7 、日本の対化学兵器用防毒面・装具など

地下鉄サリン事件1995・3
1995年3月、「地下鉄サリン事件」は日本だけでなく世界に化学兵器テロの恐怖を知らしめた重大な事件だった。地下鉄という密閉された空間に同時多発的にサリン、猛毒なガスを発生させ、13人の犠牲者と6300人の後遺症が残る負傷者が出た。犠牲者が比較的に少なかったのは、当初原因不明であったが、信州大学柳澤教授など松本サリン事件に関わって人からや、自衛隊化学部隊からの通報が早期にあった。そのために全国には少量しかなかった治療剤が速やかに製造会社、自衛隊、その他地方から集められ被害者の治療に使われたからだ。朝のラッシュ時には首都圏には8000本の電車が走り200万人が利用しているそうだ。犯人は一番効果の大きな盲点を狙った。災害だけでなくこういうテロは
世界各地で予測できる事態だ。
現在日本では自衛隊が化学兵器対処には最大の専門組織であるが、大日本帝国陸海軍も対化学兵器には相当神経を使い、様々な装具が残されている。その一部の現物を紹介したい。
帝国海軍と陸軍では対応の背景が異なり、海軍の場合は艦艇火災で有毒ガスが発生した際を意識していた。陸軍は敵の化学兵器(第一次大戦の活用とソ連の装備)に対応したものであった。被甲(ガスマスク)は分離型で、有毒物質を取り除く缶を通じ、空気を取り込み、顔全体を被う目の部分はガラス窓になった面を被る。排気は別な口からだす。正しく面を装着しないと隙間から有毒ガスを吸い込むことになり、効果がないので、面の正しい、速やかな装着を訓練した。また被甲を装着したままの作業や、戦闘も訓練した。


陸軍の訓練

本土への空襲が予想されるようになると民間でも被甲は使用訓練がなされた。
空襲による火災、有毒ガス投下に備えてだ。民間の、また陸軍の後期の被甲は
缶と面が一体型で、現在、各国で使用されている被甲は大体この形式だ。
現在でも缶の中身や面の素材の劣化から比較的、頻繁に交換するので、外国の余剰品(サープラス)店では古いものを販売している。大体3000円くらい出さないと使用できるものは購入できない。だから新品の良品は1万円くらいするのではないか。帝国日本軍の当時も品でも現在の価格でそのくらいはしたであろう。

① 民間の防毒面

昭和17年、「日本ゴム」社製、「防空用市民防毒面吸収缶圓用二号(甲号)
缶は直径10㎝、高さ7㎝、面は長さ20㎝、幅17㎝。

缶の口栓が欠如しているが、ホースへの繋ぎ部分にはベークライトを使い、品質も保存の程度も良い状態だ。6本のゴム紐で顔に装着する。
民間の防毒面は各社が製造し、デパートなどで販売していたそうだ。戦時中、
外出の際は、鉄帽、防毒面、水筒などは携行品として必需であった。
推定使用時間は10時間くらいだろう。

② 防毒足袋

全ゴム製で、長さ29㎝、幅11㎝、裏は黒いゴムで覆ってある。高さは20㎝
で、日本古来のわらじ式に紐を回して固定する。これを単独で使ったのではなく、ゴムのワンピース型の防毒衣の足部分であっただろう。ゴムは相当劣化しているがこれでも良いほうで、保存に気を使っている。


米軍マニュアルに観る日本軍防毒衣

③ 帝国陸軍一体型「九八式被甲」

従来の被甲、分離型は携行に難があった。使用時間は33時間と短くなっても缶と面が一体となり携行に便利だった。缶は丸管で、直径9㎝、高さ7.5㎝、面は高さ18㎝、幅18㎝、面はゴム製、目の窓は直径5㎝。吸気は缶より直接行い、排気は面の下、裏に付いている。「軍事秘密」の表示があるので、この形式は最新型だ

「軍事秘密」の文字

④ さらし粉入れ

さらし粉(カルキ)は解毒剤で有害物質が入った水や、撒かれた毒、もしくは身体に付着した有毒物質の解毒を行った。そのために個人が必ずゴム袋に入れ携行した。そのさらし粉入れだ。右は「昭和壱九」○フと記されているが、裏表にさらし粉の入れ方、おり方が線で示してある。30㎝x18㎝くらいで、折りたたむと10㎝x18㎝くらいになる。

