火縄銃



21、所謂「薩摩筒」の定義と鉄砲伝来 (その一)

(はじめに)

欧州における実用的な火縄銃の起原とその存在期間は、15世紀初頭から1世紀程度であった。その後は急速に燧石銃(火打ち式)が一般的になり、火縄銃は
他の地域、特に日本に伝わり、その後約2世紀間使用された。日本では伝来から半世紀ほどは徹底的に戦闘に、江戸期には武芸として射的に使用され、カラクリ(ロック)をはじめ、照準器、造り、また形状など種類が多い。世界で火縄銃と言えば日本の火縄銃がその代名詞であろう。世界大会でも3種目の競技があり、各々個人戦、団体戦、オリジナル銃戦、レプリカ銃戦があり、30カ国以上の選手が参加するものだ。
一方、日本では1643年にポルトガル人が中国船で種子島に鉄砲をもたらし、その基本形が、現在の鹿児島県と宮崎県一部の火縄銃の形状、所謂「薩摩筒」と
先人の研究は断定している。但し、種子島に残る、江戸期の複製品は薩摩筒とは似ても似つかぬ台尻が太いごついものである。またカラクリに関してみると
薩摩筒は、紀州筒と基本的な点で共通点があるが、銃全体の形状は全く異なる。
この薩摩筒を巡り、まだ疑問は沢山ある。その解明の手掛かりが今回の研究だ。

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(写真1) 薩摩筒

1、 欧州の火縄銃起原は3地域
世界前装銃連盟世界大会(諸先輩と8回参加した)の際に主に欧州の銃砲史研究者、主に、ダインハルト氏(ポルトガル人)、ディビット・グリスデン氏(英国人)等の著作、実際に聴いた内容、指定された博物館の見学などをまとめると、欧州15-6世紀には主に3地域に起原があった。
(図1)

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(結果的に全ての種類の特徴をもった欧州の火縄銃は日本に伝来したと推察されよう)

ポルトガルは言うまでもなく、大航海時代の先駆者で他国に先駆けて、東洋を目指し、インド、ゴアに拠点を造った。ゴアは大規模な工廠で原料はインドに豊富であった。ポルトガル人はボヘミアン(バルカン半島)の銃工を連れて行き、一万挺(門)の銃砲を造り、東アジア、日本まで交易すると言う方針であった。(余談だがゴアに赴任した欧州人約半数が現地で死亡したそうだ。)
ポルトガルに続いて、スペイン、オランダ、英国も同じ方針でアジアとの海洋交易を目指し、各々が銃を持参し、欧州の様々な形式の火縄式銃がアジアに伝わったはずだが、それらは大体が船舶仕様の銃床の短い(チークストック)で
あったようだ。ダインハルト氏の本ではフランクフルト方式はトルコからイスラム圏に伝わり、イスラムが陸地を経て、最前線、マレー半島(マラッカを拠点)にアジアに伝わったとしている。
だから日本には欧州の3形状、全てが何らかの伝手で日本に伝来したと考えられよう。

2、 ボヘミアンとイングランドの形状の異なる点、共通点
現地にも時代を経てるのと使用機関が短かったので、火縄銃の現物は少ない。以下の特徴はポルトガル、英国の両氏の研究によるものである。
銃はいずれも船舶仕様であったので短い、銃床を頬当てにする、などの工夫がなされた。
① ボヘミアン(ポルトガル人が雇用した)は銃床が平たい。薩摩筒は恐らくこの系統であろう。船舶でスナップ射撃をするために小指を掛けるよう後部に切れ目がいれてある。
② イングランド 丸く、棒状の銃床であるが、庵が落としてある。
これは紀州筒の特徴にあり、また時代は下がるが平戸の英国人が献上した銃が名古屋徳川博物館で見られるが紀州筒に似ている。従って江戸期になってから、紀州筒のあの独特な形状、カラクリが確立したのかもしれない。
③ フランクフルト バネを使わない時代から肩当て部分が厚く大きい。
厚い銃床は日本でも一般的で、頑丈である、装填し易いなどの利点がある。
いつの時代か何らかの方法で伝わったのだろう。陸上経由でマレー半島まできていたイスラム人から日本人(倭寇)へと言うことは大いに考えられる。
田付流として江戸期に各地で栄えた。

3、 その他、日本国内の流通
先の項①と②のカラクリは欧州型であろうが、その他の複雑なカラクリは
江戸期に日本で開発されたものと推定される。その理由は欧州には存在しないからだ。また欧州から伝来した火縄銃のカラクリはアジアの銃がそのままであるとすれば、シアーバー(引き金の動きを解除に伝える部品)が短い。日本のものは大口径、短筒を除き長い。その理由は江戸期に射的、命中率を競った時代、優れた照準器と同じく、軽い引きで火挟み(ハンマー)が梃子の論理で落ちる長い地板とシアーを使っていたからだろう。

