実射2:十一年式と九九式軽機関銃にみる日本兵器史
はじめに
19世紀後半に出現した新兵器、機関銃は「帝国主義」の象徴的な兵器であった。
機関銃はそれまでのいかなる兵器に比較してもはるかに効果的で、威力があり、緻密な機構を持っていた。その装備と運用には技 術力、生産力、供給力など総合的な国家の力を必要とした。そしてこの兵器はそれを理解し持てるもの(国家)と持てないものと の差を拡大させ、世界に支配と被支配関係を、さらなる対立を作り出した歴史上重要な存在であったと考える。
機関銃の機構(反動利用とガス圧利用がある)、特にガス圧利用は、まさしく同じ頃に出た「内燃機関」、爆発により発生したガ ス圧でピストンを動かし機関部を連続して作動させる仕組み、と同じ発想である。内燃機関が20世紀の様々な機械に活用された 動力源となる、と言う事実と考え合わせると誠に興味深い。
今回のレポートは「一〇〇式短機関銃と九六式軽機関銃」に引き続き、日本軍の主要な兵器であった標記の2種 を実射することで、その性能、開発の背景と、さらに日本の機関銃開発の歴史に触れてみたい。これら実験は前回と同じく、アメ リカ、メイン州のエドウイン・リビー教授の全面的協力をもって、全て合法的に実施された。
機関銃は20世紀を象徴する文明のひとつ。
機関銃開発史をみると様々な興味深い事実に気付く。火器出現以来、何とかしてこれを連続して発射出来ないものか、多くの試み が行われた。19世紀半ばにアメリカの医師ガットリングが多銃身を人力で機械的に回転させて、装填、撃発、排夾を繰り返すい わゆる、ガットリング砲を発明し、各国に発売した。日本に入ったものは戊申戦争、西南戦争で使用されたと言う。(どなたかこ のことに関する記述をお持ちの方は教えて下さい。)
この実物は戦前、靖国神社集尚館に展示されていたが戦後の混乱期に行方不明になったとも言われている。多分アメリカ軍人が他 の珍しい兵器類と同じように持っていってしまっと思われる。筆者のアメリカ滞在中にこれを発見したいものだ。 しかしガットリングは黒色火薬の実包を使用していた。黒色火薬は前装銃射撃経験でも、多量の煙とそれに伴う煤を発生し、銃を 汚し回転不良の元を作り出す。黒色は無煙に比べると同じ威力を出すためには7倍の汚れを発生すると言われてる。
従って、次世代の近代的機関銃が出現する背景には、19世紀後半の無煙火薬発明が伴わなければならなかった。無煙火薬の使用 ははるかに銃身、機関部の汚れが少なく、また安定した燃焼で回転を継続させ、連続射撃を可能にした。
火薬燃焼の圧力を回転に返還させる方式には、
1)後方への反動を利用する
2)銃身の途中から抜けるガスの一部を銃身に平行 した筒に取り、ピストンを動かす
3)この両方を使う
の3方式あった。
中でも19世紀後半、2)の「ガス圧利用」の発明は 画期的なことであったと思う。
また連続発射は薬室・銃身の温度を上昇させるので、その冷却も大きな課題であった。 実用になる機関銃を商品化し、これが長く世界で使用されてのはマキシム型であった。それに続き、ホッチキス、ブローニング、 ルイスなど様々な形式が、第一次大戦にかけて開発・商品化された。他にも様々な型が存在するが、ここに擧げた4種に関し、興 味深いことは、全てアメリカ人の開発で、ヨーロッパで実用化された、という事実だ。これらはエジソン、ベル、ライトなど20 世紀文明基礎を作り出した発明の数々と同じく、アメリカオリジンの発明につけ加えてよい事実であろうと認識する。ヨーロッパ にも機関銃開発者は多く存在したが、筆者はこの4人に続く開発者として南部 麒次郎氏を擧げたい。残念ながら南部氏によるも のは日本が中心で、一部が輸出されたものの、国際的な商品にならなかった。しかし南部氏の開発は他には見られぬユニークな点 が多々あり、「南部機関銃」としてひとつのカテゴリーを形成していると、言える。
これに対し上記の4形式のものは、欧米をはじめ日本も含め世界各地で生産され、その生産数においては日本の各形式に比較する とひと桁以上の差があった。
この南部氏が開発した機関銃の一部が今回実験した十一年式と九九式である。
日本の機関銃開発と生産
1904・5年の日露戦争は機関銃が大規模に使用された世界で最初の例で、日本・ロシア共に千の単位で装備していたと推定す る。日本はフランスから空冷、金属板装弾のホッチキス型を輸入し、ロシアは水冷・ベルト給弾のマキシム型を装備していた。写 真で見る限り両国共に3脚架を利用する重機関銃で、軽機関銃の例は今まで見てない。
