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    書名:『日本の機関銃』B5版 470p 部分カラー
    著者:須川 薫雄
    (陸上自衛隊武器学校小火器館顧問)
    出版社:SUGAWAWEAPONS社
    ISBN:9784990787806
    発注先:sugawaweapons@aol.com
    Fax 03-3473-2293
    価格:7,000円
    (若干の汚れあり5000円)




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     30 .ミサイル兵器(誘導弾)

    第二次世界大戦末期、第三帝国のV-I,V-IIがミサイルの嚆矢であるが、誘導装置は付属していなかった。V=IIは米国、ソ連に持ち帰られ、この両国の標準装備兵器でもあった。日本帝国の晴嵐、桜花なども潜水艦発射、空対空ミサイルの
    アイデアを与えた。第二次大戦では対戦車ロケット砲が使用され、それらも
    分類では誘導装置はないがロケット兵器としてミサイルに分類されよう。

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    すでに大砲の時代は終わった、誘導兵器の時代だと言われて久しい。誘導兵器は何らかの誘導装置により索敵した目標に向かい自ら飛んで行き命中、中に仕込まれた爆薬(核の場合もある)が炸裂し相手を破壊するための兵器である。
    (爆薬が仕込まれている部分は先端であり、それを「弾頭」と呼ぶ人もいるが
    軍用用語では「弾頭」とは弾丸先端形状を表すための部分呼称である。伊藤愼吉氏)
    さて、ミサイル(誘導兵器)は目的や、その動力、誘導操作、燃料、サイズにより多種である。日本が安全保障のために使用されるものは限られているとは言え、それでもかなりの種類が用意されている。
    ① 動力 ロケットかエンジンか、もしくは両方か 巡航遠距離ミサイルなど
    ② 燃料 個体か液体か、もしくは両方か ほとんどが個体
    ③ 誘導 レーダーを使い索敵し遠隔操作するか(無線、有線)もしくは赤外線などに自律的に操作されるものやGPS,衛星をつかうかなど
    ④ 目標 イ、対地 戦車や火砲などに
    ロ、対艦艇・対潜水艦
    ハ、対空 もしくは空対空
    ニ、対ミサイル誘導兵器

    日本の安全保障上必要なミサイルは、①対ミサイル、②対艦艇、③対空などである。いずれも索敵用のレーダー、目標まで誘導するシステムなど電子的な機材、運用の技が必要である。固定したものは相手の目標になるので、ほとんどが移動式であり、潜水艦から発射する巡航ミサイルが究極のものと言えよう。(日本は装備してない)イージス艦は通常の駆逐艦クラスの護衛艦の中央部に大陸間巡航ミサイルを成層圏で迎撃する防空ミサイルを搭載しており、日本の成功率は米国のそれと等しいそうだ。
    国産ミサイルも何種か開発されているが、現在は主に米国制ミサイルをライセンスしている。国産99式空対空アクティブレーダーホ-ミング、射程100㎞、全長370㎝

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    日本の誘導弾装備の問題は訓練が国内ではほとんど実施できない点だ。
    スティンガーミサイル(地対空、個人操作)の訓練を見学したが、大型スクリーンを使用するシュミレーターだった。

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    スティンガーミサイルの訓練風景

    現在日本で使われている2種類の主要ミサイル

    主に対艦と対空に分かれる。先日の西部方面隊研修で見学したのは、88式地対艦ミサイルシステムと、03式地対空ミサイルシステムの2種類の装備品であった。恐らく近日のうちに新しい形式のもの、例えば対空においては航空機より
    高速なミサイルに対抗するミサイルPAC3のようなものが一般的になるだおう。

    10-1、88式地対艦ミサイルシステム

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    沿岸砲台と異なり、車両によりレーダー、中継装置、誘導管理装置、電源、ミサイル本体が各所に移動できる。現在は西部方面に多くが配備されていると推定されるが。

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    ミサイル本体は03式地対空ミサイルと同じサイズ、全長5m、直径35㎝、重量660㎏であり、箱に入れられている。一台の74式大型トラックには6個が二重になり搭載される。射程は4-50km、日本には500発程度が装備されていると推定する。

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    このような形でシステムは展開されるが目立たない

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    地上レーダーは4-50㎞が限度なので、ヘリなどに搭載された探知レーダーと
    複合して使用される。

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    発射角度に調整した状態

    10-2、03式地対空ミサイルシステム

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    発射台に搭載する必要があるが、発射場所を車両により移動する。自走はしない。原形は古く、1950年代アメリカで開発されたHAWKミサイルで、それを
    もとに純国産化したものだ。地上から向かってくる航空機を迎撃するもので、
    再改良しているが、レーダーや誘導装置など電子部分が時代遅れの間はある。
    現在、次世代の短SAM,巡SAMに置き換えられるだろう。

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    目標を補足し、追随するは別にあり、大型電源車を使う。発射後、セミアクティブレーダー誘導システムでミサイルを目標に正確に当てる自信はあるそうだ。
    全長5m、直径35㎝、重量650㎏、射程3-40㎞はあるのではないか。また
    一部隊に必要な人員は12-5名と推測される。

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    フォークリフトから発射台に搭載された状態

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    電源車

    10-3、地対艦短SAMミサイル改

    11式短距離誘導弾は純日本製である。

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    基地記念祭の際に短時間だけ遠方に現れた。新しい短SAMだと
    感じたが確信はない。短SAMは地上から何キロか離れた海上の敵艦艇を攻撃するミサイルだ。海面に近くを飛んでいく。2トントラックに搭載されるが、
    機動車も一緒に走っていた。誘導装置が搭載されているのだろう。
    アクティブレーダーホ-ミングを使うが、光ケーブルを使うと言う話もある。
    この手の兵器は日本では演習出来ないのであろうか。見てみたいが。
    富士火器演習でも装薬を相当減らしていると言うし。

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    これは81式であろうか?

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    10-4、91式携帯地対空誘導弾(スティンガーミサイル)の訓練

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    米軍の発射の瞬間

    この駐屯地には2回行き、2回訓練を経験した。劇場スタイルの訓練場で
    恐らく射程は10㎞くらいある個人携帯ミサイルのシュミレーターである。
    設定は2種類あり、ひとつは空港、もうひとつは山の中である。空港警備などに重要な兵器であることが理解できる。実際に模型航空機などを使い、演習地で発射できないから、このような訓練場を設定した。

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    まずは説明を聴く。スティンガーは1980年代に開発されソ連が侵攻したアフガンに秘密裏に供与されたことで有名だ。一発2000万円くらいの価格だ。

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    富士を背に大胆不敵な敵機

    まずは音で敵航空機接近を聴く。その時に敵味方識別を行うのだろう。
    発射の手順は4つある。電池を稼働させる、赤外線システムを入れる、安全装置を解除する、発射の引き金を引くだ。右へ、左へ、前に、そして最後に後ろに引くと言う手順だが。

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    敵機を目視しなければならない。黒点として現れる。
    引き金を引くと、ブースターにより(筒は後ろがふさがれているので)ミサイル本体は10mくらい飛びだすそうだ。それから自体のロケットモーターが掛り
    飛んで行くそうだ。私が自分で何回かやらせてもらったが、回転翼機にはOKだった。命中、ドーンと空で音がする。しかし、F-15 は頭上を飛び越えて行った。
    諸元

    直径 全長 重量 全重量 有効射程 速度
    7㎝ 150㎝ 9㎝ 5.7 kg 16kg 4000m マッハ2.2

    ロケットを装填した場合の全重量16kgが問題だ。重心が肩に掛っている
    訳でないので、ふらふらする。相手を目視して引き金を引かねばならず、
    その瞬間が問題なのだ。情けなや。

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    10-5 110㎜個人携帯対戦車弾

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    独逸兵器のライセンス生産だ。イラク戦争のとき米軍が同じような兵器「ドラゴン」で建物を目標に使用した映像を見た。飛翔部分はこの形式より二廻りくらい大きなものだ。果たして、一度地面に当たりそのまま滑るように飛んで行き建物を木端微塵にしたシーンだった。これは戦車、建物、両用になる。全長120㎝、重量13㎏、飛翔部分は3.8kgと言うからかなり威力ある兵器だ。飛翔距離は数百mと推定される。

    似たものに84㎜無反動砲がある。
    陸自では普通科連隊の分隊兵器であり、筒の部分は使い捨てである。

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    照準眼鏡、暗視眼鏡などあるが、ここまで戦車に肉薄するのは勇気がいる。

    実射の画像は平成26年富士総合火力演習の際に撮影。

     14、帝国海軍19世紀後半の小口径連発砲 ホチキス方式の採用

    はじめに)
    佐山 二郎著「日本の大砲」は名著である。多くの写真、正確なデータ、手元から離してはおけない存在であることは何度か書いた。
    帝国海軍砲は米国博物館でみることができるが艦の砲台や架台が当然ないので展示が難しく、数も少ない。帝国海軍の巨艦主義にさまざまな砲が採用されたはずだが、資料は少ない。現物は呉に戦艦利根主砲身のみが大和ミュージアムの横に展示されている。
    日本資料では明治20年ごろ、帝国海軍は連射できる砲艦用艦砲を探しておりそのなかにはホチキス、デルトムント、マキシムなどの実験が行われた様子が記述されていた。
    結果、ホチキス37㎜を採用し、日清戦争には小型艦艇に装備されたと、米国資料には書かれている。(リビー教授からの情報)また帝国海軍37mm弾の実物も多くみた。帝国海軍のものは⚓の刻印が入っている。以下はリビー教授の論文と私が保持している砲弾の研究である。

    帝国海軍が採用したホチキス機銃)
    ガットリング方式で砲手が手でハンドルを回しセミオートで発射した。弾倉には箱型各種があるが重すぎて装填が難しかったのであろう。帝国日本は手込め方式だったようだ。
    助手が2-3発ずつ次々を装填した。図①

    弾倉は上に立ち20発収納だそうだ。ロシア・ドイツ・北欧をはじめ日本など多くの国で採用された。簡単な仕組みで故障は少ないとみえる。
    射程は2300mほどで19世紀の海戦、小艦艇対策だった

    ホチキス37mm砲の特色は砲弾)
    各種砲弾があるが、1、胴帯でライフルに噛ます。2、ほとんどが鋼鉄弾で信管は尾底だ、つまり相手の防弾被甲を破壊してから炸裂する。観た砲弾の胴帯からライフルは20条。
    下は各国銅帯着用弾薬 ②

    尾底信管はこの当時は珍しいものであったが、第二次大戦20mm対戦車、対空砲に頻繁に使われた。信管装着には各種存在したが、二つ穴を回す方式が一般的であったようだ。砲弾長は実測950㎜。

