火縄銃



 14 、火縄銃が見られるところ

越中島にある国立東京海洋大学明治丸海事ミュージアム

越中島は忍藩が幕府より防備を命じられた地である。台場(砲台)もあった。
幕末、明治初期には調練場として使われた。同大学は東京水産大学と東京商船大学が2003年、合併し一つの学校になったがキャンパスは二つに分かれている。越中島キャンパスには、海洋立国日本のあけぼの、の象徴たる、「明治丸」とミュージアムが隣接している。

住所:
〒135-8533
東京都江東区越中島2-1-6
電話:03-5245-7360
www.meijimaru@ o.kaiyodai.ac.jp

明治丸は英国で建造され、日本が幕府時代、各国と結んだ通商条約に従い、各地に灯台を建設するために輸入された鉄板製の現在は3本マストの帆船だ。練習船に使われてきたが、明治9年、明治天皇が奥羽、北海道ご巡幸の帰途、乗船された船として有名である。博物館には各種のモデルの他、航海に使われた羅針盤、通信機器、ジーゼルエンジンなどが展示されている。武器兵器の類はない。しかしこの場所が幕末・明治初期に軍の調練に使われたことは意義深い。


今では高層ビル街に囲まれてしまったが、上の調練画を見ると遠方にはお台場が浮かんでいる。なおこの広大な地に入るには「練兵橋」と言う小さな橋がひとつあっただけだったそうだ。

(管理人記)

江東区中川船番所資料館

住所:〒136-0072江東区大橋9-1-15 電話03-3838-9091
www.kcf.or.jp/nakagawa/

江戸に入る船舶を神奈川浦賀で臨検していたことは知られているが、江戸には東京湾口から入る以外にも様々な運河を通じて貨物や人間を船舶で輸送していた。産業革命前の英国と同じで人工運河輸送が盛んであった。日本では幕府は江戸に入る武器類に神経質であった。銃砲規制と言うか、鉄砲の数、大きさ、火薬に応じての証文が必要であった。弓矢や他の武器も同じで役人が江戸に入る船を改めた。この中川番所は江東区を中心に

江戸から明治にかけての関東の水上交通の歴史をテーマとしており、番所のセットもある。番所(下)
旧中川から小名木川(運河)沿いには、長州、土佐など諸藩の下屋敷があり、米経済の近世には船で物資を運び込んでいた。

小名木川(現在)

(管理人記)

新宿歴史博物館

住所:東京都新宿区三栄町22(四谷駅、四谷三丁目駅から徒歩10分)
電話:03-3359-2131

公の博物館でなく、「公益財団法人新宿未来創造財団」が運営している。

新宿の歴史は東京都でも独特なものがあった。古代の遺跡、特に江戸期になってから、甲州街道の起点として商業が栄え、江戸と地方の分岐点としての独特な文化をもった。

徳川幕府の安全保障上も幾つかの工夫がなされ、現在の防衛省の敷地は江戸で最も標高の高い要地だった。それに大久保に射撃場を備えた内藤新宿の鉄砲組だ。

推定数百挺の鉄砲を有する、4-5組の鉄砲組が、同心として駐在していた。
その装具、防具、鉄砲などが展示されている。また近代には新宿は文化の町として栄え多くの文豪、芸術家の活動の場であった。
広い落ち着いた空間に多様な展示がなされ、銃砲史に興味があれば一見の価値はある。

板橋区立郷土資料館

住所:東京都板橋区赤塚5-35-25 電話:03-5998-0081

いろいろ東京には区立の資料館があり、その区の独自の歴史を紹介しているが、板橋区は高嶋秋帆の洋式調練の地、徳丸が原、(現在の高島台団地)、加賀藩下屋敷(大砲製造所)や、近代では大宮工廠関係で光学工業の盛んな地と、当史学会のテーマと共通するものが多くあった。史学会の小西氏が館長を務める同館は、そのような経緯で様々な特別展示と講演会を開催し活発である。現在は、「板橋と光学」2と言う特別展示を2010年11月末まで開催している。
新館はⅠ-2階と続いた展示場があり、2階には120名収容の講義室がある。
常設は縄文、弥生からの郷土遺跡からの展示であるが、館の裏手には、徳丸村から移築された旧田中家が、田の字型民家と倉式の納屋が完璧な形で保存されている。