日本はホッチキスを元に1905年に三十八年式重機関銃を制定した。これが1914年(大正3年)の三年式重機関銃となる。 三八式は最近実物を観察したが、単なるホッチキスのコピーでなく、幾つかの日本的な工夫が見られる。特に照星・照門を銃身の 右に持ってきて、銃床を右に大きく曲げた設計は世界初であろう。第一次大戦が始まり、機関銃は単なる地上兵器でなく、車両・ 船舶そして航空機に装備される重要なものとなった。一方、三脚架に載せて固定し、防備的な目的に使用される重機関銃から、携 帯し主に攻撃的な目的に使用される軽量機関銃が重要性を帯びてきた。その成功作のひとつが空冷筒・スプリングを使わない円形 弾倉を使用したルイス型である。またルイスは航空機に搭載された最初の機関銃でもあった。余談ながらルイス軽機は日本でも海 軍工廠で第二次大戦末期に数多く生産された。
日本の軽機は第一次大戦期に幾つかの試作がなされ、その結果、大正11年(1922)に制定されたのが、6.5ミリ十一年式軽 機である。その開発は南部麒次郎氏で、外国のみならず日本でも「南部式」と言われていた。その後南部氏が民間会社を起こしそ こで開発したのが、同じ6.5ミリ弾を使用する九六式(1936)で、その7.7ミリ弾用が九九式(1939)である。
十一年式はその後、昭和16年(1941)までに総数29000挺が、九九式は5年間に推定53000挺が生産された。十一 年式は18年間継続し生産されたがその品質・形状は一定しており、九九式は5年間に品質は維持してが、形に若干の変化が見られる。
十一年式軽機「何故日本軍はこの軽機を最後まで使用したか」
十一年式はホッチキス型の機構を持つ、空冷軽機である。その特色はベルトも、弾倉も使用しない給弾方式にある。当時の歩兵は 三八式歩兵銃を装備し、その装填に6.5ミリ弾5発が載る金属製装弾子を使っていた。各歩兵は24個、計120発の実包を3個 の革製弾薬盒に入れ携帯していた。十一年式はこの5発の装弾子をそのまま使用することで給弾する仕組みである。装填架と呼ば れる箱が機関部の左側に付き、そこに装弾子を6個、30発を重ねて入れる。(装填架は英語ではホッパー、粉を挽く機械の原材 料箱のこと、呼ばれる)強いバネの蓋がありこれが実包を上から押さえる。左側のこう棹(ボルトハンドル)を引くと活塞(ロッ ド)が後退し、そこに刻まれた溝に従い、装槙架底部の送り装置が動き、一番下右側の実包を右に送り込む。勿論その際に円筒 (ボルト)も後退し、撃発状態となる。引き鉄を引くと、円筒が前進し、実包を薬室(チェンバー)に送り込み撃発させる。発射 のガスの一部が銃身の銃口から13センチ後方下部にある穴から下の瓦斯筒(ガスチェンバー)に抜け、内部の活塞を後部に押し 下げる。この力で空薬夾が排夾され、さらに装填架の送り装置が可動し、次の実包を送り、装填、撃発する。これを繰り返し連続 発射する仕組みであるが、引き鉄を離すと活塞が後退した状態で止まり、発射が止まる。
照準(サイト)は銃身・機関部の右側にある照星・照門を使う。これらは三八式・三年式重機を元にした日本独自の照準方式であ る。照星は左右にガードのある、△形、照門はスライド式タンジェント谷型で、基本は200メーター、左の突起を押し前方にス ライドさせると手前が徐々に持ち上がり、一番高くなったところが1500メーターである。
銃身を被う放熱筒前部に2段に高さを調整出来る2脚があり、それを地上に立てて使用する。この2脚は固定出来ない。銃の重量 は装填架を入れて11.5キログラム。
発射速度は分間約500発、「カタカタカタ」という独特の音をたてる。引き鉄のコントロールは楽で2発、3発の点射も容易で ある。5発ごとに金属板の装弾子は装填架下部の窓から落ちて、上から蓋のバネの力で次の装弾子が降りてくる。今回120発発 射するが回転不良は一切なかった。2ー3発の点射、15発くらいの連続発射など様々な撃ち方を試したみた。瓦斯筒の前部には 規整子があり、ガスの強さを変えることが出来る。5段階で穴の大きさがミリで表示してあり、1.0、1.5、1.8、2.0、2.8となっ ている。規整子の役目は発射速度を変えるのではなく、発射の汚れで回転が悪くなりそうになると、ガスの量を調整し、強くし、 回転を安定させるものである。
