火縄銃



 30、古文献「玉握術目録」にみる制度化された射撃

はじめに)

私には「火縄銃を撃ったこともなく、その過程の苦労も知らず、勿論目標にもあたらず」古文書だけで火縄銃を
語るのは不十分と考える。勿論、古文書は必要だが、内容が精神論に主をおき「実用的」でないそれら内容対するのが
感想だ。日本は「文書」の国、文字がない時代のことものちにまとめた。(皮肉なことには現代は右左の思想が
入りすぎしばらくしないと文書は役にたたぬ。)
しばらく前、友人から元は巻物だったのだろう。横袋綴じのB5版(横20ⅹ14㎝、厚さは9-10mm程度の標記の古文書を手にいれた。奧付けがない。「東山 向右衛門 真重 花押」より「渡辺 茂之助殿」だけで年号は分からない。

状態は良い

推察では17世紀、砲術家の地位が戦闘家から指南に変化したころの内容を巻物をページ数では
72px20cm、140㎝くらいの正常な文書を19世紀初頭、状況の変化から洋風の
本したてにしたものではないか。


内容)
火縄銃射撃の全般に及ぶ詳しいもので、特に距離による射撃部分が充実しているが、榴弾でもない一貫目筒を射撃してどのような効果があるかには触れてない。

町撃ちの布的儀式に関しての図や内容は良く理解できる。この図では黒点があり、そしてこの距離110m丁打ちでは命中しないことが多いのでもう一枚、もっと大きな幕を後ろに立てる。
黒点は〇のしたに横棒があり、これは気候、薬量を最初に調整できる仕組みだ。
こうなると精神的伝書よりかなり技術書に近い。

目次)

1、 鉄砲

〇三匁五分筒の弾わり、薬量などの詳細からはじまる。出会いは敵への発射開始距離だが400mとかなり遠い。
近代銃をかわらない。

〇四文五分筒

〇十匁玉筒

〇十匁玉筒 無格好な図だ。
矛盾と的場詳細)

私はこのような銃はみたことがない。火皿がない。ばねが16世紀初頭欧州方式だ。

大きな疑問はなぜこのような「ばねの方式」を描いたのか?

2、火薬之巻

火薬に関しては、篭火、削之非(熊野ホクチ、くらま石、灰、生のう、硫黄)と詳細だ。だが指南の
花火師の感もある。
〇抑止之、〇のろし、〇夜討天文火、〇口薬、〇止黒錬処明、
火薬に関しては花火師的内容も多い。
〇任王(白 樟脳100、黄色 硫黄20、黒 墨20)
〇初種、〇大嵐、〇小嵐、〇花香、〇水無月、〇明星、〇嵐陰など多種な名前で各々の薬の配合を示して
ある。

3、銃種の名称

先の十匁筒のあとは
〇小筒の図 弾金(口径か)一寸八分と口径の大きな銃がつづく、十匁、十匁五分、二十匁、二十五匁、三十匁、四十問目、五十匁、六十匁、
七十匁そして百目(ママ)400g、ここまでだ。一巻目は約4kgでこれが船舶の側面水面上に命中すれば効果はあろう。
つまり大砲がないから、大筒で敵陣地や船舶を射撃する19世紀初頭の戦術を、戦国末期も内容からまとめているわけだ。言葉が統一されてないのがその証左であろう。土浦藩「關流」などもそのひとつだろう。「關流」にも良い古文書が同地の博物館にある。
的場について)
先に町撃ちの図を出したが、「角場」は葛飾 北斎の描写とはかなり異なり、形式や礼を重んじている。
普通は二十間(約30m)、的一尺五寸(48cm)、角八寸(24cm)、星半寸(黒点は1㎝くらい)だった。

台所まである

おわりに)
この文書は大阪城攻撃の祭あたりに砲術家が作成したもの徳川中期の戦闘なき時代を加え、19世紀初頭、「外国船打ち払い令」の対策内容ではないか。
船舶には火縄銃は駐退を射手の体で受け、射程も100-200m程度、榴弾でない、と言う条件から船舶に命中、轟沈させるのは無理だ。
やはり大砲だ。それに徳川幕府、各藩は気が付き、1870年頃より大砲鋳造に誠真したが、歴史は皮肉だ。日本はあっけなく明治維新を迎えた。
一つ現在に至るまで言えることのひとつは日本国は明治二十二年に尺貫法をメートル法に改め、あらゆる武器兵器はメートル法を使って開発製造し効率を上げたことだろうか。
(以上)