館の入り口には青銅砲が3門、内部には国産のモルチール砲が1門ある。このモルチールは小石川大砲鋳造所で天保12年(1841)高島秋帆のもと製造されたもので、口径20cm、「三番」とある。恐らく、区立の資料館としては武具・武器・銃器類の収蔵は一番多いのではないか。

次なる特別展示に期待する。

光学展の光学兵器

ポルトガル人が日本にまで到達した背景

1,レイナー・ダインハルト個人博物館

(2010年8月13日訪問)


はじめに 2010年第24回MLSAIC世界大会参加のためにポルトガルを訪れた。選手は5名。そのうち4名が世界的に著名なリスボン在住の武器兵器収集家、レイナー・ダーンハルト氏宅と博物館を見学した。同4名のうち3名は、常定、須川、松岡と銃砲史学会の会員であり、全装銃会員と史学会会員を兼ねて、同氏を訪れて、意見を交換した。同氏の父親は第二次大戦前にポルトガル在住のドイツ第三帝国の外交官で、母親はポルトガル人。彼の主たる研究課題はポルトガル大航海時代覇権の背景(日本への鉄砲伝来も含む)、とプロシャの兵器である。「ビィ・ウィット・ガン」と言う著作で、ポルトガルの15-16世紀の東洋における交易、特に武器兵器に関しての研究で著名である。

A.ポルトガル大航海時代の国家戦略 (ダーンハルト氏の談話より)

15世紀後半から16世紀にかけてのポルトガルの主な対立相手はトルコを中心としたイスラム教徒であり、中東からインド、マレー半島に至るまでイスラム圏との戦いは続いた。ポルトガルは「拠点主義」で、エジプトのテナデロステタ、中東のシデダデアムス、インドのゴア、マラッカにと、つぎつぎと拠点を繋いて行く方針であった。さらに単なる搾取(スペイン人のインカ征服と黄金と比較すると)より現地主義で、現地で交易品を見つけ、それを欧州に持ち帰り、利益を得る、同国からの交易品、アジア方面には1万の銃砲の生産と言う長期計画であった。

香料は重要なる商品で、一つのカメで船舶一艘製造に値する利益を上げた。ゴア工廠では15世紀末から大砲、銃の生産を行った。鉄砲のカラクリはニュールンベルグ方式後方から前にハンマーが落ちる、ボヘミアン方式前から後ろに落ちる両方式が造られていた。前者は引き金でなく、ボタンとバネでハンマーが落ちた。また金属と、特に弾丸の材料、鉛はインドに多くを産した。しかしポルトガルの活動は特にゴア以東は海岸線上に限られて、内陸部はイスラム圏であった。

マゼラン・バスコダガマの活躍が特記される。
まとめるとポルトガルの、「拠点主義」と「交易主義」が15世紀後半から16世紀前半の国家的な方針であり、それが遠く日本まで到達する原動力を生んだ。またポルトガルと日本人の接触の最初は1509年マラッカにおけるポルトガルと、現地のサルタンとの戦闘の際と記録されており、その日本人による本国への連絡があったことはおおいに想像に値する。「鉄砲が日本に来ることはすでに伝来約30年前から戦国時代の日本に到達していたと推定されよう。」

