実射1:「一〇〇式短機関銃と九六式軽機関銃」の実射

「レイテ戦記」(大岡昇平著 中公文庫刊)は昭和19年後半のヒイリッピン・レイテ島に於ける日米の激戦を、両国の資料か ら、また大岡氏自身の体験と各種の聞き込みから、客観的且つ詳細に描いた優れた記録である。戦争のむなしさと悲劇は、現在両 国にとって何の価値もないこの島で、日本軍は精鋭兵力と最新兵器を多く投入したにも関わらず、投下兵力10万人中2000人 しか帰らなかったと言う事実に集約されている。
今回、このレイテでアメリカ軍にろ穫された日本のふたつの兵器、一〇〇式短機関銃と九六式軽機関銃を、これらの所有者の協力 で実験する機会を得た。当地でもこの種の自動火器は、年々規制が厳しくなり、今回のような公に認められた実射は、日本軍兵器 の特殊性(実包・部品の供給)と、規制と合わせて実施が年々難しくなってきている。実験に使用した兵器は連邦政府(ATF)のラ イセンスが付いているものであり、また実験の協力者のリビー教授は、全米一の日本の機関銃研究者であらゆる部品補給と実包を 供給出来る方で、同氏には安全に実験が実施出来るように的確な指導いただいた。この結果は以下に述べるように各種の新発見の 連続であった。リビー氏も日本の機関銃に関する本を執筆中で筆者も日本語の資料に関して協力している。

「レイテ戦記」中に「天号作戦」(昭和19年12月にレイテ島で行われた空挺攻撃)で使用された兵器に関して以下のようにあ る。
「この作戦に使用された第二挺進団(高千穂部隊)は優れた装備を持った精鋭であった。この部隊は11月中旬西筑波と九州で編 成されたばかりであったが、その装備を見れば、永年各研究所の苦心の末出来上がったものであることがわかる。兵力は挺進一個 連隊500、団1000(連隊が2つの師団のことー筆者)であるが、兵はみな口径8ミリの100式短機関銃(ママ)を持って いた。これは中央工業株式会社顧問南部麒次郎中将の設計のもので、命中率は悪いが、一分間900発発射出来るので(発射速度 のことー筆者)、接近戦には極めて有効であった。(のち、バレンシアに降下した一部が、第一師団の将兵と合流したので、土居 参謀の記憶に残っている。米兵はこの銃の優秀性を知っていて、降下兵を見ると逃げたという)。さらに九九式7.7ミリ軽機関銃 を別に包装して投下した。これは日本軍が最も多く用いた九六式6.5ミリの口径を大きくしたものである。ー略ー 2年前にバレ ンバンに降りた「天降る神兵」の装備に比べると大変な進歩で、日本の軍事技術家の苦心の結果であることがわかる。」

この記録によれば、ここにあるだけでも1000名の挺進兵に一〇〇式短機関銃が装備されていたことが偲ばれる。このレイテの 降下作戦に実際参加した兵力は輸送力から300名くらいの単位であったと思われるが、恐らく日本軍が組織的に一〇〇式短機関 銃を使用した唯一の実戦例ではなかろうか。一〇〇式短機関銃は昭和17年頃中央工業・南部で生産された前期型と19年に名古 屋工廠で生産された後期型の2種類存在する。今までこの種の兵器は日本軍においては微々たる存在でしかないと思われていた。 しかし筆者の先の調査では大戦末には海軍は輸入のベルグマンなど欧州製のものを6000挺、陸軍は国産の一〇〇式を一万挺位 を装備していた。最近一〇〇式後期型の実物は8000番台の後半まで見られている。また聞いたところではアジアのある国(ミ ヤンマーか)から80挺の一〇〇式短機関銃がアメリカに輸入され、無稼働銃に工作して日本で発売される計画があると言う。海 軍の輸入品は1920年代の後半から継続的にあったらしく、口径も9ミリと7.65ミリの2種類あったようだ。これは残された 実物が非常少なくてその実態はよく分からない。ベルグマンP-28に「錨 」の刻印が押されたものを見たことがある。

