火縄銃



22、金沢の鉄砲と幕末の「異風組」

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重文金沢城石川門

① 加賀藩の幕末鉄砲事情
縁があり、金沢の鉄砲事情に関し興味をもった。加賀百万石、雄藩には恐らく鉄砲は万単位で存在したはずだ。しかし現在「金沢銘」鉄砲は非常に少ない。私もひとつ見ただけだ。加賀では鉄砲は藩内で製作せず、堺、国友から購入したからだとも考えられる。しかし、フェートン号事件後、海防意識の向上とともに幕府の製造おかまいなしで、多くの藩では自藩でも鉄砲、大砲製造に着手、事実、板橋の加賀藩屋敷内には大規模な大砲製造所があった。(銃砲史学会板橋区資料博物館小西館長発表)
加賀藩下屋敷は高島 秋帆が天保十二年(1841年)西洋式調練をおこなった徳丸ヶ原にとても近い。
また加賀藩には独自の海軍が設置され、台場を作り日本海の守りについていたとも聞いている。
今回教えていただいた金沢の研究家から「火縄銃から管打ち銃に改造する遺構」が加賀城内にあり、多量の火縄銃部品が出土された。加賀藩では火縄銃を洋式銃へと改造したことが分かり、また(金沢、住、國)などの文字銘文の薄片も出土している。上記のように加賀藩では、国友、堺など他から火縄銃を購入していなかったのではないかと考えられる。また板恒氏の論文には、安永三年(1744)の城内図に「御鉄砲所」が記載されているので、それ以前より鉄砲の製造はおこなわれていた。文久四年(1864年)の御鉄砲所御筒数に一万千五百七十六挺也と記載されている。加賀藩は藩政期を通じて五箇所村など焔硝生産地を持っており、花火を厳禁するなど、鉄砲管理も非常に厳しいものがあったのではないか。」との情報を得た。

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金沢城三の丸洋式銃製造場跡

加賀藩では鉄砲改造、洋式銃の製造などは大規模に行ったに違いないが
その実態は、規模はと言うと知らないことだらけだ。しかし、金沢銘の鉄砲が少ないのには、多くの規模で和銃(火縄銃)を藩が組織的に処分して、その材料を使い、洋式銃を製造したと推察されよう。

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遺構から発見された火縄銃部品

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遺構から発見された銃身銘部分

この遺構出土物を見る限り、火縄銃を管打ち銃に改造するだけでの作業でなく、火縄銃をスクラップ化して、その材料でゲベール銃など洋式銃を製造していたと考えられる。

幕末銃砲史の結論は、鉄砲、大砲、艦船などの武器兵器は国産するより輸入する効率メリットが大きいとの判断が全国的にあり、その結果、戊辰戦争(1868年)は戦われた。加賀藩に於いては速い時期に新政府に恭順の意を表し、兵器の輸入に関してはどのくらいの規模であったかは次なる研究テーマだ。
幕末、各地で生産された国産ゲベール銃を実射した経験があるが、銃身、銃床はともかくロックが弱い。恐らく実戦では2-30発の射撃にしか耐えられぬ製品であっただろう。(現在、2挺が陸自武器学校小火器館にて展示)

② 「金沢住重明」銘の鉄砲

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全長106㎝、銃身長76㎝、口径は4-5匁、部品は全部オリジナルの典型的侍筒で幾つかのユニークな特徴があった。
目当て、星が谷照星で、照門は角。カラクリは平方式だが、押さえ鋲が一つだけ、但し地板に凝ったテーパーが掛っており固定がしっかりしている。
引き金が平で小さい。銃口部分のこうじはクラシックなスタイル。

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雨被い、火蓋は分厚く、頑丈な造り、また削り出しの技術も見られる。
鉄質は良い、これは他の地方鉄砲に比べると格段の差がみられ、錆付けも上手だ。しかし木部が木目に沿い少しはがれていた。

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上物であろう。身分の高いものの所有であったに違いない。
試験的に数発射された形跡も見られない。火皿、銃口の様子から判明される。
古式銃市場では「ミント」と言う。

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二つの家紋が真鍮象嵌されている。ひとつは二つ巴紋、もうひとつは抱柏紋。
これら家紋が何かの手がかりになろうか。抱柏紋と二つ巴紋、組み合わせで、この鉄砲の所有者が判明したら加賀藩鉄砲研究史に一ページが加わるだろう。
(ひとつの家に複数の家紋が存在するのは現在でも一般的である。)