    日本における採用)
    1888年ごろから37㎜砲は、三島、沖ノ島、丹後、相模、秋桜、肥前、岩見、7隻の砲艦に各々8-12門搭載され総計は約30門だった。その他清国からの鹵獲砲艦4隻にも、上記のほかに装備されて
    いたと推定される。帯は銅ではなく帝国海軍の砲弾は真鍮だ。③

    日本の砲弾の例。⚓の刻印。信管底がついているものは収集家物④

    帝国海軍砲艦での37㎜の使用)
    恐らく日本海戦でもバルチック艦隊から多数鹵獲しはずだ。⑤

    帝国海軍での射撃の様子。⑤

    北欧の国々とドイツでは自国生産もしてホチキスの地位を確立。
    日本は1898年、小口径機関銃「保式」を制定した。

    おわりに)
    37㎜ホチキス実砲弾を加工し木台をつけ民間に払い下げられたようだ。⑥


    中は空洞だ。⑦

    その他、発射砲弾としては以下のように47㎜弾砲が各国で拡大され
    た。砲弾全長は20㎜、尾底信管の入る穴の直径は20mmだが、
    装薬量が異なり起爆剤も長いから信管の互換性はなかった。⑧

    37㎜を拡大し47㎜にした例は外国には多いが、これは同じ
    方式、鉄鋼弾、尾底信管で珍しいものだ。 砲弾長さは95㎜、ライフル帯は2帯、先は線状13条、後ろは17条でいずれも銅製だ。⑨


    このホチキス砲は帝国海軍の清国、ロシアでの戦闘で活躍した砲だが、あまり語られてなく、研究されてないのは残念だ。
    (以上)

     13、 高島 秋帆が輸入した砲種の図

    高島 四郎太夫 秋帆が佐賀藩の求めに応じて提出した彼がフェートン号事件以来輸入した兵器の図である。嘉永元年十月(1848年)

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    奥書き

    ① 臼砲

    すでにオランダ人が江戸、愛宕山で実験し暴発事故があった種類の砲だ。19世紀初頭、ナポレオン戦争期、仏軍が英軍の艦艇への攻撃に使用し、効果のあった兵器だ。アメリカ南北戦争においても大規模に要塞や艦艇の攻撃に使用された。射程は短いが威力は大きかった。目標が観察出来ないところからも発射できた。

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    ② 榴弾砲

    一番大規模なものであろう。仏は多砲種を7つに統合し効率化を図っていた。オランダは仏の占領下にあって、英国と対峙していたので、フェートン号事件のような事件が発生した。

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    12ポンド砲くらいか

    ③ 野砲

    砲と砲車がセットになり、機動力があった。4キロ砲と呼ばれるものであろう。仏はメートル砲を採用し、野砲の統一に成功していた。

    名称未設定

    ④ 山砲

    野砲の砲車間隔を狭くしまた分解できるようにしてあった。砲身も軽く製造してあった。(射程や耐久が一般の野砲とは異なったが)

    アルプスなどの山岳地帯戦闘においては人力で、砲や砲弾を搬送した。

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    ⑤ 軽砲

    歩兵の行動を援助する分隊砲のような役目があった。

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    ⑥ ゲベール銃

    高島 秋帆が輸入した頃にはすでにパーカション方式は欧米では開発されていたが、燧石銃も一般的であった。高島が輸入したのは燧石式銃であった。
    (この項以上)

     12、 近代の砲弾と信菅

    ①九四式37㎜砲(機関砲)弾

    程度の良い見本だが、肝心のどのような砲、もしくは機関砲に使用されたものかは不明だ。知識のある方がいたら教えてほしい。
    諸元:全長260mm、砲弾部130mm、口径35mm(銅環部37mm)縁50mm

    底部信管式である。雷管、起爆薬、発射薬、底部信管、砲弾起爆薬、装薬の類はすべて除去されている無可動弾だ。

    砲弾の部品は全て残っており、特に底部信管の仕組みはワッシャーもあるので
    かなり良く研究できる素材だ。
    真鍮薬莢は再使用を意図している。「九四砲」と記され、底部には昭十七年と検印、検印。雷管が三つ環で外せるようになっているので、再利用と推定できる。底部は起縁で直径50mm。

    底部信管にも昭十七 ヤの検印 二つ穴で回して絞める。
    砲弾には白帯(徹甲弾)で、一部赤色が塗られて起動すると言う意味だ。
    この砲弾、一発製造するのにどのくらいのコストがかかるのであろうか。
    昭和17年には日本の国庫は破綻していた。恐らくGDPの80%は戦費に
    使われていただろう。生産数にもよるが現在の金額に換算し2万円は下らない。
    底部信管と言うところが珍しいがこれは徹甲弾の特徴で、車両や構造物を破壊するのに使用したからだ。
    35mm弾は現在でもエリコン機関砲に使われ、米国の退役しそうでしてないA-10攻撃機に搭載され、その威力は1発で大きなビルのひと部屋を完全に破壊する、重量級貨物車を粉みじんにすると言う。

     

    ②81㎜迫撃(曲射)砲弾

    状態は良く、表に「一〇〇式九七曲歩」と裏に「☩」の白書きあり。
    全長360㎜、直径80㎜、赤首で黄帯。

    信管は「八八式野山砲」昭十五、安全栓を抜く針金も起爆筒も健在だが、
    中身はなく無可動である。

    典型的衝撃信管で真ん中の銅の筒が起爆薬である。
    翼は6枚、全長70㎜(外部60㎜)現在は空なので重量は不明だが3-4kgはする。


    発射薬はこの6枚の羽の間に各々はさみ、真ん中には砲身を落とす衝撃を(撃針は砲身の底にある、不発の際はやっかいな仕組みだが)
    利用して発火させる雷管が付いていた。羽に角度が付いているので、砲弾は
    自転しながら目標を目指す。

    81㎜曲射砲は世界の一般的基準の砲で、帝国陸軍では昭和14年に九七式曲射歩兵砲として制定、歩兵大隊に装備した。口径81㎜で砲長130㎝、重量約70㎏、最大射程は2800m、45-80度に砲の角度を変えることで射程を調整した。
    使用砲弾は九七式榴弾、それとこの一〇〇式榴弾であった。
    運搬、操作、運用には20人くらいの人員を要したであろう。

     

    ③帝国海軍25㎜対空機銃弾

    諸元は全長250mm、砲弾100mm、信管が欠けている。小さな衝撃信管が
    付いていた。

    この砲弾は信管を付ける前の状態で信管部分にはベークライトの蓋がしてあった。砲弾には各種あったが、これは通常炸裂弾で、先に衝撃信管が付いた。
    海軍艦艇、地上施設の防備には対空25mm砲を使った。ホチキス方式で最初はホチキスのライセンスで13.2mmであったものを拡大した。戦争が激しくなると帝国海軍艦艇はドックに入るたびに空いている場所に単、二連、三連の箱型弾倉をつかうどう機銃をどんどん搭載した。戦艦大和は最終的には100の25mm機銃を装備していたと言う。この弾薬はなかなか珍しく、上に信管が付く。
    一発でも命中すると単発機は撃墜という威力だった。箱型弾倉装着担当は普段は炊事などをしていた水兵だったそうだ。3連装機銃には最低でも10名の要員が必要であった。
    九六式25mm高角機銃は昭和10年制定で約33000門が生産された。
    3連は艦艇に搭載され重量250㎏、ガス圧利用、電動で稼働し、有効射程距離は
    3000mと優れた性能だった。


    地上で使用していた単身型。

     

    ④帝国海軍砲弾の保管

    帝国海軍の砲弾はかなり慎重に保存、運搬、携帯された。暴発すると艦の命に係わるからだ。
    ふたつの例で説明する。
    イ、 信管の収納缶 八八式信管改

    ブリキ缶の蓋紙から分かる内容は、呉工廠製で、信管だけを収納するものだ。
    外部には「注意 実用或いは検査外開封スベカラズ」とある。
    内部は完全ではないが、このブリキの缶詰状のものが信管入れだ。

    諸元:全長418mm、外直径75mm、内部直径62㎜、外部直系75mm、砲弾部40m㎜
    ブリキ缶の内部は2段になっており、残念ながら最先端の信管頭部しかない。
    この頭部は木製の台に支えられて、さらにその真鍮の中には直径35mm、長さ80mmの木棒が挿入されており、「石田」の検印がある。頭部が損傷しないような丁寧な装填だ。
    蓋と本体ははんだづけされており、蓋の表書きには種目○○(消えて読めない)、火薬
    昭和13年〇月、信管昭和17年1月、呉工廠と記されている。

    紙筒が三段の頭の部分だけだが、その下に時限式の信管が装着されていたと考えられる。
    これだけではどんな砲弾だったかはわからないが、信管の底部直径が75mmもあると言うことはそうとうに大きな砲弾用の信管収納缶であっただろう。

    信管頭部ねじ山からしてもかなりのものだ
    砲弾には戦闘の直前に艦艇同士か艦砲射撃かいずれかを判断して取り付けたのであろう。

    ロ、 砲弾収容筒

    形態からみて帝国海軍の軽砲のものであろう。紙筒を漆塗りしてある。
    内部は3段の厚い紙筒で、先に行くに従い、信管、砲弾、薬莢という構成である。

    諸元:全長418mm、外形75㎜、内径62mm、信管内径40mm

    厚紙製でかなり頑丈だ。

    帝国海軍では艦艇内での砲弾や信管の暴発は命とりになるのでかなり神経質な
    扱いをしていたようだ。
    砲弾の種類が判明すれば追記したい。

    ⑤91mm中迫撃砲砲弾

    諸元:全長470㎜、信管部72mm、吊り輪あり

    羽6枚元長90㎜、羽長70mm
    信管:八八式野山砲 昭十八 起爆筒欠
    迫力のある大型砲弾である。赤首、黄色帯

    米国にいたころ、コネカットのガレージセールで購入した。祖父が陸軍将軍の家だった。長い間、暖炉の上に置いてあったそうだった。

     

    ⑥海軍13.2mm機銃砲弾

    この品は鋼芯弾であろう。鋼に被甲してある。刻印はなにもない。

    諸元:全長144㎜、弾丸長60㎜、薬莢長98㎜、半起縁19㎜、
    ケースと砲弾は3個の凹みで固定してある。
    米軍の12.7㎜とケースはほとんど同じで口径が0.5㎜大きいだけ。
    大戦中、米軍は鹵獲した13.2mm砲弾を50口径の砲弾切れの機銃に使用したが順調に発射できたそうだ。乱暴な使い方だが、砲腔が減っていたのであろう。


    上12.7㎜
    ちなみに米軍の12.7mmは現在でも日本を始め各国で使用されている。
    この砲弾はホチキスから輸入した九三式対空機銃で、それをのちに
    25mmに拡大した。ガス圧利用である。

     