いずれも標的に弾丸が吸い込まれたいくように当たり、一般の機関銃にありがちな散らばるというような現象は見られない。90 メーターの距離にある標的には30発単位で30センチ四方に約8割が集中している。同弾も随分見られる。
リビー教授は「これで日本軍が十一年式を長く愛用していた理由が分かった。」とコメントした。 この銃は弾倉が必要ないので、銃と弾薬があればどこでも何時でも手軽に撃てる。
皮肉なことにアメリカに存在する日本の機関銃は短機関銃も含め、専用弾倉の不足から使用出来ないものが多い。しかし、この十 一年式のみは弾倉が必要ないので銃さえあれば何時でも使用出来る。装填架は50近い部品から構成されている複雑な仕組みのも のである。さらに機関部の上に箱形の油缶があり、装填する実包1発ごとに塗油する仕組みで、これは三年式重機関銃の方式とブ ラシはないが同じである。
日本の多くの記述で間違っているものは、「十一年式軽機は銃剣を装着した。」という点である。この軽機は日本歩兵兵器には珍 しく銃剣を装着する機構はない。 実物を見ないで記述するから、最初に誤ったものがあるとずっとそれが踏襲されてしまう。勿論現在の日本では研究とは言え兵器 を手にしたり、操作出来ないから無理もないが、この手の間違いは他にも大変多い。
日本軍がこの軽機を好んだのは、
1)弾薬の供給が容易である。歩兵の弾薬をそのまま使用出来る
2)弾倉を必要としない。発射途中でも消費しただけ補給できる
3)回転とコントロールが容易である。引き鉄の具合が良い
4)命中率が高い。集弾率が高い
などである。
一方この軽機は満州事変初期には現地風土とその複雑な機構が合わず、回転不良に悩まされたとの事実があった。し かし、筆者はこの原因は実包の不適合によるものではなかったかと推測する。昭和13年に出現した、新装薬の実包や現在の実包 もそうであるが、適合しておれば問題は少ないと思う。先にも述べたが今回の実験でも一切回転不良はなかった。
しかし、十一年式はその外観を見てもいかにもビンテージで、すでに1930年代後半には時代遅れの感は否めない。
それらの具体的な点は
1)左右対称でないので、保持し難い
2)部品数が多く整備に手間が掛かる
3)機関部を外さなければ、銃身交換が出来ない(替え銃身を装備していた。)
などであろう。
しかし、昭和16年(1941)までかなりの数を生産しており、この機銃の簡便さへの日本軍の期待がみられた。
十一年式の機構はそのまま1929年、「八九式旋回機銃」(航空機で専用銃手が操作する機銃)に転用されている。この形式は 当時整備されつつあった航空機用の機銃とし、重力に耐え滑らかな回転を保持する給弾機構を目的に、5発装弾子を弾倉に入れて 給弾するという設計で1940年頃まで生産された。但し口径は7.7ミリで縁有り(リムド)の薬夾を使用していた。単銃身のも のと、左右非対称なものを合わせた2連銃身のものが存在するが、いずれも高度な製作技術を駆使した興味深い兵器である。なお この銃の瓦斯筒は下部にはなく横に銃身に平行してあるというユニークな設計である。
車載用には十一年式をほぼそのまま採用した「九一式」がある。銃床を外し、握りとし、装填架を高くして10個の装弾子入れ収 容弾薬を60発とした。八九式中戦車などに装備された。装填架は天井に支えず車載用としては最適の給弾システムの一つだっ た。 九一式で始めて1.5倍の光学照準器を備えたが、十一年式には同種のものは装備されてない。
九九式軽機「世界的な商品としても通用する完成度」
九九式軽機は九六式の7.7ミリ版で、その機構・寸法・外観など殆ど同じである。 従ってその構造と特色に関しては今回は省く。 外観上の変化は、殆どの九九式には銃床に折り畳み式の後脚があること、及び銃身の機関部への止め方がくさび型のネジ(二式空 挺用組立式小銃と同じ仕組み)を採用していることである。弾倉は当然若干大型で立っている。横に小穴が開けてあり、夜間でも 触別出来るようになっている。左側の目視照準、右側の光学照準も同じである。