B.フランキ砲の真実

ポルトガルはローマ法王庁とは別に、対立する形が世界基督教布教に努めていた。イエズス会である。鉄砲をほとんど同時にフランシスコ・ザビエル宣教師は日本に到達し、足利将軍に転輪式火打ち式銃を献上していた。また大友宗麟、クリスチャン大名にはフランキ砲を献上(交易)した。その数は10門くらいと推定される。
フランキ砲はリスボンの博物館で多く、観察することができる。
ほとんどが火薬・弾丸を込める後装式分離式部品が欠落しているが、
幸運にも1門に装着してあり、くさびを外すことができ、子砲を着脱した。もしこれがもう少し完全なものであったなら、射程、正確度、多くの砲は早くから後装式になっていたはずだ。

2,リスボンの軍需博物館

(2010年8月16日訪問)


海岸の近くの古い兵舎を利用した広大な博物館で、中庭には約200門の青銅砲が並べられている。このことは「ゴアで1万の砲を作る」と言うポルトガルの政治的な方針をある程度証明している。
地下の展示場にも膨大な鉄の砲が展示されている。後装砲、フランキの子砲が入っていた。Tさんがくさびを抜いた。近くにいた係員に構造を観たいと依頼したら、くさびを抜き、子砲を取り外してくれた。子砲の内径は小さい、その取り付け方法、仕組みなどを詳しく観察することができた。


火薬の煤などを考えると、砲腔より小さめの弾丸、少ない火薬、近距離で使用したと予測される。
この博物館は回廊式で、火縄銃は、ニュールンベルグ方式、ボヘミアン方式、日本に伝来した原型(火打ち型だが)などが数多く展示されている。砲も圧倒的に多い。砲がポルトガルの交易品、これで大分利益を上げたことは自明である。日本に小型のニュールンベルグ方式が来たのは船舶搭載と言う意味では自然なことであった。

膨大な大砲の列

3,ポルトガル海洋博物館

(2010年8月14日訪問)

リスボンの街を海岸沿いに行くと、軍事博物館から車に乗り、10分間くらいで行きつく。ポルトガルの15世紀から現代までの商船、軍船、その他の船、艦艇、水上機、海に関するものは何でも展示してある。最近のものではソマリア沖海賊の展示もある。
武器兵器、と当時の精密な模型。これが大変に役に立つ。この博物館もどうしてこんなに大きなものが出来たのか不思議なくらい大規模なものだ。そしてこの国はやはり「大砲」の国のはしりであった。
大砲はどこにでも置いてある。
現代の艦艇では日本のように戦艦、空母、大型潜水艦などはない。
もう20世紀には小国になっていたからだ。

16世紀に世界の海を征した艦船。

バスコダガマ、マゼラン、彼らの功績は大きい。彼らのあとにスペインや英国の航海時代の活躍があったからだ。そのモニュメントは博物館から海の向かったところにある。

中東、東洋などの船の実物

現物を観察する事により、多く議論された疑問は次々と解決されて行く。

江東区深川江戸資料館 特別展「江東幕末発見伝」

住所:〒135-0021東京都江東区白河1-3-28
TEL03-3630-0021


図録の表紙

我らの会員中西崇氏の関係している施設だ。残念ながらこの展示は8月15日まで。同資料館は1986年に開館し、どちらかというと民俗的な江戸期の江東地区の生活を展示した内容だ。両国の江戸東京博物館より、領域を限れば優れた展示だ。


深川江戸期の街並み
東京に住んでいても江東、越中島は要領が分からない。しかし今は地下鉄
1本で行ける。資料館の関係者は先回、前装銃大会ビデオ撮影のために千葉の射場に来られた。画像は図録だが立派なもので、A4,カラー印刷100ページ、
1000円だ。興味のある会員は図録だけでも取り寄せるとためになろう。