    ⑦帝国陸軍軟鉄の小銃、機関銃弾

    いずれも先の大戦の後期、昭和19年(1944年)の後半からだ。金属材料として真鍮は
    合金なので、鉄より先に欠乏してきた。鉄と同じく真鍮も多くの兵器の材料に使われた。
    先の大戦においての日本的国のあらゆる角度から物資欠乏は生半可なものでなく、よく国民がこれに耐えたものだ。
    いずれも帝国陸軍の7.7mm弾で鉄は軟鉄で銃を痛めるものではなかったようだ。このような例はドイツやソ連の弾丸にも見られたから柔らかい鉄は十分に使い捨ての弾薬などには
    耐えうるものであったのだろう。
    下から

    イ、鉄弾丸に鉄の薬莢
    ロ、普通の被甲弾丸に鉄の薬莢
    ハ、鉄の弾丸に真鍮の薬莢

    コレクターズアイテムで普通に見るものではない。

     

    ⑧帝国海軍の7.7mm機銃弾

    何度も書いたが、帝国陸軍と帝国海軍は別な組織で各々兵器開発をしたから同じ航空機胴体機銃に使用する7.7mm弾も互換性はなかった。陸軍は小銃、軽機関銃、重機関銃、車載機関銃、航空機搭載機関銃、弾種はいろいろあったが、一応は共通であった。
    ところが帝国海軍は以下のようなビッカース弾を使用していた。起縁なので、半起縁の陸軍弾丸を見慣れるとおかしな感じだ。薬莢の首に2個の凹を打ち、弾丸を止めてある。
    諸元:全長84mm、弾丸長32㎜、薬莢長55mm、起縁直径12mm。
    鋼芯弾で被甲の内部には鋼鉄が鉛の替わりに入っている。

    上は13.2mm弾、半起縁である。13.2㎜は3個の凹で弾丸を抑えている。

     

    ⑨帝国海軍胴体機銃ベルトリンク弾薬

    機関銃は初期には厚い布製の帯の間に弾薬を挟んで使用した。弾倉にはいろいろある。だが航空機には以下のような金属製のベルトリンクと呼ばれる鉄製環で繋いで使用した。
    他国には地上ようや現在でもこの方式は主流である。
    これは帝国海軍のベルトリンク3個と7.7㎜の空薬莢3個である。一旦環に入るとそれを
    後ろに引き抜くには相当なる力がいる。機関銃のガス圧を使った排夾子でいったん環から
    取り出し、薬室に装填した。1秒に何発も行うのだから大変な作業だし、Gのかかる航空機での安定性は驚くべき技術と工作だと思う。

    上の2個は下が定位置に入った状態、上が半分抜け出た状態、いずれも帝国海軍のもの。

     

    ⑩空対空クラスター爆弾

    帝国陸軍のものであろう。B-29を迎撃するための兵器だと思う。博物館においてしか
    みたことがなかったが、マニオンに出た。戦闘機に束になったこのような爆弾を搭載し、
    B-29進行方向上方から投下する。投下した瞬間に広がるから、そのうちのひとつでもふたつでも当たれば被害を与えるのが目的だ。この種の爆弾は最近までアフガンなどでソ連軍により使われたから、当時としては新しいアイデアであったことは間違いない。
    造りは雑だ。

    諸元:全長260㎜、砲弾部110㎜、信管部(アルミ製)85mmうち30mmが起爆部。
    プロペラ3枚直径15mm。砲弾部黄色帯
    後部の翌はブリキ製で半分が6角、後ろが3角であり、内部に補強がある。
    弾頭の黒い部分がよく理解できない。柔らかいゴムかもしれない。衝突した目標に瞬時に跳ね返されないためか。信管はプロペラが目標に衝突して止まった瞬間に破裂する。魚雷などに使われていたから、海軍のアイデアだが。衝撃でも、時限でも、曵火でもない。
    昭19・5「ウ」の文字。炸裂部は鉄だが、手榴弾程度の威力しかないと思う。
    弾頭が凹んでいるので、不発して地上に落ちたものかもしれない。プロペラは一枚欠けている。
    (この項以上)

     11、幕末日本の大砲開発と製造その2

    ①江戸期「米村流」伝書に見る大砲製造砲

    19世紀初頭、欧米艦船日本近海への接近から幕府は海防意識の高揚に努める。
    各藩の各流派は「大筒」、大砲の製造に着手するが、1、原材料の金属製造、
    2、近代砲の情報不足から、中途半端で時代遅れな製法を真面目に考えた一例である。「米村流石火矢鑄方傳」の一部だ。

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    反射炉がないので、タタラを幾つも造り、少量の鉄を一か所に集める方式。
    この方法は反射炉が出来るまで一般的であったが、大型砲の製造は不可能だった。この時期の製造方法は円の中心に縦穴を掘り、周りから一度に融鉄を流し込む方法と横に製造する方法があった。失敗も多かった。この図でみるとタタラは8個、その配置は周囲が100mくらいにもなる巨大な装置だが、製造する大砲は小さい。

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    この図では横に砂型を置いて製造する方式であったのだろう。

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    砲自体は子筒を使う後装砲で、16世紀伝来し、その現物は19世紀まで残されていたことは、北方領土でロシアに鹵獲され現在もモスクワに保管されている
    実物で明らかである。(保谷先生の本)そのようなものを見本にした伝書であろう。黒い部分が鉄で、その他は青銅であろう。子筒の長さは一尺二寸(約35㎝)なので、全長、120㎝くらいの小型野砲の寸法であった。上の図には砲耳があるが下の図にはない。
    この方式の砲は欧米では少なくとも300年前の大砲で、すでにこの時期には造られても使用されてもない。この方式の砲は威力がなかったのだ。
    恐らく、欧米の新しい大砲知識が入手できるまでの一時期の間に合わせの伝書であったのだろう。日本の海防情けない状況であった事実のひとつだ。
    まずは反射炉による多量の金属の製造、それと近代的大砲の設計、これら二つの要素が決定的に遅れていた。

    ②諫早の応変台

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    長崎の雛型砲 全長約30㎝

    陸上自衛隊西部地区見学で長崎を訪れた際に観た不思議な台座の大砲雛型の件で佐賀県教育委員会世界遺産室の前田室長(銃砲史学会会員)から情報を送っていただいた。織田武人氏「諫早台場の円形台座」―砲身と円形台座考証―と言う論文から、大砲雛型は石の円形台座に設置されようとしたものの一種である可能性が考察される。諫早の砲と台座は19世紀初頭の開発例であろうと思われるが、長崎の雛型砲とは少し違う。だが、長崎の雛型砲もコロを使用し回転させる仕組みと思われるので、石の円形台座を使用しようとした可能性はある。

    以下は諫早の例である。文化五年(1809)の砲台で、まだ欧米の知識が入っておらず、和流の「石火矢」の開発であろう。

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    二つの台座の石台が遺跡として残されており、「経ケ岳」は直径7.4m「東望山」は3.6mであり、大型砲と小型砲用であろう。大型が三百目、小型が百目と記されている。地図では「経ケ岳」は海上に面し、「東望山」は川に面している。
    応変台は砲を吊り下げる架台であり、紐を使い砲角調整する方式だ。台の前後にコロがありそれで砲口を回すことが出来る。二つの図があり、中心軸のあるものは想像図としてあるが、この図は砲の兵器としての性格上、実用性がない。
    また台座を石座の中に置く元図も実用的ではない。

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    (上は中心軸を付けた想像図だが、中心軸はかえって台座への負担が大きい)
    両方とも、和流砲術の欠点、砲の反動、駐退の理論が欠落している。
    また砲をこのような複雑な架台に搭載するにも無理があっただろう。
    長崎の雛型砲も駐退は考えられてない。
    和砲は19世紀初頭には大砲に必要な科学の知識が不足していた。

     

     

     

    ③韮山砲

    表示には「三百匁玉施條砲」とある。

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    江川沢庵が韮山に反射炉を造り、鉄の生産に乗り出した。砲を造るためだ。
    この砲も遊就館に展示されているが、口径7㎝、全長113㎝の野山砲用の
    ライフル砲だ。鉄の鋳造品としては完璧ではない。
    照準器が砲に備えられている点が和砲である証明と言って良い。
    アメリカ南北戦争当時の野砲照準器は外付けで、照準を付けると発射の際は外した。

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    また尾栓は開くようになっており開けた形跡がある。これも和砲の特徴の一つだ。架台・車輪がないのが残念だ。

     

     

    ④弘前城(津軽藩)の山砲とその装具

    銃砲史学会の9月例会・見学会で青森、津軽藩弘前城に行った。その際に観たものだ。
    弘前城は北のほうで現存している珍しい江戸期の門、天守閣がある。天守閣といっても大きなものではない。
    砲身

    砲は現地の作だろう。不格好だ。鉄鋳物国産砲。しかし照準器の枠もあり、ライフル6條でアメリカ南北戦争時、1860年代の形式だ。外国のものに比較すると肉厚で重い。
    せっかく小型に製作してならもっと軽便にしなければ。全長1m、砲身長850㎝、口径87㎜、砲耳は直径65㎜、長さ67㎜、砲口外径154㎜(峯田 元治氏計測) 架台、車輪の類はないのが残念だが、珍しくバッテリーが付属している。一つは両側から開ける3段の引き出し、細長い箱で、これは火薬入れだろう。もうひとつは万字紋と「長丸」の文字。頑丈な背負い箱だ。

    多分砲弾入れだろう。山砲は分解可能、軽便に製造し、砲身、車輪、架台は、馬載、人間がそのまま急な斜面などを搬送した。砲身の後、上部が平らになっているのは砲が傾いてないかを観るためだ。「長丸」と言う砲弾は所謂4斤砲の椎の実型の
    ものであっただろう。このバッテリーはどうみても6発くらいの量しかない。

     

    日本の鋳造砲は尾栓があるものが多い。宇田川名誉教授からそれを指摘されたが、火門が後方にあるので、これには尾栓はないと答えたのだが、写真でみると砲腔の底には線が明確に見えて、尾栓があったことを証明していた。
    この砲腔の状態ではほとんど使用されてはいない。「山砲」をどのように使うかは理解していただろうが、津軽では実戦がなかったので、山の上まで運搬し発射することがなかったのだろう。

    ⑤嘉永期の和砲の製造

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    肉厚でバランスの悪い砲の例

    昭和35年、日本学士院が編集した『明治前日本造兵史』と言う本は、日本の武器兵器開発、製造、運用、特殊性を原始的な武器から幕末の兵器までかなり詳細に記録した資料である。但し、自分が詳しい火縄銃の項を観ると若干の間違いもあるので、全面的に正しい資料と断定はできない。(100%完璧な資料はないと考えてよいが)
    このなか、19世紀中期、ペリー来航当時の大砲製作に関しての部分の一部を紹介したい。大砲と言うものがようやく中途半端ならが日本で理解され始めた頃であろう。(嘉永は1848-54年、ペリーは1853年に来航した)
    ④で紹介した南部藩の鉄製ライフル砲、前出の画像のような肉厚の厚い不格好な鉄製砲などはその頃の作だろう。反射炉のない時代の作である。
    南部藩には大島高任が行き指導した記録がある。但し、全国的にみると当時の砲の先進性は佐賀藩にあった。
    佐賀は長崎より西欧資料を得て近代的大砲の製造、運用に関して資料を得ていたようだ。(前田先生の発表)だが、嘉永以前の日本の砲は和砲、架台などが確立されてなく、

