4 、気象観測機器
軍隊はさまざまな活動をしていたから「気象観測」は絶対必要な要素であった。
キスカ撤退の際も、侵入する駆逐艦隊の成功のカギは、キスカ島周囲の霧発生の予測だった。ハワイ攻撃と同時に行う南方作戦でも気象予報は重要だった。戦前に、戦後のNNKラジオ第二放送午後10時からの「気象通報」はあったのであろうか、気象庁各地の観測データで、私がグライダーをやっていたころはこれらを白地図に書き込みながら、等圧線を書き込み天気図作成し気象予報を行った。恐らく軍は支那派遣軍、満州国、台湾をはじめ占領した各地からのデータをどこかに集め、大東亜の天気図を作成していたはずだったし、またその情報を長波で戦闘地域の自軍に知らせていたはずだったが、そのことに書かれた記録はない。研究の興味深い課題であると思うが。
気象器具用の磁石。精巧は造りだ。このコンパスは正確な気象情報には必要不可欠なもので、埼玉に現在も存在している、船舶用の様々な機器を製作している株式会社「佐浦計器製作所」の製品であっただろう。これから紹介する軍用の気象計測機材の一つであった。
特に飛行場、航空機の運用に関しては、その地域で簡単な気象観測を行い、そのデータは作戦の重要な参考であったはずだ。
帝国陸海軍の「気象部隊」、さらにそれらの要員を教育する「気象学校」があったはずだが、これらに関しても記録はあまりみない。
さらにどのような器具を使い気象観測をしていたか、それに関してはまったく知られてない。
現在ある情報では1935年(昭和10年)に陸軍砲工廠校内に気象部ができて3年後には独立し「陸軍気象部」となった。同時に「気象部令」が発令され、「兵要気象に関する研究、調査、統計それに気象機材の研究、開発、試験は・・・」と軍の活動、特に作戦範囲が広がった際の重要性を述べていた。また陸軍は
文部省に「中央気象台」の強化を要請し、各地の気象データが集中化されることになった。1941年(昭和16年)「陸軍中央気象部」が設立された。
愛知県の知森 由治氏の記録、「気象隊という部隊」と言う手記には、同氏は民間人であり、軍属として気象機材をもち、中国南部、ベトナム、ビルマ、マレー半島などを数年間この部隊にいたと書いてあるが、残念ながら気象観測やその分析の詳細はない。陸海軍は当時の高名な気象学者、藤原 咲平氏などを招き、気象研究に熱心であったそうだ。