広重小版錦絵より。永代橋の洋式行軍

江戸湾の防衛のために幕末、お台場の建設と担当藩の調練施設が移転されたところで、その内容に関するのが今回の展示内容だ。
鉄砲では火縄銃、ゲベール銃、エンフィールド銃、スナイドル銃、各々銃剣付きの程度の良いものが展示されている。
残念ながら、図録に載っているフランスアンバリッド所有荻野流一貫目砲はなかった。この架台を観たかったのだ。これは要塞砲、下関戦争でろ獲されたものでアンバリッドには10門くらい様々な長州の砲があるそうだ。


図録より架台が珍しい。
越中島の住民を移住させそのあとに松平下総守、忍藩の調練用下屋敷が造られた。松尾芭蕉もここでは忘れてはならない人で、「鉄砲百カ条」「長門流伝書」などの文献が見られる。その他地域の人、文化を網羅してあり、武器兵器に関わっていた人たちも多かった。


図の右手が銃砲の調練場か。図録より。以上。

靖国神社遊就館

正面

新設された展示場

住所:東京都千代田区九段北3-1-1

交通:市ヶ谷駅から徒歩15分

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靖国神社は幕末維新内乱による犠牲者、さらにさかのぼり幕末殉職者を祀る神社をして明治維新後設立された。祀られたものを英霊として第二次世界大戦戦没者まで続いた。各国には同じような施設はあるが、神社として宗教的な性格をもち、さらに近隣諸国の日本の政治体制のバロメーター化されているのは靖国だけである。

遊就館は「靖国神社に鎮まります祭神のご遺書、ご遺品をはじめ英霊のまごころやご筆跡を今に伝える貴重な資料を展示している」という。10万点の収蔵品には絵画、美術品、武具甲冑、武器兵器類も多く含まれている。これらは「やすらかな国造りのため」尊い命を無くされた人々を偲ぶ、と言う目的で展示されている。

従って、単なる武器兵器の歴史、その実態の展示ではなくて、見学する人々が過去、国に奉じた人々、英霊に触れる場所でもある。

展示は古代から特に第二次世界大戦までの長い歴史を説明しているが、前期のような主旨であるので、正確なもの、系統的なもの、論理的なものを追求すると少し厳しい点が目立つ。

その膨大な収集物、展示物から、1・鉄砲、2・大砲を取り上げてみたい。なお、拳銃に関しては複製品の「脇差鉄砲」なるものがかなり以前から展示されているが、その意味は不明だ。図録「遊就館」が2010年2月に新しくなり、カラー印刷、130ページ、\1900-

1・鉄砲

①  火縄銃関係 相変わらず、江戸期の6連シリンダー式の火縄銃を主においてある。江戸期のものに間違いないであろうが、部品の欠落が多い、またこれは趣味的作品であり、

主たる武器ではない。その他に2挺の輸入筒がある。南蛮筒と称し、口径12mm、全長106cm、銃身長72cm、一枚バネ、引き金がかなり前にある銃。これは完全品だ。

下段の南蛮筒は銃身が他のものであろう。象嵌がなされているが、日本の象嵌だ。

一般的で完全な日本の火縄銃の展示がない意味が良く理解できない。

残念なる火縄銃の展示

②  幕末の銃 上にはスナイドルの猟銃改造銃。中はスタールカービン。下はゲベール銃管打ち式。口径17-18mm、3つバンドだ。国産品と推定されるが記述はない。

その他、西南戦争で谷少将が熊本城で使用してという管打ち鉄砲があるが、これは猟銃。

上、スナイドル改造、中、スタール機銃、

③  明治の軍用銃 二十二年式歩兵銃後期型の完全品がある。手入れをしてないので、見るたびに錆が進行している。珍しく三十年式小銃があるが、三十年式銃剣は何に使われたのか、身は細り、木柄は素人細工。この2種類しかない。

三十年式小銃6・5mmと銃剣

④  第二次大戦期の小銃 三十八年式歩兵銃と表示されたものがあるが、これは教練銃であり、実銃ではない。今まで2回、そのことを指摘したが、訂正する意志はないらしい。