一〇〇式短機関銃もその現物は少ない。恐らく全米で数10以下であろう。今回実験に使用した銃は昭和19年12月6日レイテ 天号作戦に使われ、米軍にろ穫されたものと記録されている。なお日本の短機関銃総数に関して、機関銃研究家のトンプソン氏は 25000挺としている。(筆者の計算では陸海軍合わせて16000挺) 一〇〇式機関銃後期型は名古屋工廠の記録では同年の5月より月産1000挺のわりに生産した。番号からこの銃は7月頃に作ら れた計算になる。まだ銃床板が鉄であるが、その後この部分は木板になり、8000番くらいになると、安全栓も無くなり、様々 な省力化がなされた。仕上げなどは九九式小銃と同じような時代経過をたどり、これは小銃の19年夏の生産と同じような質と思 う。銃床は赤みがかったカシュー仕上げで、金属部は黒錆染めである。余談だが、兵器生産の質は19年の夏をはさんでドラステックに変化した。

九六式軽機関銃は昭和11年(1936)に制定され、翌年から6年間にわたり約41000挺が小倉工廠(一部名古屋、奉天工 廠)で生産された。 機関銃研究者の間では「第二次大戦当時世界で最も信頼性の高い軽機関銃」という評価を得ている。実際その完成度の高さは現在でも通用するものであろう。 これらの兵器の詳細は筆者の「日本の軍用銃と装具」(国書刊行会刊)を参照して欲しい。現在、筆者はこの本の続編として「日 本の機関銃」の執筆に臨んでいる。
今回の実験はこの研究の一環として計画し、9月後半にアメリカ北東部の、教授の友人所有の砂利採集場の一部を借りた実施され た。「射撃」とは標的とスポッテングスコープを用意して行うもので、私たちの研究では、子供ではあるまいし、空き缶やプラス チックボトルなどを撃って喜びはしない。但し将来、各種の弾丸また口径の差をみるために、廃車などの鉄板を撃ってみる計画を している。
テストは安全を確かめ、2日間にわたり実施したが、レポートの写真は2日目に撮影したものである。第一日は天気が悪く、かな りの雨降りで身体も兵器もずぶぬれになり、後の清掃・整備が大変だった。

 

一〇〇式短機関銃

一〇〇式短機関銃は信頼性が高い

今回一箱50発60ドル(8000円)もするFC社のちゃんとした実包を150発用意したがこれが実験の成功の鍵であった。 アメリカで8ミリ南部弾は戦後50年間に何種か発売されているが、筆者はこれらすべて元の南部弾に比べ若干弱装であるとみて いた。今まで発売された南部弾で現物のように弾丸を3個の窪みで薬夾が挟んでいたのは「ミッドウエイ」社のものだけで、この 実包はすでに発売されておらず、今ではコレクターズアイテムになっている。この窪みは重要な要素で、例えば拳銃でも何らかの 理由で閉鎖が不充分であった際など、このために弾丸が圧縮されて変形することが少ない。これは一〇〇式のような自動銃の場合 はもっと顕著である。
とにかく今回の実包は良かった。弾倉に25発づつ装填して(実際は30発装填できる)、6回の射撃を行った。2日目は4回連 続して発射したが、回転不良(ジャム)は一回のみであとはすべて良好なる回転でこの兵器は部品は少ないが信頼性の高い兵器で あったということが証明された。
なお、スプレー油を必ず発射前に弾倉内部(実包)、機関部にかけた。

弾丸の集中率が高い

一〇〇式の照門は2段階になっている。下が環穴(ピープ)で上が筋である。「日本の軍用銃」で環穴が100メーター、筋が2 00メーターではないかと書いた。実験の結果、これはこの通りであった。50メーターの距離、環穴照門の射撃では、弾丸は1 0センチ上に行く。これはこの照門が100メーター用であることを示している。
筆者は他の同種兵器、ステンマーク3、MP-40なども有名なスコッデールの「マンダール」射場で実験したことがあるが、こ の2種とも、連続発射において最初の3発は狙いに当たるが、4ー5発目からは右上に行ってしまう、というパターンを示した。 しかし、一〇〇式は10発を連続して撃ってもすべてがひとつのグループに入っている。銃本体のバランスと銃口の制御が良く出 来ているからであろう。50メータの距離で8センチくらいの集中をしめした。三十年式銃剣を装着して発射した。