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(写真2と3)カラクリ各種

日本のカラクリは外バネ(3種)、内バネ(3種)計6種に分類したが、当然まだ様々な形式なものがあるがいずれもシーアバーは長い。また引き金の位置は、興味深いことに胴金の芯と、銃床の末端(芝引き)の丁度、中間にある。これも欧州の銃にはない特徴のひとつだ。
(図2)

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日本の火縄銃は17世紀、戦国時代が終了して、射撃を戦闘で使うより武道「砲術」として使うように発展してから基本ができた。
一般的寸法は70%くらいが全長130㎝、銃身長100㎝、口径11-12㎜の「標準型」であり、運用、命中率、威力としてのバランスがとれていた。

4、 薩摩とはどういうところだったか
砲術流 占部氏の研究では稲富流、御当家流とある。稲富流は江戸時代初期にすでに分派が進んでいたので、薩摩家独自の流派を採用していたと考えられる。☆ (これからの研究課題)

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(図3,4薩摩)

5、 先人の研究にみる『薩摩筒』
① 澤田平氏
本人は意識しておらず、また系統的分析には欠けるが、著作「日本の古銃」に幾つかの日本への火縄銃伝来のルーツを思わせる記述がある。
伝来のルートが幾つかあったのだろうと思わせる具体的なポイントを整理するとイ、薩摩系・・後の備前、国友や堺製の一部のような大きな台。
ロ、紀州系・・平戸、堺製の一部(英国からの献上品、徳川美術館在)は紀州筒に似ている。
ハ、後の田付流・・国友製の一部など各地に見られるが、銃尾が切り落とされたような厚いもの。以上の3ルートに分けられる。
澤田氏は別な観点「薩摩筒と紀州筒の共通点」にも触れ、全体の形状は異なるが「銃床に特徴がある・・芝引きもない」と薩摩筒を「実用性のない銃」と
記している。総合的にみれば薩摩筒は照準器が独特でチャチに見える」
② 種子島に展示されている2種の鉄砲

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(写真6 「日本の古銃」より)

まったく形状が異なるものだ。恐らく上がボヘミアンで、下がフランクフルトだ。しかし所、吉岡両氏は上ではなく下を伝来銃としている。銃床、上は薄く、
下は厚いものだろう。だからポルトガル人が持ち込んだものは上のボヘミアンで、下のフランクフルト型は後に持ち込まれたものではないか。これは江戸期に田付流の形状になったと考えられる。
吉岡氏から所氏に情報は伝わったようだが、当時、火縄銃研究はそこまでこだわったものではなかったようだ。

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(写真7)吉岡氏著「古銃」より

吉岡氏の研究
上、ポルトガル人が持ってきた銃
中、八板金兵作(実際はフランクフルト型)
下、古銃 と「薩摩筒は種カ島に似ていた」の記述
所氏の研究は、
台に置いたもので、薩摩型かフランク型か見分けが付かないが、こうじの形状、
種子島型は角としている。銃床の薄い形式に見える。「火縄銃より」
③ 黎明館図録による形状の分析

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(写真6)上は台が別なものではないか?

この3挺の鉄砲はいずれも作は薩州銘だが、形状は様々である。写真が小さくて識別不能な部分があるので、実際に観察を求めて、出向く必要があろう。
(写真)
上、薩州実有
中、薩州正興
下、薩州平佐本野市兵衛藤原正恒
④洞富雄氏の研究

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(写真7)

戦前よりの研究者で、戦前に撮影した銃はフランク型である。
下の2挺の伝ポルトガルは現在の展示、上が国産、下が初伝来 定堅銘

以上、先人の研究や展示からは澤田氏を除く吉岡、所、洞の各氏は伝来した
鉄砲の形状は一種であったと疑ってないし、その形状の異なることを認識しなかったようだ。彼らの分類は「伝来したもの」「国産したもの」の分類だけだが、
なぜこの2種が異なる形状、恐らく機構も異なったものとは疑ってない。両方とも伝来したものであり、その後、各々の特徴を生かして、日本の火縄銃は様々な形状、機構のものに拡大したと考えられないか。
6、『薩摩筒』の特徴と定義

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(写真6と7)薩摩筒の尾栓、火皿

特徴(全てに共通しているわけではなく、以下の点を有しないものもある)
・大きな台(銃床)を持ち、銃身は八角、こうじがあり、全体に独特である。
・カラクリが鉄製で機構も独特である。
・真鍮製のゼンマイ内カラクリ
・地板止めにネジの採用
・火皿の銃身へのねじ込み(沸かし付けのものもある)
・鉄製火挟みが極端に小さい 細い火縄を使う
・目当て(照準器)が極端に小さく、環孔式もみる
・火蓋は鉄製
・火皿の丸い深い大型の穴
・雨被いは一枚板、火皿ねじ込み型は挟んである
・引き金が小さく丸みがあり、一部は折りたためる、日本の火縄銃では最小
・口径が限定されている 大体が六、四、一匁と
・木部 イチジク属アコウ材をつかい、厚い漆がけ、背割れがない
・寸法 日本の火縄銃標準型の約85%位、全長115㎝、銃身長85%が90%
・銃身を台に止めるに銅製の輪を使うことが多い
などである。