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    弓の反りを使う方式

    図のような架台は大きな反動に耐え、数多く、正確に発射することができない、大筒と大砲の中間のようなものだった。嘉永までに幕府に各藩より1050余門の大筒が献上されたが、黒船来航に役に立つ兵器ではなかったようだ。
    この時期、反射炉の建設、砲の理論の理解、開発、製造など日本が一番苦労した時期だっただろう。(③の韮山砲は反射炉を使用して製造した野砲である。)
    砲の製造は青銅、鉄ともに反射炉がないので、タタラを数個、もしくは十数個を円形に配置し、丸太を元にした砂型を造り井戸を掘り縦に挿入し、その周りに融けた金属を充填した。時間を置く訳には行かないので次々と手際よく融けて金属を充填していく手際があった。砂型は頑丈に造り木枠に入れ埋めた。
    砂型はただの金属棒を造り後で砲腔を掘削する、もしくは真ん中に砲腔となる丸太を入れ、溶解した金属が固まり取り除いた、とする二つ方法が論じられているが、個体の金属を人工的動力(当時は水蒸気)なしに、真っすぐに掘削するのは不可能であると考える。後者の方法でも中を研磨する必要があるので、その作業はこの図では人力で、また大型砲は水力を使用したと考えるのが自然である。

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    タタラにフイゴで空気を送り込み金属を溶解する。これは仏像の製造などで
    かなり古い技術であった。

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    砲の型を砂型でつくり廻りを木枠で固める。砲腔の部分には棒を入れている。

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    中身は小型でも木枠は大きなものになる。

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    木枠の補強

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    木枠の内部に砲の砂型が入っている。

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    木枠は井戸に縦にいれ砲となる廻りに溶解した金属を次々と絶え間なく
    充填する。

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    金属が固まると木枠から出し、外部のバリを取る

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    砲腔部分の取り出し、内部の棒を取り出している

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    砲腔の研磨、この砲は小型野砲程度のもので、尾栓が付いた

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    型の図面、明らかに肉厚で、金属強度に自信がなかった
    このような方式で1000門ほど製造したが、恐らく実用になる兵器とは成りえなかったと推定される。しかし、製造方式を藩が管理し、鋳物業者に任せると言う進歩が見られた。

     9 、現在の大砲

    すでに大砲の時代は終わった、ミサイル(誘導弾)の時代だとも言われる。
    確かに大砲は155㎜榴弾砲など巨大、強力なものをのぞき大小の誘導弾が
    これに替って来た。誘導弾はまずは設備が軽便であること、電子システムの発達で精度が良い、威力が大きいなどの理由だ。この傾向の例として護衛艦の装備を観ると、小型護衛艦は5種類ほどの武装を備えているが、砲はそのうちの一つでしかない。船首部分、75mmのセミオートで自動的に発射できる小型砲のみだ。砲弾は船内からの自動装填、照準はレーダーで従来の砲の概念とは異なる。
    砲弾は一体型だ。他の武装は、小型巡行ミサイル、小型ミサイル、20㎜バルカン砲、短魚雷などだ。全てレーダー照準と誘導装置で照準する。

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    陸上でも砲は戦車、戦闘機動車などの武装であり、あとは若干の自走砲類だ。
    それらが155㎜榴弾砲だ。すでに19世紀なかば砲の役目は小銃の射程外から歩兵・騎兵を倒すと言う重火器としての優位性を艦艇から陸上までずっと保ってきたが、ここ一世代は誘導弾にその立場をとられている。砲においても照準はレーダーとコンピューターシステムを使用し、砲弾はエネルギーを最大に使用した破壊力のある、また遠距離射程を持つ優れた兵器だ。
    現代の戦車、90式、10式の砲は滑腔砲で砲弾が回転し、砲身は耐久力が増加した。

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    9-1 、英国・ドイツが開発した155㎜榴弾砲

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    19世紀後半、英国・アームストロング、ドイツ・クルップは両国が欧州の
    海軍国、陸軍国の代表的存在として砲の開発でも最先端の技術を保持していた。
    (アメリカは南北戦争後、兵器に関しては後進を拝し、他の民用技術が芽生えようとしていた。エジソンやベル、ライト兄弟など)
    日本は明治の各戦争においてこの両国から砲自体を輸入し、製造を依頼した。
    時代は経て、
    NATOが創立されて、英国とドイツにイタリアが加わり開発されたのが
    「FH70155㎜榴弾砲」だ。1世紀近くの伝統が、ビッカース社、
    ラインメタル社の共同開発で花開いた。

     

    そして時代の宿命か、日本もこれを採用し、日本製鋼がライセンス生産した。小さなエンジンが付いていて、自ら少し移動できること、装填が楽なことがその特徴だ。全長10m,重量は10t近い。8名の兵員を要す。
    射程は30㎞。155㎜榴弾は地上戦においては最大の威力に近い規模だ。
    各国のうちでは日本が一番多く400門以上を保持している。どういう想定で使用するのか、戦車をはじめとする大規模な侵攻がなければ使用する機会は小さい。トラックで牽引され観閲式などのパレードには必ず出てくる。
    次世代のものが構想されていると言うが。砲は正確な照準と計算が必要だ。
    これは他の電子技術の発達と大きな関係がある。

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    装填架の部分
    一昨年の記念日の発射、空砲が異なるのかかなりの迫力があった。

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    岩手駐屯地特科部隊のFH70 の運用訓練

    すでにミサイルの時代と言われているが、このような大型砲を400門も展開しているには理由がある。コストパーと正確性だ。
    先日(2014年5月)岩手駐屯地、雨のなかでの演習を見学し、その展開、運用のチームワーク、素早さに驚いた。
    チームは砲とそれを牽引するトラック、指揮所、測定所、観測所などが一体となり通信が正確であること、そして兵站が保持されていることが緊要であろう。
    指揮所が砲の出動を命ずると砲を設置する地帯を偵察車がぐるりとまわり安全を確認する。

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    指揮所

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    トラックに牽引された砲が一個中隊、3門入ってくる。

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    牽引を離して砲を設置する。砲同士の間隔も正確だ。

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    測定所から目標までの距離を報告してくる。
    目標までの砲の角度をあるいは砲弾を計算する。砲は科学であり、計算だ。
    3門が一斉発射するのを斉射と言う。

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    端から次々を発射するのを連射と言う。

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    砲撃が終わると、観測所からの報告が入る。
    と言う手順を踏む。

    砲腔の様子

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    隊員が示しているところが閉鎖機器であり、意外に小型だ。

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    【この項以上】

     

    9-2、99式自走榴弾砲

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    巨大なものだ。コンテナほどの箱型の砲台と、垂れているような長い砲身
    独特だが、米国アリゾナ州の軍需部における試射でとてつもない良い成績をあげたそうだ。日本純国産だ。台車部分は三菱重工、砲身は日本製鋼。

    あまりにも変わった形なので、駐車するときこの自走砲に対面し、砲身のしたに自分の車を停めていた。

    諸元

    全長 全幅 全高 重量 武装 発動機 乗員
    11.3m 3.2m 4.3m 40t 12.7mm×2 600HP 4名

    普段、砲身は1mほど短く収納され、移動する。発射の際は伸び、さらに

    砲身はたわんだ状態だ。発射する時に真っすぐになる。

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    台車の後方に自動装填装置があり、砲弾、薬筒は当然このクラスの大型砲では
    別々だが、それを自動的に装填する。発射速度は速い。命中精度は高い。
    国産の世界一の火砲であると自負できるものだそうだ。

    そんな凄い兵器とは知らず、失礼したが、100両は北海道に展開されている。

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    9-3、護衛艦艦載砲

    現在の艦艇は2世代前の艦艇に比較すると装備砲の大きさ、数に大きな差がある。

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    右たかなみ型、左はつゆき型

    現在、日本には55艦の汎用護衛艦が存在するが、ほとんどの艦艇は船首に一門の砲を備えているだけである。これらの砲はイタリア製、オート・メラーラ砲で、艦艇の大きさにより127㎜砲か、76㎜砲である。いずれも砲塔内は無人で操作され砲弾は一体型、円形弾倉を使用する。排莢は甲板上に散らばる。
    たかなみ型(6000トンクラス)、イージス艦には127㎜、はつゆき型(4000トンクラス)には76㎜砲が装備されている。前の写真は珍しく両者が並んでいたもの。

    はつゆき型の例

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    76㎜砲

    諸元

    重量 口径 初速 発射速度 最大射程 装弾数
    7トン 76㎜ 900m/秒 85/分 18000m 80発

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    弾倉の様子

    たかなみ型の例
    76㎜砲に比較すると重量が重い。

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    127㎜砲

    諸元

    重量 口径 初速 発射速度 最大射程 装弾数
    37トン 127㎜ 45発 3km 66発

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     8 、日本帝国の大砲

    自衛隊OBの方から頻繁に受ける質問のひとつに「日本帝国の大砲はどうしてあんなにちゃちなものだったのでしょうね? 戦後の供与兵器をみて驚きました。」と言うものがある。
    確かに陸上自衛隊武器学校火砲館に展示されている各種砲を観察するに重厚感はない。しかしなかなか良く工夫されている点は感じられる。大体、日本帝国の砲の定義とは何か?
    日清・日露の頃の砲は含まれないだろう。外国技術が多くの部分を占めていたからだ。

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    九六式15㎝榴弾砲(左)、八九式15㎝カノン砲(遊就館ロビー展示品)日本重砲の代表
    従って定義としては「第一次大戦後、日本帝国が独自の陸上、艦船用に開発、生産し第二次大戦において使用した各種砲」となろう。一言、砲と言ってもその種類の多さは分類の仕方にもよるが、陸・海軍で使用目的によりおびただしい数になる。またその装備されていた数量はどうか、と言えばこれは各種資料によっても、私が小火器で計算したような明確な数量は出ていないのが事実である。
    種類としては大体、以下のようになろう。

     

    ① 陸軍 (口径20㎜以上を砲と定義した)
    野戦砲: 地上で使われた軽砲で野砲、山砲、小型砲で頻繁に移動ができた
    重砲:  地上で使われた大型重砲でカノン砲、榴弾砲、陣地を構築し長距離に使った
    迫撃砲・臼砲: 地上で使われた曲射砲
    要塞砲: 要塞に設置された重・軽砲類
    高射砲: 上空を通過する、攻撃してくる航空機を迎撃する砲、機関砲
    対戦車砲・速射砲: 戦闘車両を攻撃する砲・自動砲を含む
    航空機搭載砲: 大戦末期に大型機に対抗し航空機砲とした
    戦車搭載砲: 戦闘車両に搭載した砲