整備、清掃が楽である

一〇〇式短機関銃は銃床の左横のD型環を90度回すことにより簡単に、銃床と銃身に分解できる。二つに分けて束ねると長さは 70センチくらいになりコンパクトに運搬出来る。さらに銃身後部右横の柄を180度後ろに倒し、これを抜き取ることにより、 尾筒底を外し、復座ばねと円筒(ボルト)を簡単に取り出せる。撃針は円筒に固定されており、その他の部品も全て固定なので、 取り出した円筒を掃除するだけでよい。拳銃のそれよりもはるかに楽である。
後期型は回転が分間800発と早くなった。大岡先生の言うように分間これだけの弾丸を発射は出来るわけではない。よしんば発 射しても意味がない。弾倉には30発しか装填出来ないし、弾倉の交換にも時間が掛かる。何よりも目標に対して照準しなければ ならぬ。発射速度を早くした仕組みは尾筒底の緩衝ばねであるが、これは前期型(分間450発)に比べ僅かに短くしただけであ るが、不思議なことによく機能している。機能的には後期型は前期型に比べはるかに改良されたが、前期型は仕上げが最高級で、 後期型はそれまでの日本軍の小火器になかったような作り方、溶接で各部を組み立ててある。
リビー教授は弾倉は一人の兵が8個くらい持っていたと推定している。アメリカ軍は機関銃の戦利品(ワー・トロフィー)として の持ち帰りは許しても、弾倉を持ち帰らせなかったので、現存する弾倉は非常に少なくて、弾倉のない銃が多い。弾倉の専用の入 れ物は記録されてない。十一年式軽機の属品入れ嚢、雑嚢などが使われたのであろう。軍装研究関係の方で情報があれば教えてい ただきたい。

昭和19年に名古屋工廠関係で生産された空挺用の兵器に、分離型二式小銃(7.7ミリ)と二式短剣がある。今回二式短剣を持っ て行ったが、一〇〇式にこの短剣のみを使用したのか、普通の三十年式銃剣を使用したのか不明である。二式短剣は豊田で作られ たが、剣身は黒錆染めで、白磨きのものは複製品である。
なお、今まで8ミリ南部弾は軍用としては「弱過ぎる、威力が無い」等の記述も目にしたが、欧州製の各種9ミリ拳銃弾兵器と比べて、このように標的射撃をする限りにおいてはそれらの大きな差は感じられない。

 

九六式軽機関銃

この実験はやはり標的を使い75メーターの距離で実施した。この距離は軽機関銃の射撃には若干短過ぎた。最低150メーター くらいは欲しいところだった。2日間に3種の実包で200発の実射を行ったが、中国製の実包を除き回転不良はなかった。リビー教授が事前に部品等を良く点検し、整備したからであろう。

 

銃剣装着は白兵のためでなく、銃口安定のためである

相当に分かっている人、例えばトンプソン氏でも「日本軽機の銃剣装着は不適切な設計」としている。「この銃剣付き機関銃で弾 が無くなったら戦おうとしたのか。」「軽機の銃剣術はあったのか。」違う。この銃剣装着は命中率を高めるよう、銃口部分を安定させるためのものである。もし弾が無くなって、銃剣で戦うはめになったら、銃剣は手に持てば良い。そのほうが身軽に使え る。九六・九九式軽機に銃剣を装着する設計は、全ての兵士の個人装備の重量600グラムの銃剣を活用して機関銃を安定させよ うとしたものである。初めから先端を重く作る設計は他を犠牲にしなければならない。日本で読んだ「機関銃にも銃剣を付けさ せ、これで白兵をしようとした、日本軍の精神主義極めり」的なご意見は間違いである。ちなみに銃剣無しの平均スコアが75点 くらいとすると銃剣を装着すると85点くらいにまで上がる。回転も良くなる。リビー教授は昨年、筆者が初めて銃剣を装着した まま射撃をした時にすぐにこれに気づいて「銃口の安定が全然違う。」と指摘した。この例でもわかる通り1930年代の日本 は、現象面で様々に国の内外共に誤解されてることがまだ多い。