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(写真8と9)カラクリの構造シーアバーを押さえバネの中を通る方式

地板はテーパーの掛ったネジ一本。
以上の特徴と備えたものが所謂「薩摩筒」ではないか。また以上の特徴は他の地域では見ることが少ないので、『薩摩藩の江戸期の閉鎖性からきた「地域的」
なもの』と定義されよう。占部氏、薩摩の御当家流(当藩流)という射撃教授の流派も恐らく、閉鎖的で門外不出のものではなかったか。

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(写真10)珍しい火縄短筒

口径の限定では登録データより
薩摩の在銘だけで六匁(15.8㎜口径) 18挺 67%
四匁(12.0㎜口径) 4挺
一匁(9.5㎜口径)  6挺

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(写真11)左一匁、右六匁

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(写真12)銃床の形状

推定だが、薩摩流では年少者の調練に一匁を使い、実戦では六匁を使用したのではないか。当時では貴重な黒色火薬、六匁一発で一匁6発が射撃できた。
6、 知覧の薩摩筒
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(写真13)

ほとんどが同じ形式で小道具も日本の火縄銃的でなく、西欧に見られる形式が存在する。25年ほど前に、訪れた知覧の武家屋敷から出てさまざまな武具や調度品の収納庫を見せていただいた。もう一度行き、詳しく観察し撮影した。
(現在は展示館になっているそうだ)
その時に気が付いたのは、銃架やその引き出しに入っていた、切り火縄、火薬入れ、口薬入れなどの装具であった。口薬入れでは日本独特の落とし蓋式ではなく、西欧型の押し開け型のものであった。

7、 夷荻を射殺した銃 トカラ事件
19世紀の初め日本人が欧州人を火縄銃で殺害した事件があった。同時期に長崎でフェートン号事件(英国船が港内に侵入した)があり、幕府は海防意識に目覚め、異国船打払い令を出した。幕府を始め各藩は幼稚で、理論も理解してないのに国産砲を製造した。ほとんどが役に立つものではなかあった。
夷荻の排除は薩摩藩のトカラ列島、宝島に 年、米国捕鯨船員が牛や食料を求めて上陸した。拒絶する薩摩藩士(わずか2名しか配備されてなく、島流しになっていた他2名も協力した)、四匁筒を用い、燧石銃で島民所有の牛を射殺した船員を射殺し、塩づけ(人間を)にして長崎に見聞のために送った。
なかなか興味深い歴史上の事実であり、薩摩筒が使用された。

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(図5)左が宝島

(終わりに)『薩摩筒』から推定する日本の火縄銃の伝来ルーツは複数あったと
推定される。図2の如く16世紀から17世紀初頭、欧州からの訪問者ごとに。
だが、歴史上最初に正式に来たのは1643年天文十年の種子島であろう。
日本の火縄銃の多様性のなかには地域や、流派、生産地などの特徴を分類しても仕切れないものがある。それが「ルーツの多様性」であろう。
ポルトガル人の持ってきたボヘミアン、英国人かオランダ人のイングランド、
それにアジアから来たのだろうフランクフルト、多様性の背景には図のように4つの大きな要素がある。

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(図6)

戦闘に使用する実用的な武器兵器は形状、大きさ、部品が共通化されてなければならない。産業革命後の欧米では、小銃は統一され、部品も共通であったそうだ。日本の武器兵器には目に見えぬ規則は弓や刀にもあるが、工業製品としての規格は19世紀後半までなかった。

参考資料と協力:
ディビッド・グリスデン博士(英国)
レイナー・ラインハルト博士(ポルトガル)
黎明館歴史資料センター 切原勇人氏
鹿児島県教育文化財課 早崎晋一氏
種子島開発総合センター(鉄炮館)
ミュージアム知覧 新地氏
高橋達郎氏 日本銃砲史学会
澤田平著「日本の古銃」堺鉄砲研究会
宇田川武久著「真説鉄砲伝来」 平凡社 2006年
所荘吉著「火縄銃」 雄山閣 平成元年
吉岡新一著「古銃」 河出書房新社 1965年
吉村昭著「宝島騒動記」 中央公論 昭和51年
宮澤愼一編著「英国人が見た幕末薩摩」
洞富雄著「鉄砲」伝来とその影響 思文閣出版 1991年(平成3年)
小笠原信夫・安田修共著「全国鉄砲鍛冶銘・全国鉄砲鍛冶銘地域別分類」
占部日出男著「日本の砲術流派」

今後の研究:
・欧州における3種の火縄銃の起原とその詳細
・薩摩藩の研究、社会・経済・技術・閉鎖性
・薩摩筒の射撃
・現地、知覧、鹿児島、種子島、宮崎県などの見学
・大口径薩摩筒の発見
・薩摩藩流派
・他の流派との関係
・他の地方(備前)などとの関係
(以上)