3-4、九七式車載重機関銃用眼鏡・箱入り

日本帝国は現在と異なり所謂戦車国ではなかった。戦場や戦闘の状況、それに兵站が理由だったのだろう。しかし八九式中戦車を昭和四年(1929)には制定し、技術的な要素はあった。九七式中戦車が主たる戦車で、南方でほとんど全滅した。総生産数は2200両。

この中戦車にはチェコ機銃を日本版にした7.7mm(他の7.7mm機銃と共通の弾薬、箱型弾倉はチェコ機銃のもの)が装備されていた。武器学校にはふたつあり、一つはカットアウトだ。九七式車載機銃がチェコ機銃と異なるのは、銃床が右に曲がり、狭い車内での使用を
考えて設計していた。また戦車が頓挫した際は機銃を車外に持ち出し、二脚を付けて地上用として使用した。レイテの戦闘での記録にもある。
そしてこの車内から照準できる眼鏡である。眼鏡は特徴的だ。

先は車外に出ているので、鉄板の被いを被せる。それに先端のレンズは破損が多かったのだろう、鋼鉄製の環を回し交換できる。 

元は射手の顔面を護るために画像のような大きなゴムの緩衝輪が装着されていた。この輪も手に入れたときは柔らかみがあったが、もう30年保持しているが固くなってきた。
何らかの手入れが必要だろう。
しかし、立派な木箱に収納されている。

「九七式車載重機関銃眼鏡箱」サイズは長91x幅12x高12cmの丁寧な造りだ。
NO17024とあるが、これは機銃の番号か戦車の番号と推測される。

銘版には「NO22576 製造昭和十七年十一月 株式会社富岡光学機械製造所」とある。
見た限り、ほとんどが▽のロゴを使用した富岡のものだ。
眼鏡は前長57cm、1.5倍x30度
調整は眼鏡の下部と機銃の取り付け部に縦横の転輪があり、それらを回して行った。

富岡光学製造所は戦後、京セラとなり、他の戦時中光学機器を開発した多くの光学会社と
同じく、ひとつの産業を形成した。
(この項以上)