珍しいものでは空挺用二式小銃があるが、なぜか重ねて結んである。これは勿体ない。接続部が良くわかるような展示が重要であろう。

二式空挺用小銃7.7mm

2・大砲類

①  青銅加農砲 外部に展示。「150ポンド陸上用加農砲」とある。要塞用と言う意味か。嘉永2年(1849)薩摩藩製造でお台場天保山砲台に設置された。口径29cm、

全長421cmで、明治元年(1868)大阪砲兵工廠で8条施條が加えられたとある。

安全な設置

②  芝辻砲 この砲は佐々木稔氏がJFEの研究所に持ち込み、大変な作業であっと思うが、超音波測定で8重になっていることが判明し、鋳造ではなく、鍛造であることが証明された。瓦状の厚い鉄板を筒に被せてこのような分厚い砲にした。しかし

93mmの口径に外径は1110-1300mもあり、照準器もとても厚く実用的なものとは思えない。どのような架台を使用したか、どのように運搬し、運用したかははっきりしない。以前は外部に放置してあったが、今は屋内に錆の進行などからも鍛造であることは推定できる。

③  仏郎機砲(フランキ)砲、ポルトガルがゴア工廠で交易品として製造し、大友宗麟に献上した(購入した)「国崩し」と呼ばれる青銅砲だ。以前は複製品ではあるが、

装填筒があった。口径9cm。全長290cm、しかしこの方式の砲は明らかに地上用ではなく船舶用のもので、和船には搭載できなかったはずだ。恐らく有効射程は100mくらいか、ガスが漏れるし、弾丸はまっすぐ飛ばないはずだ。実物を見れば理解できる。

④  三百匁玉鋳造砲 口径67mm、全長152cm、韮山の反射炉から抽出した鉄で製造した鋳物砲だ。「小型加農砲」とあり、で施條してある。このくらいの大きさは野砲だが説明はカノン砲となっている。表面を見ると、鋳造の鉄肌が良く出ている。

野砲だろう。

⑤  日中戦争から第二次世界大戦までに使われた砲類は多い。なかには戦艦陸奥側面についていた備砲と呼ばれる三年式50mm砲が防盾の中に入った状態で展示されている。そのほか、高射砲では海軍三式8cm砲、陸軍八八式7cm砲。

四一式山砲、インパールで使用された二式追撃砲20mm、硫黄島からの四式推進砲20mmなど珍しいものがあるが、三八式野砲がない。

右九六式瑠弾砲、左八九式加農砲

機関銃類は以前、もっと展示があったように思う。寄贈された九六式軽機関銃、無可動化のためか、戦闘傷には見えないが、機関部の横に大きな孔が開けられていた。九二式重機は三脚架がなく、九六式25mm対空機銃と一緒に、ただ置いてある。興味深いのはロビーの零戦52 型とその手前のエリコン20mm九九式機銃だ。しかしこの取り合わせは合ってない。エリコン機銃は60発入り円形弾倉付きで完全品だが、この機種には武器学校に2門ある、JFEの河村博士が開発したベルト給弾、200発の九九式改2型がつく。武器学校の1門と交換することを提案したい。

零戦52型と同21型についていたエリコン20mm機銃と60発弾倉、完全なものは珍しい。

遊就館の見どころは大型の展示と戦争毎のパネル説明、それに使用された装具類の展示だ。特に「硫黄島」の前には大勢の若者が見学していた。

また遺骨収集団が集めてきた戦場の遺棄兵器装具の類を延々と展示するのはもう時代的に合わないと思う。これらも必要だが、やはりきちんと体系的に日本人がどういう戦いかたをして国を守り、散っていったかを論理的に示すことがこの館の使命であると

感じた。下の写真は戦没者の顔、顔、顔、国のため、家族のため、友人のために、心ならずも散った人々、けして忘れてはならない顔だ。

画像、

撮影可能場所は撮影、その他は図録より、また過去の写真などを使用した。

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