火縄銃



 31、「李朝朝鮮の鉄砲文明研究」-ハーバード大学学生の依頼ー

はじめに)
私の日本の武器兵器の先生はメイン大学の教授だったリビー氏だ。
その紹介でハーバード大学学生から以下のことを聞かれている。
彼女は韓国人だが海外の生まれで米国人と結婚し、現在は学生だ。
卒業論文に「日本の近世であろう、17世紀から19世紀初頭の朝鮮半島火縄銃装備」
のことを研究し記述したいのでまずは火縄銃のことを教えてくれ、日本への伝来
とその実態、そして朝鮮半島の「銃文明」全体を知りたいそうだ。
流暢な日本語で書かれたメールだが、やり取りの時間差からだれか日本人学生に
書かせ読ませていると推察する。すでに3回のかなり長文のやりとりをした。

文禄・慶長の役)秀吉は韓国人が一番嫌っている歴史上の日本人だ。
文禄の役は1592-3年、これが実質的な大規模戦闘で、秀吉軍はそうそうたる武将が
揃い、城を構築した。日本兵は銃を使用して圧倒的な侵攻を進めた。
慶長の役は1957年から秀吉の死、1958年の途中まで。明国が朝鮮軍を支援、
日本軍は城に立てこもり、やはり城からの銃による攻撃で相手に多くの犠牲を与えた。
(洞 富雄著 文禄慶長の役論文より)

その後17世紀、徳川幕府は李朝と外交関係をもち、19世紀なかばまでは日本と良い関係があり、先日、対馬訪問の際に、宗氏の日本と朝鮮の交易の実態を聞き、港も見学した。

鉄砲の伝来)

今諸説があり、ポルトガルがゴアに工廠をつくり、わずか20年ほどで
日本に到達している事実から私は直輸入だと思う。宇田川先生はアジアの国々を伝って来たというが、私が現職のころ、スポンサーのおかげで、タイ、マレーシア、インドネシアなどの軍事博物館の火縄銃を見せてもらったが、とても兵器ではなかったし、半分は日本、堺製の改造品であった。(筑波博でスリランカ館にあったものがその例のひとつだ)
大航海時代の船の移動は、ランボルギーニを1日で日本に運んでくるのとは物理的に異なる。

だから私は当時、明国、朝鮮半島には鉄砲は伝来してなかったと思う。
理由は日本の戦国時代のような荒れ方ではなく、明、朝鮮ともに平和な時代で鉄砲は
必要なかったからだ。それにポルトガルは日本の豊富な金銀との交易に鉄砲を商品として
選んだと同地に行った際、研究家から直接聞いた。

ただ、文禄と慶長の間に4年間あったからその間に朝鮮で鉄砲を装備した可能性がある
が鉄砲は当時の総合的な技術を結集した文明で、文字通り、下地がなければ実現しない。
(今の朝鮮半島核問題と同じパターンだが、朝鮮も核の開発には各国の援助を得て
数十年かかった。)

学生の疑問)
彼女は日本の江戸期のように李朝には多くの火縄銃が存在していたという視点から始まぅている。
でも韓国の博物館は、「朝鮮の火縄銃はあるが、機密であり閲覧させない」と言うので
困っている。

歴史の事実示す要素)
これは研究者として当たりまえだが
① 古文書,② 実物、③鉄砲を製造していたと思われる、鍛冶屋や火薬職人の背景、つま図とか図面とか遺跡が残ってないと研究を続けることはできない。

朝鮮には鉄砲文明はなかった)
ほとんど日本と世界の研究家はそのように考えているだろう。

文禄の役で満州まで歴々たる武将は侵攻したが。兵站が脆弱で、食糧難に悩まされた。

日本から朝鮮半島に渡った兵力は16万人、朝鮮は明国の援助その他で25万人の兵力。
日本人の死者は餓死など2万人と言われているが、諸説ある。

日本人は数万人の朝鮮人陶工を連れ帰った。
当時、朝鮮陶芸技術は高い水準にあり、江戸期日本の陶芸が栄えたもとになった。

韓流ドラマには朝鮮人が日本武士を鉄砲で倒す、また日本の鉄砲集団がねがえり朝鮮鉄砲隊となったなどの話があるがそそらくつくり話だろう。当時も武士は主君に仕える倫理が存在した。恩賞が受けられないからだ。その構造は覆すことのできぬものだった。

文禄と慶長の間、4年間」
日本のひとりで一日間300発発射し。日本の鉄砲隊に対抗できる能力を情勢するのは無理だ。先に書いたとおり、鉄砲は当時の技術の粋を集め、訓練、演習が必要だった。

おわりに)
東洋史を研究するそのハーバードの学生には古文書、実物、遺跡が存在しないのに
この研究を続けるのは無理だ。

題材を「日本に貢献した優秀な朝鮮人陶芸家」とかのほうが現実的なると今度は返事
する。
別に差別的感情ではなく、もし火縄銃、そのものを知りたければ米港でやってみることだ。
なんでも自分で行動した実績がなければ。

これは日本でも同じ、銃を研究するならまずは諸手続きをして発射すべきだ。
(以上)4