    ② 海軍 (口径による分類はしてなかった)
    艦載砲: 各種艦艇に搭載された砲、対艦砲、対空砲に分けられ、多種あった
    要塞砲: 海岸要塞、軍港要塞の防備に使われた各種砲
    地上砲: 海軍陸戦隊が使用したものでほぼ陸軍兵器と同じもの

    数量において、独逸と比較し陸軍砲が桁違いに少ないことを指摘していた資料があるが、
    独逸は陸軍国で日本に比較するとその海軍力は著しく小規模であり、恐らく海軍砲に関しては逆の傾向であっただろう。佐山氏は第二次大戦期、帝国陸軍野戦砲は7000門、重砲は1500門としていたが、これは例えば各大隊に2門装備されていた70㎜小型砲の数量を鑑みても少ない数字である。日本の砲の生産数に関しては図面からみる諸元とは別に大きな研究課題として残る。例えば、分隊兵器であった50㎜擲弾筒(氏は砲の範疇に入れていたが)は約12万門生産されていた。野戦砲に関しても、日本の戦線は本土、満州、中国大陸、太平洋各島に広がっていたので7000門と言う数量ではないだろう。10万門以上あってもおかしくない。ただ日本軍の宿命として移動手段の問題があったので、軽砲の比率が高いものであったことは推定内であり、それが「なんであんなちゃちなもので」と言う質問に至るのではないかと思う。

     

    8-1、大隊砲

     

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    ライフルの様子

    映画『土と兵隊』の最後のシーン、終わりなき戦闘に向かう、大隊の列。
    最後に馬に曳引された2門の大隊砲が続く。この珍しい大隊砲を
    ホノルルの「陸軍博物館」にあった。日本に実物はないのではないか?

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    程度も良い。完全品で、車輪の仕組みなども良く分かる。

    70㎜砲で、短い砲身、それを平射と曲射できる。駐退は両方ともよく出来ているから、短砲身のわりには命中率はよかったはずだ。

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    車輪は鉄板、木、鉄輪で構成され分解して馬載することも可能。
    日本軍は何でも「分解」の思想が生きている。

    70㎜砲弾は空薬莢にその場で平射用と曲射用に造り変えて使用した
    と言う。大隊の展開、及びその使用法に関してはとても詳しい説明があった。
    砲、左右に九二式重機、さらにその前方に軽機、擲弾筒、散開する歩兵。
    日本軍の大隊の陣形であったようだ。人数的には200人くらいか。
    との説明があった。
    この砲は再塗装であろう。

     

    8-2、九六式15糎榴弾砲

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    日本帝国は第一次世界大戦陸戦に参加しなかったので、榴弾砲は四年式(1915)が欧米の水準の兵器であったと推定される。1930年代、自動車曳引式にして近代的な自己緊縮砲身、

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    リーフスプリングなど新技術を活用した「九六式15糎榴弾砲」(1936)を開発し、中国戦線、ノモンハン、ルソン島など太平洋各地で使用していた。砲の設置、展開が早く出来るのが特徴であった。射角は65度あり、射程12000mだった。およそ440門が大阪工廠で製造された。最後の活躍場は沖縄で、アメリカ軍司令官サイモン・B・バックナーJR中将は、この砲弾の一発で戦死した。(現在までのアメリカ軍の戦闘で戦死した最高位将官である。沖縄の人たちもこういう犠牲を払ってまで占領された、返還されたと言うことは認識すべきだが)
    現在、各地に残されている火砲は尾栓が故意に取り除かれているが、この例は閉鎖の様子が良く理解できる。

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    8-3、八九式15糎カノン(加農)砲

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    日本帝国大型砲の代表的存在ではあるが、果たして何門製造されたのか不明である。沖縄戦では8門が洞窟陣地などから発射された。

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    沖縄戦での設置

    八九式(1929)カノン砲はノモンハンに80門が投入され28000発の砲弾を
    ソ連軍に浴びせたが、それ以上の攻撃を受けた。ノモンハンでは日本軍はトラック輸送、ソ連軍は列車を使ったので、最初から戦略的な企みにはまっていた。
    射角は43度、榴弾砲より長い砲身で、18000mと言う射程をもつ。
    数種類の砲弾が用意されていた。発射速度は1分間に1発。ノモンハンでは砲身の冷却に苦労したそうだ。

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    車輪を付けてトラクターで牽引し、砲列準備に2時間かかった。
    この例でも駐退複座や閉鎖の仕組みが良く見てとれる。凸凹しているのは弾痕。

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    8-4、四年式15糎榴弾砲

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    (武器学校の展示、閉鎖機構が取り外されており、仕組みが分からないのが残念だ。)

    迫力のある砲であり、日本の大火器の先駆的な立場にあった砲だろう。
    陸上自衛隊武器学校火器館に一門が展示されている。また大正、昭和の様々な絵葉書や写真にも残されている。演習で人家の直ぐ横に砲列を敷いたものがあったが、恐らく発射の際は、住民は避難したことだろう。
    榴弾砲はカノン砲より同じ大口径ながら、仰角が深く、砲弾は山などの障害物を超えて飛んでいく。
    第一次大戦の初期、大正4年(1915)に制定された。280門が製造された。独特の形状で、第一次大戦の青島攻撃に使用されたと言う。だから以前書いた、日本が大大砲を第一次大戦で使用しなかったは、訂正する。一門の砲に約10名の将兵があたっている様子が分かる。

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    仰角65度、この写真に注目は、仰角を浅くしてあるのと、駐退している砲身だ。射程8800mだったそうだ。欠点としては機動性の効率が悪く、横においてある車輪を後ろに入れて動かしたのだろう。

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    上の写真は仰角を最大にして発射している様子。

    8-5、 三八式野砲ならびに改造型

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    三八式野砲は日露戦争中に開発され小銃と同じく戦争が終了して明治40年
    (1907)に制定され、その後日本軍の主力野砲として第一次大戦から1945年まで使用された。大阪造兵廠で製造され改造型を含め3000門と言われているが
    少し少ない数量のように感じられる。当初は日露戦争中、クルップ社に発注した砲身が使われた。

    諸元

    重量 口径 砲身長 有効射程距離 製造数
    947㎏ 75㎜ 228.6㎝ 8358m 3000門?

     

    image002複座機構のない砲

    改造型重量1135kg
    改造型は駐退機能が改良され砲身が自動的に元の位置に複座するようになった。
    駐退は今まで何度も江戸期砲からの記述で述べたが、砲身の反動を受けとめる機構で、複座はその砲身を自動的に元に戻す機構だ。これが作動すると照準が非常に楽になり速射できる。油圧、空気圧、バネなどを使用した。この改造型は大正14年(1925)に完成した。

    image003改造型、砲身下複座機構の前が開く

    『陸上自衛隊武器学校砲火館』には両方の形式が並べてある。比較すると、改造型は砲身の下の筒が前部で開けられるようになっており、砲架が長い。
    両方の砲とも、後部の閉鎖装置が取り除かれ無稼働化されている。

    image004手前が改造型

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    image006中国戦線の三八式野砲

    5名の砲手が必要である。右の兵士は電話で弾着を確認中。

     

     

    8-6 四一式山砲

    三八式野砲を小型軽量化して、分解・組み立てを1容易にした。駐退複座機能も備え分間発射数を増加させるとともに、馬曳きの他、人力搬送も可能とした。
    連隊に一門備え連隊砲とも呼称されたが、地形の複雑なところ、また密林などの戦闘に威力を示した。
    諸元

    重量 口径 砲身長 有効射程距離 製造数
    540kg 75mm 138cm 5500m 2500門?

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    上2枚の画像は満州、北シナ国境の戦闘

    8-7 九一式10㎝榴弾砲

    フランスのシュナイダー砲を元に開発された。この時期日本はフランスの火器、ホチキス対空機銃などの多くを採用した。口径が10㎝なので大型である。
    昭和11年(1931)制定で、一部自走砲があった。

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    諸元

    重量 口径 砲身長 有効射程距離 生産数
    1250㎏ 10.5cm 209 cm 8500m 1100門、
    自走式100門?

    装填は大型砲方式の分離型で、まず砲弾をそれから薬筒を押し込むと言うものだった。重量が馬曳きには重すぎるので、自動車が必要であった。約100門の九七式戦車車台を利用した自走砲が製造されたとしているがこの数は疑問である。本体の1100門はおおむね正しい数量であろう。ノモンハン紛争に投入された。

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    仰角を付けた状態

     

     

    8-8 九四式37mm対戦車砲

    帝国陸軍に重要な存在の兵器であった。敵戦車が強力化して、大口径の速射戦車砲が必要となったのだ。この砲もノモンハンに投入された。ノモンハンは対戦車が重要な課題であったが、その評価は如何なるものであったのだろう。

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    諸元

    重量 口径 砲身長 有効射程距離 生産数
    327㎏ 37㎜ 1707㎝ 5000m 3400門

    直射して敵戦車の装甲に命中させる。近距離であると敵戦車の火力にやられる、

    難しい運用だった。6種類の様々な砲弾を使用した。

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    ガダルカナルで破棄された砲

     

     

    8-9 一式機動47mm砲

    昭和15年(1940)制定の47㎜砲で、日本の砲は急速に大口径化したが、まだ

    世界の水準からみるとまだ小口径であった。砲の運搬、弾薬輸送が課題だったからだ。ようやく日本にもゴムタイヤの砲が出現した。ゴムタイヤは輸走速度を速めたが、従来の木製枠に鉄をはめた大型車輪に比較すると砲の安定、耐久性などに問題は残った。しかし諸外国特に米国はゴムタイヤの大口径砲を開発し、自動車で牽引し輸走速度を速めた。

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    諸元

    重量 口径 砲身長 有効射程距離 生産数
    411㎏ 47㎜ 2248.5㎝ 5000m 1500門

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    (8-4から8-9までの実物は陸上自衛隊武器学校火砲館屋内に所蔵されておりここには現存する日本の火砲を観察するには最大の種類を保存している。残念ながら閉鎖機が外され、砲身に詰め物がされ完全無稼働化されているが、塗装なども統一されている。だが、ここにある砲だけで旧日本軍の火砲を判断することはできない。ここにあるのは陸上、野戦で使用された軽砲類で、重砲、艦載砲などは見られない。重砲、艦載砲は遊就館に幾つかあるので、両方を見学すると日本帝国の大砲がどのようなものであったかおおよその想像はつく。大砲は現在の大阪城の敷地中にあった、大阪造兵工廠で生産された。)

