3-3、機関銃用光学照準器
① 背景
今でこそ自動銃に光学照準器を装着させることは常識となっているが、日本帝国軍時代
1930年代初頭に機関銃に光学照準器を装着することは兵器には贅沢な考え方であった。しかも1936年制定の九六式軽機関銃から軽機にも光学照準器が使用され、このような自動小火器に眼鏡を付けたのは日本が初めてであろう。
光学照準器は使ってみると分かるが、目標を大きくとらえることが出来るだけでなく、明るく見ることができるので、薄暮などには効果があった。ただしあまり倍率を高くすると視野が狭くなる。また機関銃を運搬する場合には重い本体と精密な照準器は別々に運搬せねばならず、照準器には特別な防水収容嚢があった。
現在、残されているこれらの照準器は製造されすでに75年間以上が経過し、レンズが明るいものは少ない。大体曇りがある。塗装は漆系の塗料で防水を兼ねかなりしっかりしている。
程度をみるにはやはりレンズを覗いて観て、はっきりと見えるものとしか言いようがない。
収用嚢などを見ると、野戦で使われたことは明白であり、それにしてはよくぞこの状態で残っているというのが感想だ。
機関銃用光学照準器の特徴は幾つかあるが、機関銃のさまざまな機構の間に素晴らしい設計で装着されている。従ってプリズムを使っている。射手の顔面を守るためにゴムの緩衝装置がある(ほとんどが時代の経過で溶けているが)、防水や運搬に気を使っている。
また機関銃には振動がつきもので、振動と合わせてある照準が狂わない工夫も多く観察できる。狙撃銃や他の兵器の光学照準器と同じく、大宮の東京工廠、日本光学、東京光学の
3社に加え、軽機関銃では多くの製造会社が同じものを製造していた。
軍需と言う必要から出た産業であるが、日本の大きな産業分野を構成するようになり、多くの会社は戦後、平和産業として活躍している。
② 重機関銃用
九二式重機関銃が日本の主な機銃である。三年式機銃には眼鏡は採用されてない。
光学照準器の製作は東京工廠、日本光学、東京光学の三社であり、他は見ない。
4倍x10度で
ボックス型で上下、左右の調整が大きな使い易い転輪ででき、調整後は固定した。
箱型の収容嚢が存在したが、現存するものは極めて少ない。
日本光学製造のもの、九二式重機は全体で3万挺近く生産されたので、その数だけ照準器も生産された。
転輪の柄を立てて動かし、倒すと固定される。調整はかなりの熟練を要したはずだ。
③ 軽機関銃用
軽機関銃は九六式、九九式の2種類があったが、眼鏡の外観、収容嚢、機銃本体への取り付けは倍率視野は2.5倍x13度、同じである。レンズが別である。6.5mm弾と7.7mm弾では弾道が異なるので、レンズに刻まれた線と数字がそれぞれに合わせてある。7.7mm弾は直進性が強いので、縦線が垂直で、遠距離への偏流を考慮し横線の端は40と記してある。九六式は20である。
収用嚢には機銃の番号が「五七九五」と記され、その機銃に照準は合わせてある。
帝国陸軍は漢数字を、帝国海軍陸戦隊はアラビア数字を使用した。眼鏡には製造会社の印の
刻印と製造番号が記されている。
従って、軽機関銃は狙撃銃と同じく、本体に眼鏡を装着すればそのまま照準できた。
光学照準器は右側に付き、プリズムを使い、上に立てた箱型弾倉を避けている。
左側には目視照準器があり、実験してみると、それら二つの照準は2-300m先で交差する。(リビー教授の協力で射撃実験をした1990年代後半が懐かしい)
製造会社は東京工廠、日本光学、東京光学の他、10数社の民間小規模会社が製造した。
上は榎本光学。戦車車載用を多く製作した富岡光学、他、東芝、モリコーなどがあった。
ロゴに限らず、割合、光学兵器にはローマ字が使われていた。
(「日本の機関銃」に詳しくある)
(この項以上)