照準は200メーターが基本で目視照準が左側にあるから、近距離においては照門を一番左にする必要がある。200メーター以 上は照門を右に移動させ、銃口が左に動くように調整しなければならない。また近距離では照門を一番低くしてもさらに弾道は低 くなる傾向にある。これは7.7ミリ弾の性能から照準をそのようにしてあると思われる。今回の実験は標的が90メーターくらい の近距離であったのでその傾向を感じた。照門は輪転で上げ下げするが、200ー1500メーターまで。銃の右に装着する光学 照準器は外観は九六式と同じものであるが、左右の偏流修正数字が20までで、7.7ミリ弾丸が強く回転による影響が少ないの で、距離の目盛りが直線になっている。眼鏡は2.5倍で、薄暮の状態では大変使い易い照準である。
九九式軽機の特徴は何と入ってもその「ラッグドアイズ」(頑丈)さにあろう。今回の実験では事情があり、数年間手入れのして ない銃に、さらに機関部に少量の真鍮金属粉を入れてみた。また塗油が必要ない(装弾器には油缶が装着されているが)というこ とから、一切の給油をしないで、発射してみた。その結果多少の汚れ、異物、油の無さなどは関係無しに良い回転を示した。これ は兵器はいかなる状況下でも使用出来なければと言う思想が良く具現化されている。またさらに他の銃の円筒(ボルト)を使用し て発射したがこれも何の問題もない。小銃・軽機共に九九式になり部品の互換性を重視した生産の結果である。また九九式には替 え銃身は用意されてない。クロームメッキされた銃身一本で済ませている。専用のスパナを使うが銃身の取り外しは非常に楽であ る。銃身と尾筒(レシーバー)の間には修正環を入れヘッドスペースを調整するが、これも九六式には無い仕組み。5種類の厚さ の環(シム)が用意されていた。もう一つ面白いのは銃身に附属している銃を下げるための提げ手(ハンドル)である。いろんな 銘木を使い丁寧に轆轤で作られている。こけし製作の職人などに作らせてのであろう。アメリカで有名な「日本兵の軽機を保持し ての突撃姿勢」の絵は、この提げ手を左手で握っている。これは間違いで、このように銃を構えることは出来ない。突撃姿勢で は、銃の2脚を畳込んで、それで銃身を包み込むようにして保持した。2脚は立てて2段、高と低。畳んで2段、突撃姿勢と背負 姿勢になった。この銃は細かいところも良く出来ている。
銃の重量は弾倉なしで9.9キログラム。7.7ミリ弾は鋼芯弾など、各種の弾丸が用意されていた。その各種弾丸の威力に関して は別途レポートする。
九九式はすでに九六式からそうであったが、実は非常に安価に製造してある。その尾筒は箱状であるが、削りだしでなく、粗末な 素材(ローカーボンの柔らかい鉄)をプレス成型し、製作してある。十一年式、当時の他国のものに比べるとはるかに時間が掛か らず安価に出来る設計であるが、強度上の問題は何も無い。第二次大戦に向けて日本の兵器生産の方針は大きく変化したという実 例のひとつであろう。。現在大量生産すれば十一年式は25万円くらい、九六・九九式は15万円くらいか。但し、九六・九九式 は光学照準器という高価な付属品が用意されていた。
十一年式は「職人芸」、九九式は「経済性と完成度」と言う言葉に象徴されよう。
「弾倉」は大変重要なもの。
十一年式は弾倉を使用しない軽機であったが、その他日本の弾倉は他国のものに比較すると厚い鉄板を使い頑丈に出来ており、こ れは使い捨てでない、という思想で作られている。銃本体と同じく、弾倉も何回かの使用で内部が汚れてくるので、清掃が必要で ある。清掃は上蓋の安全ピンを外し蓋板をスライドさせ外すと長方形のコイルスプリングと抱弾部(フォロワー)が取り出せる。 こうして内部の汚れを拭き取り、塗油し、組み立てる。これを怠るとフォロワーの滑りが悪くなる恐れがある。フォロワーは九六 式は削り出しで製作してあったが、九九式のものはプレスである。スプリングはメッキされている。後方に窓があり、残弾が4発 から数字で示されている。また鉄板の凹みは禁物で、衝撃で変形したものは実包がつっかえてしまう。スプリングも30発を絶え ず装填しておいたら長時間後に弱くなることは否めず、ルイスの円形弾倉のようにスプリングを使用しないものは其の点が長所で あったことは想像出来る。
教本には1挺の軽機に対し、24個の弾倉を装備するとあったが、番号で見る限り16までが最高で、それ以上は見ない。また、 現実2名で運搬出来る数量は1挺につき10個以下と推定する。その為に首掛けの装弾器があり、発射現場で絶えず助手が空の弾 倉にバラで持って行った実包を装填したに違いない。