     

    8-10 帝国日本軍の噴進(ロケット)砲

    帝国日本のロケット砲活用は限られていたと書いて、そんなことはないと言う
    コメントを貰ったことがある。コメントの通りで種類や数量は少ないが、大戦末期に
    1、「四式20㎝噴進砲」が制定、製造され、硫黄島、沖縄などで使用され、さらに日本本土には数多く配備されていたそうだ。

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    硫黄島では70門、各50発の噴進弾が使われた。沖縄でも存在感があった。
    砲は滑腔で、砲弾自体が底の6個の噴射する穴の角度で回転する仕組みだった。
    砲身は底が開いており、そこから発射のガスが噴射されたので、砲身自体の反動は少なく、駐退機能がなくても済んだ。砲身の製造は極端に言えば筒だけで、
    取り付け金具、二脚、底板、照準器などは付属品だった。
    砲長約2m、重量230㎏、射程2500m、砲弾は約84㎏もあった。射程は角度を照準器で調整した。また撃発が問題で、摩擦式のものを使ったが、長い紐を
    外部から引く方式、発射薬は黒色火薬が主体であっただろう。

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    (白い帯は徹甲弾の意味)

    二脚や底板は配備された現地製造で、運搬の手間を省いた。大戦末期にはこのような方式は帝国日本軍では一般的で、対空砲などにも採用された。
    二脚や底板は木製であったと推定できる。巨大な「八九式擲弾筒」のようなもので、信管は着発と遅延だった。
    2、さらにこの方式を大型化した四式40㎜噴進砲が大戦末期に開発された。
    砲弾は510㎏、砲身なしで木製の架台から発射するロケットだった。

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    角度を45度に固定し、射程は4000m、電気発火方式だった。信管は着発と遅延。ロケット自体がとても大きなもので、正確に命中すれば大きな被害を与えた。この画像の木架は恐らく一基の発射を耐える強度しかなく、数多くを散開して陣地を形成したであろう。発射薬、ニトロとあるが、この手の発射薬は遅延性のものを使用したと推定される。従ってフリクション方式でも発火できたであろう。沖縄で使用された。

     

    8-11、二式12糎迫撃砲

    日本の迫撃砲は現物が残されているものは少ない。この迫撃砲は昭和18年頃から生産された。大型で本土決戦のため温存されていたと言われている。
    発射機構としては墜発(砲弾を落としてその重みで砲筒の底の撃針が雷管を撃つ方式)と撃発(砲弾を装填してから撃針を叩いて発射する方式)があった。
    前者は発射速度を早くすることができ、後者は正確に照準できた。

    名称未設定

    下はこの砲の有翼弾

    諸元

    重量 口径 全長 最大射程 生産数
    260㎏ 12㎝ 153㎝ 4000m 1000門

     

    当時、迫撃砲は臼砲の一種であるから、発射の反動を受けること、駐退は下部の板で行う。地面にめり込んだり、後退したりするが、砲手にとって危険な兵器であることに間違いない。従ってあまり口径の大きなものではなかったそうだ。
    またこれだけ大型で自走もしくは曳引できない兵器であるから、南方や大陸など攻撃兵器としては作戦に制限があった。砲弾の輸走も貨物車が必要で、道路、
    鉄道の利用は必だった。

     7 、「大砲文明」を支える要素―駐退機構の有無―

    概要:

    大砲にはさまざまな技術要素がある。なかでも「駐退機構」と言う要素に注目して16-19世紀にかけて、日本の大砲技術がいかに西欧に比較して劣っていたか、日本では近世への文明の流れのなかで、大砲戦闘が成立していなかった事実を明るみにすることが主な題材である。現在、16世紀末ごろ、製造された、使用されたとされる言われる大砲が何種か存在する。それらを良く観察すれば、駐退機構を有しておらず、物理的に大砲として実用になるものではなかったと推察できる。アメリカ南北戦争(1861年より65年、日本の戊辰戦争2年半前)に使用された各種砲の実射(練習弾)を通じ、駐退機構とは実際にどう働くかを簡単にまとめた。

    北斎画、西洋の艦載砲

    1)反動の理論

    駐退不可能な砲身には実用性がない。(臼砲のような特殊な例外はある。)砲には砲弾の威力に比例する反動が必ずある。反動を駐退する際に考慮にいれる概念は「時間」である。時間がかかり過ぎると威力は減退する。まったく反動を受けないと、砲身には不自然な力が掛り、飛び上がったりし正確に砲弾は飛ばない。銃砲は反動をある程度逃がし、ある程度受けないと、弾丸、砲弾を正確に飛ばし、目標に命中させて、円滑に発射を続けることはできない。その加減の学術的理論が、駐退理論である。日本式砲術には駐退に関する基本的な考え方はなかった。日本古流の砲身と架台に関しては、日本の古式流派伝書にある砲架では金属個体弾を発射するのは不可能であった。日本古流砲術が棒火矢、焙烙弾などを最大到達距離、砲身仰角約40度で発射する機能しか考えてなかった証左である。天山流、中島流など現存する絵図を見ても駐退の意識はなかったことが推察される。この北斎画でも砲耳の大きさは実際よりはるかに小さく描いてあった。


    中島流仕掛けの図(杭と縄だけの架台)

    2)駐退機構とは

    銃や砲を火薬の力で弾丸・砲弾を発射すれば必ず反動がある。反動の力は単純に考えても、弾丸・砲弾を発射するエネルギーの半分差し引く砲の重量近くになる計算だ。この反動を如何に処理・管理するかが、駐退である。現代兵器はそれらの力を無駄にはしておらず、小火器においては反自動、自動装填・発射に、砲は排莢に使っている。近世の駐退は砲耳(砲耳とは砲身の左右に出た凸起)、それらをバランス良く、稼働するように支えた頑丈な架台、車輪、ロープなどを使用し、反動により、ある程度砲自体が後退するも、とどめておく機能、時間差を管理した。注 (計算式)
    小火器は個人が構え、発射する兵器であり、人間の体がその反動を緩衝する。
    ちなみに、個人が操作しうる銃、もちろん目的別にその反動は異なるが、現在では大きなもので、狙撃銃口径12.7㎜程度である。散弾銃の場合は12番(1インチの12分1と言う意味)で約18㎜である。日本では大鉄砲と言うのが戦国末期から江戸期に掛けて発達し、一般的な五十匁筒は口径が30㎜ほどである。同じ頃西欧で使われていた砲に近い大きな口径の大鉄砲も日本には多く存在した。しかし,活用に関しては大砲としてかどうかは疑問がある。銃と砲の大きな違いはその反動の処理、つまり駐退機構の差であると言っても過言ではない。また大鉄砲から発射された弾丸は信管が作動し、炸裂することはなかった。
    砲弾は西欧では城壁破壊などの目的から鉄製、日本では人馬殺傷の目的から鉛製だった。

    3)中世から近世へ、カノン砲の発達

    16世紀大航海時代から19世紀初頭までの、西欧砲の具体的な形態と機構を観察することで、大砲がどのように活用されたか、どの程度の威力があったかを推定するのは、研究の重要手段である。ちなみに、日本の戦国期、16-17世紀初頭には車輪の付いた金属砲身金属弾丸を発射する大砲は存在していなかったと思われる。駐退能力は大砲の威力に比例する。従ってフランキ砲のように砲耳でなく細い支柄の砲は大きな力を発揮した砲ではないと言えよう。
    砲の種類によっても駐退装置は異なる。前装砲の時代は長く続き、約300年間、19世紀半ばまで後装砲は出現しなかった。(子砲を使用するフランキ砲は16世紀以前、一時期のもの、前装ライフル砲は19世紀初頭に出現した。1861年勃発した米国南北戦争は多種の大砲技術を発達させた。)
    カノン砲、艦載砲や要塞砲は長い砲身を持ち射的距離も長い。これらの砲は頑丈な架台、それに並行して付けられた2個以上の車輪、船体や壁に繋がるロープで砲撃反動を緩衝した。艦載砲の砲口は船体から出して発射する。砲は反動で船内に戻り次弾を砲口から装填し、ロープで引っ張り砲を押し出し次弾発射した。艦艇(ガリオン船)は航行中、砲口が出る窓の蓋を閉め、大砲は内部に入っていた。また左右の砲列は互い違いになっており、砲同士が扱い易い状態になっていた。(ガリオン船は15世紀大航海時代に使われた帆船で、砲列艦であった。)カノン砲より砲身が短く、口径が大きく、砲弾の直進性は短いが大型の炸裂砲弾を使う砲を榴弾砲(ホィッワー)と言った。駐退機構はカノン砲と大体同じである。

    4)野砲、山砲の発達

    1630年頃、スゥエーデンのグスタフ大王が野戦砲(フィールドキャノン)(上の図)を開発した。それまでの砲は移動が困難であった。絶えず戦線が移動する野戦において大砲を使用する戦闘が難しかったのを、軽い砲身が載せられた大きな二つの車輪で支え発射できる仕組みを作った。車輪は当然、駐退機能もした。やがて野砲は、プロシャのフリードリッヒ大王により歩兵、騎兵、砲兵隊の3つの異なる兵力を組み合わせる戦法を確立させた。18世紀末にはナポレオン一世はこの野砲を4斤砲として規格統一し、砲兵隊の数量も増やし機動的に活用した。この種の野砲の駐退は二つの車輪が後退することで緩衝した。(砲身を、簡単な架台に固定、荷車の車輪を付け、行った発射実験に立ち会ったことがあった。一発の発射で架台が割れてしまい、砲身は後ろに落ちた。架台の造り方も木種、木目の取り方、金属の補強などの工夫が必要であり、簡単な技術ではない。)
    野砲をさらに軽くして分解・組み立てを容易に造ったものを山砲(マウンテンガン)と言った。4斤はフランスが採用したメートル法の単位であるkgの日本語標記であり、女子砲丸投げの砲丸がその重量である。

     

    5)砲身には「砲耳」が必要

    砲耳(ほうじ)とは、砲身と一体となり、左右に付き出た凸、突起であり、これらが砲身を架台に固定した。架台には彫り込みがあり、そこに砲耳を入れ、上部180度は金属帯を架台に打ち、砲身を上下に廻るよう固定した。砲耳のない砲身は実用に使われたことはないと断言して良い。砲を鋳造する際には、材質にかかわらずこの部分がバランスの良い位置に頑丈に出ておらねばならない。砲耳の位置は砲身の重心に近く、仰角を決めるためにも使われた。
    架台は頑丈な一体型が必要である。砲身の反動を砲耳で受け、架台に伝わり、架台は車輪で後退する。これが近世の西欧砲の基本的な仕組みだった。また、頑丈な架台は方向を変えることで、また後部か前部に楔を入れることで、砲身仰角を距離に合わせ照準できた。艦載カノン砲などは約300m、野砲は約200mまで砲弾は直進性を有した。近世砲は車輪で後退すると、そのまま前装で装填し、元の位置に押し出し再照準して発射した。砲身の尾部を輪転で上げ下げする方式もあった。車輪の数は、野砲は2個、艦載砲、要塞砲は4個が一般的であった。