 

⑤ 帝国海軍「九七式一号二型」分離型被甲「24854」

海軍の被甲缶は楕円立方で大きく、缶は背中に負った。缶は頑丈な造りでグレーに塗られている。高さ12㎝、横14㎝、奥行き7・5㎝。

中国戦線の海軍特別陸戦隊員

面は全体の大きさは陸軍用と変わらず、高さ20㎝、横17㎝だが、目も窓が大きく7㎝x6㎝の楕円型、黒いゴム製である。裏の固定ゴム紐は5本。

⑥ 陸軍「九六式軽防毒具」収容嚢

横30㎝x縦20㎝の薄いゴム製の入れ物である。米軍資料によればさらし粉が入っていたとあるが、防毒具とあるので、粉だけでなく、ゴム手袋が収められていたのではないか。詳細は不明。戦場では濡れては困るものを入れたとも考えられる。

⑦ 陸軍分離型「九五式被甲」その1

九五式は第一次大戦後、何回か改訂し、最終的に使われた一般的な陸軍の被甲だ。使用時間は180時間と長い。布製の収容嚢、24cmx24㎝の四角で厚みは10㎝くらいになる。これを常時、携行するのはかなり辛い。弾薬に変えれば100発分くらいになろう。袋の中は二つの部分に分かれ、一つは楕円型の解毒缶が入る。解毒缶の下には台(12㎝Ⅹ7㎝x5㎝)が入り、空気が下から取り込める。もうひとつには防毒面とホース(約40㎝)が入り、袋を肩掛けにしたまま面を装着し行動した。面は6本のゴム紐で顔に装着し、排気はのどに当たる、部分に付いている。面の素材はゴム曳き帆布で、目の窓は直径55㎜と見易い。昭和17年製。南方仕様である。

収容袋の内部には幾つかのポケットがあり、曇り止めやフィルターなどの付属品が収められていた。

(実物大)

⑧ 防毒衣の手部分

緑色のゴム製で保存の程度は良い。長さ57㎝、口の幅25㎝、指は三つの部分に入り、つかむことしかできない。1mの長さのゴム紐で両手が繋がれていた。

 

⑨ 九五式被甲 その2

昭和14年製の初期型で収容嚢の釦と、缶の下に台がなく、袋に付属した帯で浮かせてある。面はゴム製で程度は良い。

 

⑩ 馬の被甲の収容嚢

この袋は良くみる。戦後、もの入れとして持ち帰ったのであろう。サイズが大と小ありこの実物は大。30㎝x27㎝Ⅹ10cmのサイズ。

上、渡河作業中の工兵隊、下、馬の面収容嚢

 

⑪陸上自衛隊化学学校資料館展示品より

同校は大宮にあり最新の放射能、生物、化学などの兵器対応を要員に教育している学校であり、ここで学んだものは各地に散らばり全国に17の拠点がある。

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校舎の道路を挟んで反対側に新しい建物「資料館」があり、なかなか珍しい展示品がある。

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イ、「旧軍ガスマスク」正しくは「帝国海軍艦内作業・戦闘用防毒面」であろう。

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ロ、防毒衣 ゴム製 米国の日本軍マニュアルでも高く評価されたものだ。
手と足が欠落している。(この項、前の説明に手と足は出ている。参照)
水筒の掛け方も違う。これが防毒作業員専用、次が戦闘員のものだろう。

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ハ、九六式防毒衣 被り型 恐らく簡易型として開発されたものだろう。ゴム
引き布が使われている。

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防毒面の掛け方が違う。

ホ、検知器箱

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ヘ、「航空機用防毒面一式」 搭乗員用であろう。

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ト、化学剤収納容器 2-30リッター用の大型

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チ、除染用噴霧機 動力は何が使われたのだろう。火炎放射機に見かけはちかい ノズル部分

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リ、「九五式物科検知器」携帯用で入れ物自体に防毒加工がされている。

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学校資料館の日本帝国対化学兵器用展示品には性格な説明と効果的展示が必要であろう。

 

以上