行った。

従って、鉄砲は種子島に来る以前にアジア各地には伝播していた。しかし当時、鉄砲を自作し、兵器として運営したのは、様々な事実から日本だけであった。

「伝来」とはある種の文明が、別な場所に根付くことを意味している。「伝播」はモノだけが、広く伝わることを意味している。

16世紀初頭の鉄砲の定義

鍛鉄製の銃身を備え、瞬発できる機構であり、黒色火薬の燃焼で、金属弾丸を発射し、有効射程距離(人的を50%の確立で倒す)は100m、数百発の射撃に耐えうるもの。以上が当時の「鉄砲」の定義だ。

従って、その機構にはバネが使われていなければならない。
火薬、弾丸、発火装置、様々な要素が必要だった。
火縄銃を製造したり、発射するのは現在の技術をもってしても、なかなか複雑で、製造から兵器運営は単にモノが伝わったから威力が発揮できたことを意味してない。

ゴア工廠から来たポルトガル人の日本人への技術の伝承に深い意義があったことは疑う余地はない。
画像は27mの距離、5分間で私自身が火縄銃で発射した的だ。
黒丸は7cm、5分間8発発射できて、的には全弾、黒点には6発が命中している。
このくらいの精度、速度で撃てなければ、鉄砲と言う兵器の優位性は保てないのだ。

(宇田川武久教授は欧州人がアジアで製造した銃砲とアジア人がアジアで製造した銃砲は明らかに形状が異なる。またアジアでイスラム勢力の影響を受けて 製造された銃砲も異なるとし。教授は研究の第一歩は「観察」であり、モノを観察することの重要性と意義を唱えている。従って、「伝来」と言うのは単純でなく、様々な要素が絡み遭った複雑な歴史現象であったのだろう。また、歴史人口統計学の速水融教授はDNA的に、九州西部、朝鮮半島、琉球諸島、中国大陸海岸部には中世、一つの民族的共通性があり、特に16世紀には活発な活動をしていたとしている。東アジア交易を唱えた宇田川教授の説を裏付けている。)