     

    6)駐退の課題は複座

    砲の駐退後座は前装の時代では元に戻り、複座しなくても、艦載砲、要塞砲などでは装填に便利であった。しかし、後装砲が出現すると、砲身が発射後また元の位置角度に戻ることが正確な照準と発射速度の重要な要素であった。駐退複座と言い、照準を合わせ直すことなく正確に直ぐに発射できるからだ。鉄砲は個人兵器だから一人の兵士が操作し照準しなおすが、架台に搭載する機関銃には同じことが言える。駐退複座にはバネ、油圧、空気などを活用し20世紀、砲には無くてはならない技術になった。
    7)南北戦争の大砲を実射し駐退を観察した

    車輪の外から火縄で着火させる

     

    ① 臼砲、口径8インチ, ②山砲 6パウンダー、③野砲 12パウンダーいずれも空砲ではなく、練習弾(プラクテスラウンドと言う実弾の3分の1ほど重量)を込めて発射した。この中で駐退機構がないのは①の臼砲(左の黒い塊)である。全体が鉄製であり、木製の架台には載ってない。発射すると全体が地面にめり込むか滑り、次弾を装填する前に太い棒を2本使い、梃の原
    理で位置を置きかえる。臼砲は砲身が極端に短く、初速が遅いので駐退をしなくてもったが、発射弾数は限られていたそうだ。南北戦争中、臼砲をトロッコに載せて発射した写真、駐退できずひっくり返った写真などが残されている。野砲など車輪付きの砲を発射後、元の位置に戻すことをバッテリーと言い、駐退する距離を調整していた。②と③は規模のだけの差なので③の野砲、ナポレオン砲と呼んでいたが、その場合においては車輪が約50cm後退した。実弾の場合は2m後退するとしていた。回数を重ねて発射すると車輪と架台の後部が地面を摺るので轍が出来た。(バッテリーには砲と装具弾薬のセットのことを言う場合もある。)
    臼砲の発射、設置した地面に注目、小石で滑るように置いた。駐退しない砲なので、離れた場所からフリクションプライマーという紐を引き着火さす。

    まとめ:

    16世紀、日本は伝来以来、またたくうちに鉄砲を製造、運用し、これをもって一種の文明を確立した。しかし、大砲に関しては、16世紀初頭鎖国により、ガリオン船の建造、運航を禁止して艦載砲の考えはなくなった。城は平城になり要塞砲の必要性もなくなった。鎖国直後1630年に野戦に大型車輪で移動し駐退しやすい野戦砲が開発された。これも皮肉な偶然だった。もとより大型投擲兵器(火薬が出現する前)の概念がほとんどなかった日本においては19世紀、外国船が搭載する大型艦載砲を見てはじめて大砲文明の必要性に接した。この社会的衝撃の大きさは想像に余る。大砲技術は、治金、鋳造、掘削などの製造技術の正確さ効率だけでなく、発射においては弾道(ガリレオの研究)、それらの基本になる数学、物理、空力、工学、気象、測量など、また炸薬、信管など化学、と広範囲で深い知識が必要であった。大砲文明の構成は学問の発達を意味した。また兵への教育、訓練、組織的運用、兵站思想など徴兵制を含めた近代的軍隊組織の社会性を必要とした。そのような意味で、19世紀初頭、すでに産業革命が進行していた西欧に比べて日本は社会的に大砲文明が非常に遅れた状態にあった。その後、半世紀あまりで西欧水準に追いついた日本の兵器技術開発は銃砲史において、特記される事項であろう。以上

    幕府は野砲(4斤)の採用に積極的で関口で製造したとあり、フランス軍事顧問は高い水準にあったとしていた。これは1862年頃の調練の様子を描いた
    絵巻もので約20門の同じような砲が描かれている。4斤砲は3名の砲手が操作した。

    使用画像 大砲の歴史表
    北斎漫画 艦載砲
    絵巻物 野砲
    中島流 の図
    砲の写真 ウィンチェスター・バージニア

    参考文献:別紙

     6 、戦国期日本の大砲開発と製造・・・その実態

    近世欧州3軍共同戦術への明らかな乗り遅れが日本大砲史上存在した。
    戦国期、16世紀日本は鉄砲大国であったし、その組織的な運用は当時の世界最先端をいっていたものと推定される。だが、大砲はどうだったか?欧州やイスラムでは様々な方式の大砲が使われていた。日本では人間が反動を受けとめる大筒までの発達であり、大砲は開発されなかったと考えるが、ある時期、日本では大砲も開発され製造され大掛かりに運用されたと言う説もある。
    輸入品を使用した事実はあり、その実物は残されている。
    大阪城攻城では多くの輸入大砲が使われたと言うがその実物は残ってないし、運用の実態も明らかではない。徳川方は五十匁(口径30㎜)以上の大筒を国友に多量に製造させ、昼夜に分かたずこれらを城内に発射させたとも言われているがこの運用の方は現実性が高い。欧州で大砲が画期的な発展を遂げたのは日本が鎖国をしたころ1630年で、スェーデンのグスタフ大王による車輪付き野砲の発明である。大砲の車輪は発射の反動を受けとめるだけでなく、機動性に優れ、これにより、実用的な兵器として欧州各国に大規模に採用された。(大型艦艇とカノン砲の発達があり、さらにフリードリッヒ大王の騎馬、歩兵と砲隊の3軍共同戦術が発展したが、これは後述する。)

    ① フランキ砲

    15-6世紀にイスラム、欧州で盛んに使用された方式の砲で、日本にもまとまった数量が入ってきた。この実物は九州の大友 宗麟がポルトガル人から購入したとある。同じものが各地、また幕末、ロシアに鹵獲されたものが存在している(保谷 徹氏の調査)青銅砲で一部分、鉄が使用されている。
    口径9.5㎝、全長288㎝、銘一貫目九匁とある。天正七年()ゴアで製造されたもので、臼杵城に備えられており、薩摩が攻め入った時に鹵獲されたと。
    「国崩し」と呼ばれたほど威力のあったものと説明がある。

    (装填筒は上から差し込む、下に出ている部分が穴に入り、後部の左右の穴に
    楔、さらに後部の上にも楔を打つ、発射後、解除するのが大変な作業だ)
    欧州の各国の博物館では良く観られるもので、そちらの説明では、装填筒(日本では「子砲」と言う、この実物には欠けている)を入れ楔で固定して発射するが、装填筒の口径は、砲腔の径より小さく、火薬燃焼のガスが効率的でなく、過渡期の砲で曲射砲的に使用したそうだ。日本語では「仏狼機砲」と書いた。
    この砲の方式は威力がない、と言う証明は砲耳が小さく、最終的には木部の架台もしくは船縁に差し込む鉄製の細い柄であることだ。狙いは発射まで後部の鉄製の柄を砲手が抱えたものであろう。子砲は欧州で観ると、簡単な筒だが、その上部に頑丈な柄がふたつ出ており、それに棒を差し込み、梃子の原理で外した。威力は、同じ大きさであれば前装式の三分の一と言われている。

    (細い砲耳が固定された鉄製の柄は凹型で下に尖った棒がでている)

    江戸期にはさまざまな砲術流派がフランキ砲を取り上げていた。
    (写真はこの砲が設置してある場所がホールとみなされ写真撮影可の時代に撮影したものである。)

    ② 芝辻砲

    大阪城攻城に際して、徳川方が特に堺芝辻に命じて、鋼鉄、鍛造で製造させた
    名砲であると、多くの資料に書かれている。瓦張りと言う瓦状の板で筒を構成していった製造方法であった。また58年産業考古学会の非破壊検査で、鋼鉄の
    鍛造であることが証明された。それ以来、この砲は実用的で、大阪城攻城に大きな威力を発揮したと有名になった。
    口径9.3㎝、全長313㎝、上部に異常に大きく「慶長十六年摂州住芝辻理右衛門助延作」と銘が入っている。

    (火孔に点火する際には鉄砲のように照準はみることができない)

    右に銘がある。しかしこの砲は実用に使われたのか?
    大いに疑問なものである。まず鋳造でないか?砲腔がかなり曲がっているのである。口と元では45㎜のずれがある。

    (鍛造なら尾栓だろう、中心から左に45mmずれている。技術的にあり得ない)
    内部を見ると、一旦左上に行き、それから右に下がる形で曲がっている。

    (砲口から内部をのぞいた画像)

    鋼鉄か鋳鉄か、非破壊試験とは言え、内部の一分を削り、(右上の光っているところだろう)その炭素量を計測したと推定できるが、鋳造でも表面は炭素量が少なく鋼鉄的な材質になるとの説もある。鍛造、特に瓦張(本来、外部に向かう爆発力に対しての抗力と矛盾すると考えられるが)で製造したら、鋳造をことなり、砲腔が曲がることは製造過程で修正できよう。またこの巨大な砲、どのような架台に載せたのか、縄で固定するしか手はないが、ほとんど寸胴だから抜けてしまう。砲耳はない。
    推理だが、この砲は幕末の作ではないか。例の井戸のような縦穴を掘っての製造。銃腔内は鋼鉄製には見えない。その実物を、幕末、明治初期に、こんな立派なものを日本人は1600年頃に開発、製造していたのだと、いう国内向け『士気鼓舞』に使用したのではないか。銘なども不自然だ。以前、ドイツにもこの砲のレプリカが造られてあったのをみて赤面したが。
    鍛造、鋳造はともかく、どのように運用したのか、曲がっている砲腔に砲丸を
    どのように装填したのか、それだけでもご意見のある方には聞いてみたい。
    日本の多くの書物は「芝辻砲」なるものを絶賛しており、否定的に書いてあるものは2-3しかない。

    (このバランスの悪さ)

    なお、この砲は銑鉄製、豊臣家の遺品なり、と書いてあるのは有坂 鉊蔵著「兵器考」砲熕篇 昭和11年である。
    (この砲の研究は、砲の展示場がロビーであった頃撮影、現物に一切手を触れずして行った、ことを明記します。)

     5 、幕末日本の大砲開発と製造その実態 その1


    各地に幕末の海防に戊辰戦争に使われたとされる大砲が存在し、ほとんどが架台はなく、砲身のみのゴロンと置いてある。日本が本格的砲戦を経験したのは、文久二年(1863)の長州4カ国艦隊戦争と薩英国戦争であった。