目視照準と別な銃の照準眼鏡でも弾丸は同じところに行く

九六・九九式の軽機に左に目視の照準があり、右側に2.5倍の眼鏡が装着できる。九六式と九九式の眼鏡は見かけはほとんど変わ らず、大宮第一工廠の他、日本光学、東京光学、高千穂光学、榎本光学、富岡光学など複数の製作会社がこれらを生産した。狙撃 銃の照準眼鏡と同じく固定式でこれを銃本体に取り付ける際に調整できない。「どうやって調整したんだ。」これがいつも聞かれ る質問である。眼鏡には銃の番号が入れられてる場合と無い場合がある。また台座によっては合う眼鏡と合わないものがあるが、 これは台座を少し削ることで解決できる。
筆者は日本陸軍技術本部は、銃の製造社と光学会社にそれぞれ正確な図面を渡しこの通り作りなさい、そして品質検査を厳重にし て、いかなる銃と、いかなる眼鏡とも、互換性がある、このようにしていたのではないか、と推察していた。勿論試験射撃で幾ば くかの記録上の修正はしたであろうが。
今回の実験では同じ銃で、左の目視と右の眼鏡を交互に使いながら、標的射撃を行った。75メーターの距離では、このふたつの 方式の照準の弾は、ほぼ同じところへ行った。距離が遠くなるとどうなるかは分からないが。
ちなみに使用した眼鏡はこの銃のものではないものであった。アメリカ南部の日本の機関銃研究家レジスター氏は九六式用と九九 式用の眼鏡(レンズ上の線と数字が違う)は互換性がある、同じところに弾が行く、としている。確かに物理的には互換性はあろ うが、実包の性能が違い、弾道が違うのであるからこれは理屈に合わない話である。しかし、2ー300メーターまでの近距離で は、弾丸の性能による差は出てこないのかも知れない。照準眼鏡は1500メーターまでの表示がある。

この実験で、日本の照準眼鏡は図面通り正確に作られ、どの銃にも現場で調整しないで合うように設計・生産されてたことが証明 された。アメリカ人に言わせれば、同じ形式の眼鏡を数社の会社が同じように製作したことそれ自体ひとつの大きな驚きであると してる。これは1930年代後半の日本産業事情の窮余の策であったのだろうが、戦後数多くの光学会社がカメラ、ビデオさらに、コピーマシン、プリンターなどレンズ電子産業に大発展しいった下地を作った。

東京・小倉工廠のマークは「同弾」の印

明治20年頃より、「四つの輪」が重なったような刻印が東京工廠で使われるようになり、兵器にこの刻印が打たれている。19 20年代の半ばに小倉に移転してからはこの印が小倉のものとして使われた。名古屋工廠の印は鯱をデザイン化したと言われてい る。この「四つの輪」は日本の伝統的なものとも違うし、誰がどうしてデザイン化したのか、不思議に感じていた課題のひとつで あった。(重ねて置いてあった大砲の弾の底部をデザインしたと言う説もあるとのことだが、あまり面白くない。)今回、九六式 軽機の射撃の弾痕を見ているうちに、「そうだこれは同弾、4発以上の弾がすべてひとつにまとまった、その性能を象徴したので はないか。」と気付いた。九六式は特に弾丸の集中率が良いと言われていたが、今回の実射では標的に4発以上の同弾が3回見ら れた。この弾痕の形が東京・小倉の刻印に似ていた。太平洋の戦いのアメリカ軍の記録で、死傷者の原因別では軽機関銃によるも のが一位であったと言う事実を聞くと納得できる。この集弾率の高い日本の軽機に撃たれた者の半数は死亡したそうである。勿論 この刻印が制定された頃には機関銃は存在してなかったが。