九九式軽機は小銃と異なり終戦まで高い品質を示していたが、昭和19年後半頃から後脚が無くなり、引き鉄の握りの筋が無くな り、昭和20年に生産されたものは固定照門のものも見られる。
「日立」は世界最高の機関銃製造社
十一年式軽機は約1万挺が東京瓦斯電気と後の日立で生産されたと推定される。 九九式軽機は主に小倉工廠と民間会社日立で生産された。初期には名古屋工廠また満州奉天工廠でも生産されていた。一番多く見 るのは日立の刻印のあるものである。
日立兵器の前身東京瓦斯電気株式会社は東京大森にあり、南部式拳銃から始まり、十一年式軽機などを生産していた。1940年 日立に合併されて、工場も茨城県勝田と水戸に移転した。この会社の特徴は工廠の下請けと言うより工廠と平行して各種の機関銃 を生産していたことにある。九二式重機(100%が日立の生産)、九九式軽機(50%)は特に多く、それらの実物にはマルの 中に日立の文字の刻印がある。観察するに、この日立機械工業完成度は非常に高く、これら機関銃は世界最高の水準にあると言っ ても過言ではない。奉天工廠のものも高い品質であるが数量が日立ほど存在していない。
日立工機社史によれば、1944年下期、月産九二式重機268挺(単価2112円)、九九式軽機1950挺(単価1281 円)とある。 日立の銃身と尾筒の間に入れる修正環はどれも1.3ミリで品質管理の高さを示している。機関銃製造技術は普遍的なものでどんな 機械生産にも転用出来たので、戦中の努力は戦後の産業復興の際に華開いたものと思う。
日本機関銃の数奇なその後
第二次大戦直後の占領軍による日本軍の武装解除の写真がある。横須賀の大きな屋根が破壊された格納庫とおぼしき建物に、1枚 の写真に何と1000挺近い機関銃が引き渡しの為整然と並べられている光景が見られる。それらは約700挺の九六式か九九式 軽機、約300挺の九二式重機の数々である。日本各地でこのような兵器引き渡しが行われ、それらの兵器はすべて組織的に破壊 されたに違いない。本土決戦を決意した日本軍は特攻機と機関銃を主たる兵器と考えて多量に温存していたと言われる。現在アメ リカに残されている日本の機関銃の多くはしかしながらこれらから持ち帰られたものでは無くて、戦場から持ち帰れたものであ る。多くには戦闘傷が残されており、今回の実験に使用したものも沖縄からのろ獲品と記されていた。(先回のレポートに使用し たものはレイテからのものであった。)
また中国・満州に残された多量の機関銃は主に共産軍に引き継がれ、それらは国民政府を台湾に追いやるのに大いに力を貸し、さ らに朝鮮戦争でも多くが連合軍に見られている。余談ながら終戦時にアメリカはソ連に大陸のおよそ200万人分の日本軍兵器装 備と弾薬生産設備などを共産軍に引き渡すことを、なぜ簡単に了解したのであろうか。特に日本軍の多量の防寒装具と数万挺の機関銃を得た共産軍の活発さはその後の歴史を変えた。その影響は現在にまで及ぼされて いると、言っても過言でない。
機関銃はおもしろい
前装銃射撃の際も述べたが、正確で安定した射撃の為に成さねばならぬことは機関銃の場合も多い。射撃の準備と後の整備にも時 間が掛かる。しかしそれだけに銃がうまく回転し、高い命中率を擧げられた時に得られる満足感は普通の射撃とは比較にならない 程高い。特にビンテージな十一年式のようなものを、丹念に整備し、適合する実包を用意し、その射撃を成功さすには大変な研究 と労力を要す。射撃は標的を用意し行うが必である。空き缶、瓶などへの射撃は命中率・威力の研究にはならず環境を破壊するの みで百害あって一利なしである。
機関銃の場合は、単発、点射、連続発射すべて弾痕が異なる。さらに距離、照準眼鏡の使用など様々な状況の変化に対応出来る。
追記: 銃の各部名称は各々の「取り扱い参考」などの教本類による
協力:
エドウィン・F・リビー(メイン州立大学教授)
太田 博道(慶応義塾大学工学部教授)火薬化学知識等
参考文献:
1)「ザ・マシンガン」1ー5巻 ジョージ・チン
2)「ハッチャーズ・ノートブック」ジュリアン・ハッチャー
3)「マシンガン」ジム・トンプソ
4)「十一年式軽機関銃」昭和10年陸軍歩兵学校
5)「十一年式・九六式・九二式検査法の参考」 昭和17年 陸軍兵器学校
6)「九九式軽機関銃取り扱い法」 昭和18年 (株)一二三館
7)「機関銃教練の参考」
8)「日立工機社史」