    それまでも嘉永三年(1854)のペリー艦隊の来航以来、幕府をはじめ各地で大小様々な大砲の製造努力がなされてきた。しかしそのほとんどは成功しなかったと言って良い。長崎から佐賀、幕府、各藩に大砲製造の方法だけは広まったが、多くは材料である多量の鉄、青銅などの生産で躓いた。欧米はほぼ100年間に渡り産業革命が進行し、産業革命の第一義的意義(中江教授談)は多量のエネルギーを消費し『多量金属材料』を生産する、と言う概念であったので、日本の現状は欧米とはかけ離れた後進的なものであったと言えよう。

    韮山の江川塾では反射炉を作り、鋳鉄砲を生産した。しかしこれは小型の所謂山砲で射程も2,000mくらいのものであった。

    その後の一つの日本の社会的傾向として、幕末の後進性を非常に恥じるコンプレックスを持ったと言うことが特筆され、その結果、なぜかおかしな現象が起こり、それが現在でも事実として継承されていることだ。

    幾つかの例を上げることが出来る。

    某博物館展示品の例である。

    ① 青銅80ポンド陸用加農砲 安政元年湯島大砲鋳造所製 品川台場に装備されていた。口径25㎝、全長3830㎝ 滑腔 と説明がある。

    後部と発火装置跡

    観察すると砲耳(長さ18㎝、直径18㎝)は砲身の下部にあり、その上には砲を吊り下げるための柄が左右対照に2本ある。船舶用のカノン砲ではないか?さらに後部には欧州風の刻印があり、それを潰した跡が見える。

    刻印の跡

    ロシアの軍艦ディアナ号が下田で安政元年(1854)の大地震に遭遇し、戸田で帰国のための船を製造した話は有名である。実はディアナ号は下田で何回も横転して散らばった54門の艦載砲を全て幕府に譲った。船を軽くして戸田に向かう途中、沼津沖で沈没した。幕府はこれらの大砲を海防のためや幕府の軍艦に使用した。しばらくは幕府の大砲はディアナ号のものを様々に使用していた。

    砲耳(下部にある)

    海陽丸にも搭載されていた。技術的にペリーの来航の頃、幕府がこのような大砲を完成させたとはとうてい思えない。しかし、日本の歴史のなかで、日本が技術的に劣っていたと言うことを言えない時期があった、そういう時に

    この大砲は誤った表示をされ人の目に付くところにあえて展示されたのではないか?と言うのが疑問のひとつである。

    ② 青銅150ポンド砲 口径29㎝、全長422㎝、嘉永二年(1849)薩摩藩鋳造、

    薩摩天保山砲台に装備、明治初年、元は滑腔であったが大阪砲兵工廠でライフルを刻む。文久二年(1863)、薩摩には80門の砲があり、この砲は大きなものであったが、滑腔で榴弾はなかった。たまたま英国旗艦ユーライアス号の甲板上を砲弾が滑り、司令官と艦長が死亡した。当時、青銅砲は地面に井戸のような穴を掘り縦に製造した。ライフル砲は中に入れる棒に刻んだ溝で形つくられ、さらに水力などで掘削、研磨した。しかしこの砲のライフルは明治初年(1863)に掘削されたとしているが、当時日本には機械で回す掘削機材はなかったはずなので、おかしな説明であろう。

    この砲は天保山にあったものではなくて、後にオランダから輸入したライフル榴弾砲であり、薩英戦争に使われたものではないのでは、と言う疑問が残る。

    ライフルは明らかに研削したものだ

    ③ 江川塾韮山で鋳造された小型砲『韮山砲』

    多量に鉄を作るための反射炉は1840年頃から日本各所で試みられ、韮山の江川の反射炉はペリー来航頃には完成していた。その後、鋳鉄を使用した比較的小型砲の製造にかかり、幕府や各藩に供給されたようだ。

    この砲は「三百匁玉施條砲」鋳造、口径6.7㎝、長さ132㎝、6條ライフルを備えた、前装「カノン砲」とある。カノン砲の定義は要塞、船舶などに装備された遠距離砲で、明らかにこのような砲ではない。

    この砲は、軽便な「山砲」である。砲耳は前から94㎝、つまり3分の2の位置にあるのもその証左だ。砲耳は9㎝x9㎝。尾栓があり、開け閉めのために回した跡もある。本来、この手の砲には尾栓は必要ないが、製造の過程で研削を容易にするために和砲はこのように開発されている。

    本来、車輪と架台があり、4つに分解し馬載しりか、数名で分解し運搬した。

    車輪、架台があればこのように間違った、分かり難い説明は受け入れられないが、この砲は貴重な国産品だが残念ながら砲身だけである。

     

    5-1、青銅150ポンド砲

    靖国神社遊就館の庭、入って左側に展示されている大型砲で保存状態は
    良い。表示板には以下のようにある。

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    「青銅百五封度陸用加農砲 嘉永二年(1849)薩摩藩鋳造 天保台砲台に据え付けていたもので、明治初年(1863)大阪砲兵工廠が砲内に施條を施した」
    諸元
    口径  全長
    29㎝ 4.22m
    天保台砲台の150ポンド砲と言えは文久三年(1863)の薩摩・英国戦争で使われた滑腔砲であろう。不自然だ。

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    まず第一、ペルーの来航前にこんな巨砲を薩摩で製造する必要があったか、また技術が存在したか?だ。それになぜ明治なり工廠でライフルを刻んだのか?
    薩摩にあった砲をなぜ大阪まで運搬したのか?
    ライフルは素人が見た目でも当初から刻んであったと観える。幕末にお台場用か、艦艇用に欧州より輸入した砲と考えるのが常識的だ。

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    5-2、青銅八十封度陸用加農砲

     

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    これも同じところ左側に5-1と対峙して展示されている。カノン砲は陸用か
    艦艇用か架台がないと判別がつかない場合が多い。
    この砲の表示は「この砲は安政元年(1854)湯島馬場大砲鋳立場鋳造 品川台に据え付けられていたもの」とあるが。???
    この砲はライフル砲ではない。
    諸元
    口径 全長
    25㎝ 3.83m

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    (証拠の刻印)

    明らかに外国の刻印があって、それを消してある。時代的に考えられるのはロシアのディアナ号の備砲だ。ディアナ号は下田で安政大地震の津波あい、20回
    回転して砂浜に装備をばら撒いた。装備していた52門の大小の砲は幕府が引き取った。その代わりに戸田で小型の艦艇を製造し、ロシア人は母国に戻ったと言われている。そのうちの一門ではないか。湯島では当初、技術的に西洋砲を製造するのが難しく、川口の鋳物業者を使ったりした。

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    (ディアナ号遭難の画)

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    5-3、 松本城展示の小型前装砲

    赤羽コレクションの一部か、城に元々存在したものかは知らないが幾つかの
    疑問点がある。砲身自体は鉄製、装飾は青銅で良い造りだ。
    砲長150㎝、口径7㎝くらいで前装砲だ。

    名称未設定

    砲耳が2組付いている。砲耳は1組で砲身の重心位置が一般的である。
    (砲耳の役目は江戸期末まで、日本の砲術で理解されてなかった理論の一つで
    架台に反動を伝える、砲身の角度を調整する、のふたつである)
    砲身自体は16世紀、小型艦艇に搭載され、砲耳の替りに砲身下部に
    柄が出ていた方式のものではないか。(柄を舷側などに差し込む、装填は
    180度回転させる)
    この架台の利用方法が分からない。車輪4個(直径35㎝、幅数㎝)が大きすぎる。スペースの限られた戦闘シーンでは扱いがやっかいだ。それにしてはロープ掛けの輪が細い。
    と言うようなことで、砲身に加工し、架台を新作したものではないか推測するしだい。

     

    5-4、幕末輸入青銅砲の例 (板橋区立郷土資料館展示)

    幕末に約100の艦艇が輸入された、明治になるとほとんど残らなかったそうだ。
    それらの艦艇の備砲であったのだろう。三門の割に小型な艦載砲が残されている。①と②に関しては炸裂弾を使用したのであろう。

    ①小型艦載カノン砲 銘参六拾斤銅砲

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    腔箋は明確に残っている。

    諸元

    口径 弾経 腔長 砲長 全長 重量 砲耳
    14.27 13.8 199 208 230 2500 14×12

    (単位cm, kg)

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    ② 12ポンド施條小型カノン砲

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    砲身に取手がついている。関口製と国産品と言われている。
    腔箋は擦り切れているが、これは使用のためか、製造方式か不明。
    出来は①に比較すると良くない。
    また様ざまな部品が鉄ネジ止めである。艦載、要塞、兼用だっただろう。

    諸元

    口径 弾経 腔長 砲長 全長 重量 砲耳
    12.6 11.63 152 191.2 206.55 1050 10×8

    (単位cm, kg)

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    ③ 24ポンド船舶用カルロンナーデ砲 4

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    滑腔砲で砲耳の替りに砲身下に内直径5㎝のそれに駐退棒を差し込んで使用する架台があった。
    砲艦クラスの艦艇が葡萄弾を詰めて近距離で、敵艦船の甲板を撃つ、もしくは
    大きな艦艇の高い位置に装備されていた。肉が厚いので初期の兵器だろう。

    諸元

    口径 弾経 砲長 全長 重量
    14.8 14.6他 147.9 173.4 1200

    (単位cm, kg)

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    5-5、アームストロング野砲の信管と砲弾(板橋区立郷土資料館蔵)

    明治初期、西南戦争などで使用されたのだろう。

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    (各種砲弾珍しい)

    ① 初期火縄信管
    鉛の空洞な筒(長さ5㎝、上20㎜、下25㎜)に中に
    火縄を時間に合わせて長さ切ってつめた。発射の火で着火し火縄の燃えた時間で炸裂した。時限信管である。主に前装ライフル砲に使われた。丸い砲弾の場合は木栓を打ち込んだ使用した。これはねじ込み。

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    ② 初期のライフル砲弾

    砲弾が着地した衝撃で炸裂する方式は目標が船舶、城壁など固いものには有効であったが、泥土などに落ちると不発の恐れがあった。これらの砲弾は、1後装ライフル砲に使用されたものだろう。そのために初期の時限信管は、あたまの筋で解除する、廻りのローレットを回すことで、ゼンマイなどの力で、曳火式信管が作動した。恐らく当時としては非常に高価なもので、あまり頻繁に使われたものではないだろう。ローレットは二重になっており、発射のGで一つが外れ、もうひとつが作動したのではないか。

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    (発射済みの砲弾で不発弾だった可能性もある)

     

    ③ 鉛を巻いた砲弾
    よく八九式訓練弾なので、まん中が凹んでいるものがある。鉛が巻いてあったのだろう。兵器の腔箋を痛めないのが鉛の役目だった。

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    (発射済みの砲弾である)

     

    ④ 柔らかい金属の凸を砲弾に埋め込み前装ライフル砲にかませた。その他
    珍しい砲弾の機能。

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    (砲弾には信管が装着されるまで蓋がしてあった)