規整子が円滑な回転の鍵である

規整子とは瓦斯筒(銃身の下にあるパイプ。その中に、銃身のガス一部が抜けて、その力で内部の活塞というロッドを押し下げて さらに復座バネの力とで、排夾、装填、撃発を繰り返す。)の前端に付けられた、5段階に抜けるガスの量を調整できる部品であ る。1から5までガスの量が段々多くなり、強さが大きくなる。普通1から始めるが、機銃が発射を重ねるに従い、汚れなどのた め回転不良が発生するようになる。そうすると2に上げるとまた滑らかに回転するようになる。では初めから少し強めにしたらど うか。このような考え方もあり、例えばBAR(ブローニング・オートマティク・ライフル),AK-47などはそうなってると思う。しか し、日本軍の考え方は少し違い、ガスが強すぎると、命中率が悪くなる、銃の部品を痛めるという二つの理由から、この規整子を 頻繁に活用させた。今回の実験でも様々に規整子をを試したが、この活用で思い通りに銃を回転させることが出来た。優れた機構 と工作である。
回転不良には2種あり、ひとつは排夾・装填の力が足らず、空薬夾が残ったり、挿弾される実包が斜めに詰まってしまうケース。 もうひとつは、活塞が引き金の位置まで戻ることなく、どんどん発射されてしまうケース。いずれにせよこれらは規整子を使うこ とでその場で解決出来る。

今回使用した実包はノーマ社のもの、その空薬夾で再装填したもの、中国製のものの3種であった。中国製のものは1950年代 の刻印があるもので、弱くなっており、このようなコントロールの難しい弱装弾にも、規整子を2の段階にして発射したがうまく 回転させることが出来た。機関銃射撃に必要な技術のひとつは、単発、点射(3ー5発)などの発射である。特に単発で撃つこと により、ひとつひとつの目標に確実に当てると同時に小銃と思わせ、機銃の存在を隠すという作戦に使われる。軽機関銃は複数を うまく配備することにより、全体としての攻撃力、防御力を累乗的に増大させることが出来た。この運用の教育も熱心行われた科 目のひとつと言われている。
現在の自動銃は切り替えで、単発、3発の点射、連続と3段階に切り替えられるが、九六式のようなビンテージには当然このよう な機能は無い。

射撃後の九六式軽機の清掃・整備および点検は短機関銃のように簡単にはいかなかった。分解、清掃、点検、給油、組立に2時間 掛かった。このようなビンテージな機械の整備には細心の注意が必要である。特に中国製の朝鮮戦争当時の実包は腐食物質が含ま れているとのことで慎重に清掃した。

実験の総括

今回の実験で感じたことがある。

1)一〇〇式と九六式の2種の兵器はそれらの開発にいずれも南部麒次郎氏が関与していた。南部氏の日本兵器開発の功罪は沢山 あると言われているが、今回の実験でも同氏は日本の小火器開発にいかに大きな貢献をしたことかが実感できた。南部氏の伝記を 読む限り、彼は「秀才」ではなく「創造人」であった。兵器に限らず一般の日本産業も「創造人」が支えてきたものであり、これ からも創造的能力に依存することが大きい。二つの兵器共細かいところにユニークな工夫が沢山見られた。
2)一〇〇式は言うに及ばず九六式も攻撃的、軽快な兵器で初期のアサルト・ウエポンと言う定義がふさわしい存在である。トン プソン氏は九六式軽機を日本軍は連合軍の「サブマシンガン」的に使っていたとしている。
3)機関銃は銃本体だけを持っていても殆ど運用が出来ない兵器である。弾薬をはじめ整備、装填のための装具、その他予備部品 をいれるとその嵩は生半可なものではない。従って補給の難しい戦場、レイテみたいなところでこれらの兵器を使用してた現場の兵士の苦労はいかほどのものであったろうか。気楽にスプレーで油をかけながら感じたことである。

最後にもしこのような実験でも実施しなければ、ここに書いたような日本の主力歩兵火器の軽機関銃などの開発、工作、性能など の背景、考え方等々の歴史的重要な情報が永久に得られなかったのではないかと思う。兵器も重要な歴史的な学術研究の対象のひとつである。現在の日本の兵器研究軽視は文化・文明の抹殺に等しいのではないかと思う。

参考文献:

1)「レイテ戦記」大岡 昇平著 中公文庫
2)「マシンガン」ジム・トンプソン著 パラデインプレス
3)「ショット・ファイアード・イン・アンガー」ジョン・ジョージ
4)「ザ・マシンガン」1ー5巻ジョージ・チン
5)「ハッチャーズ・ノートブック」ジュリン・ハッチャー
6)「九六式軽機関銃取扱上の参考」 陸軍歩兵学校編
7)「日本の小銃」 第1巻 全日本軍装研究会編