③ 異風組
県史には「和銃を使う職とせしめる異風組をはいしゲベール・・・」の文があることから、「異風組」は火縄銃を師範する職のグループであったようだ。

金沢の研究者は以下のように推察している。
「文久年間初頭(1861)に編纂された加賀藩組分侍帳に、抱き柏紋は五家系7名、二つ巴紋は四家系8名が掲載されている。加賀藩では火縄銃を藩で買い上げることまで行い、小銃の洋式化を図っており、これに反対していた五百目玉までの火縄銃師範を担当する異風組は慶応元年(1865)に処罰され、翌年指止めとなり解体された。異風組総員47名のうち才許支配者、鉄砲奉行、玉薬奉行
など重要な役職に就いていたもの36名が役職指除、遠慮仰付け処分となった。
このような時代背景を考慮するとその後も火縄銃を所持し続けるには相当な理由が必要だっただろう。組分侍帳によると、異風組百三十石の御鉄砲奉行玉薬調理方の高嶺八太夫方章が二つ巴紋である。異風組は金沢城三の丸に於いて月間10日の稽古を行っていたが、上記の鉄砲は使われた跡がないので、実務を担当しない者の所持筒と推定し高嶺のものであったとしても矛盾はない。
その数年後、藩政末期の侍帳を見ると異風組であったものは12名しか残っておらず、処分を受けた高嶺八太夫方章は十五人扶持として記載されている。」

注:「異風」と言う言葉は日本銃砲史上「外国風」ととっていたが、金沢の「異風」は時代がたってかえって和式化したものを言ったのであろう。

④ 加賀藩の流派(占部 日出男著「日本の砲術流派」より)
加賀の国(百二万五千石)、能登の国(七万石)の二つの前田家国主に分かれている。
前者に関しては、豊島流、福島流、酒井流→加納流→中島流、安見流、太田流、荻野流、高麗流、自得流、武部流→新流、小川流、河島流、高島流、逸見流

後者に関しては、荻野古流→荻野新流(天山流)、酒井流、安見流、小川流、
極寄流、蘭式西洋砲術、西洋新流、新流、とある。

従って、加賀藩(金沢藩、大聖寺藩)は幕末には「高島流から新流」と言う
流れになり、恐らく高島 秋帆の徳丸ヶ原演習を幕府と異なり肯定的にとらえたと推察され自ら洋式軍法、兵器を整えようとしていたのではないか。

⑤ 加賀藩の鉄砲銘(小笠原信夫、安田 修著「全国鉄砲鍛冶銘地域別分類」より)加州(加賀)の項
上田覚右衛門重明、江沼助綱、大橋九兵衛当和、大橋作之進(火矢筒)、
大橋彦兵衛重當、小川群五郎(火矢筒)、兼若、久左衛門當次、北儀衛門吉若、
北村勘介秀甲、北村勘三郎秀中、国友重信(加州住)、国友次左衛門能常、国友
治朗助、(文化九年国友より移る)、国友庄左衛門重信、国友弥兵衛尉(金沢住み)、国原規忠(大正寺村住)、国吉重(大聖寺)、重明、治郎兵衛正重、杉村
由太郎、大権彦兵衛重當、田中兼一、田中兼重、田中米吉、富永文次郎信房、
富永文次郎信成、信、信竹、廣瀬重蔵光量、藤原有平、正重次郎兵衛(石川住)、村口保成(江沼住)、安井有高重明、山田則温、吉重(大聖寺 大正村住)
以上である。

目当が仙台筒に似ているとの観察から、仙台と同じように、国友から多くの銃工が加賀に移住したことが推定される。
また「重明」の銘は三つみえる。

結論:加賀藩は外様ではあるが、幕府に近く、幕末の思想「尊王攘夷」は武器
兵器の日本的な技術や運用では乗り切れないという思想が強かったのではないか?親藩である、紀州、尾張に加えて加賀が新政府に早く恭順した背景もそこにあろう。(元は幕府も同じ論理で西洋化を進め、横須賀では幕府の製造したドライドックを今でも米海軍が使用している)
逆に倒幕派の薩摩、佐賀、長州が武器兵器の輸入に積極的であったが、加賀は
自藩で生産を試みたのではないか。藩の規模から言えば多くのゲベール銃が生産されたはずだが、それらは性能面で使用されなかったようだ。

映画「武士の家計簿」にもあったが、保守的ながら、幕府同様、明治維新の功労の一端を担ったのかもしれない。歴史の興味は尽きるところがない。
(この項以上)

資料と協力:
板垣 英治 「鉄砲の一統洋式化と改造と異風筒」
財)石川県埋蔵文化財センター
石川県史
占部 日出男 「日本の砲術流派」
小笠原 信夫・安田 修 「全国鉄砲鍛冶銘地別分類」
高田 厚史氏
「日本の火縄銃1」
(この項以上)