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    書名:『日本の機関銃』B5版 470p 部分カラー
    著者:須川 薫雄
    (陸上自衛隊武器学校小火器館顧問)
    出版社:SUGAWAWEAPONS社
    ISBN:9784990787806
    発注先:sugawaweapons@aol.com
    Fax 03-3473-2293
    価格:7,000円
    (若干の汚れあり5000円)




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     4 、南北戦争と戊辰戦争の大砲

    南北戦争1861-1865年、戊辰戦争1868年、「甲鉄」などの艦艇や様々な兵器がアメリカから恐らく欧州の武器商人(南部連邦は欧州に借金があったから)を通じ日本に来たに違いない。ピーボディマルティーニ銃11㎜などは多量ではないが、最新式のレバーアクション銃として日本に輸入されていた。南北戦争と逆で、幕府が発注して倒れてあとも明治維新政府が輸入を引き継いだ。

    手前から臼砲、山砲、野砲

    それゆえに幕末・維新期における日本の武器兵器はアメリカ南北戦争の影響なくしては語れないと、今回、バージニア州、ウエンチェスターでは特別に依頼し南北戦争時の3種類、大砲発射を経験させて貰った。
    それらは1、口径20cm中型臼砲 2、所謂ナポレオン砲12ポンダー野砲、
    3、小型山砲、もしくは榴弾砲、6ポンダーである。これらの大砲がすべて
    当時のオリジナルか、また改修されたものかは確かではないが、発射実験としては当時と同じ方式で、訓練弾(プラクテスラウンド)と標的を使用し本格的なものであった。演武の空砲とはまったく違うものであるが、また実戦の実弾とも違う、中間的なものだった。また今回はコンフェダレート南軍方式で行ったが似たような兵器は両軍共使用していた。結論から言うと幕末の日本の大砲文明の水準をはるかに超えた規模、性能であったことは否めない。
    戊辰戦争のほうが後だが、南北戦争では砲の使用は比較にならない規模だった。

    1、 臼砲は総鉄製で、これと同じような巨大なものが写真に残っている。
    今回のものは架台が150x58㎝、砲身は外径44㎝、口径20㎝、砲腔長は44㎝であった。中型だろう。また砲耳は直径25㎝で、車輪のない臼砲の宿命で大きい。砲耳を押さえている鉄帯の幅だけでも8㎝あった。「サージモーター」攻城迫撃砲とよばれ、「PULUISON BROS’」の刻印があった。砲身の角度は3段階に棒を梃子にして変えられる。

    臼砲

    木製の三角定規を使い、角度、つまり距離を設定する。方向は架台ごと2本の太い棒で動かす。この砲弾は48ポンドあり、火薬は9オンス(500g)くらいに見えたが、それに着火吸う方式はフリクションプライマーと言い、細い筒に針金が入り、それを引っ張る時の摩擦で火薬が発火するものだった。針金を引く紐は3mほどで、柄を握り腹に固定、身体をねじれと言う。身体をねじると結果的に発射の際には砲に背中を向けていた。砲弾は上に数十m上がり、放物線を描き標的の箱の手前に落ち、大きな土煙が上がった。もし信管の付いた実際の戦闘に使った炸裂弾なら大爆発が起こったはずだ。今回の練習弾は地面に深く入り回収は不可能とのことだった。


    2-3発撃つと音にも慣れる

    2、 大型野砲 巷で見るナポレオン砲より少し大きい。いろんな形があった
    のだろう。架台は240㎝あり、車輪の直径は140㎝、これは普通だ。車輪には14本の柄があり、二つの車輪の幅は160㎝。砲身は184㎝あり、ロットマン砲の形式だ。ライフルは新しい。砲尾の筒は33㎝あり、丁度この部分だけ長い。この長い砲身の重心位置に砲耳があり、簡単に砲身を上下することが出来る。砲耳の直径は9㎝、これもかなりの大きさだ。口径は8㎝、外形は14㎝。火門は7㎜くらいの孔だ。発射の手順は、包んだ火薬を入れる6オンスで、1Fより粒の大きな火砲用の黒色火薬だそうだ。砲弾を入れる。これは実弾でないので、6ポンド半。照準を付ける。方法は砲身の横の照星、と砲尾に立てた、真鍮製の照尺で行う。

    照準

    火門に針を突き刺して火薬の包を破る。そこにストローのようなヒューズを差し込み、上を折る。その部分に鉄パイプに入った火縄で着火し、ヒューズは派手に燃えていき、火薬を発火させる。砲弾の軌道は見えない。
    2-300ヤードの距離であると小銃のように砲弾は直進する。1200ヤードくらいが有効射程であるそうだが、その時はラダー式に照尺を上げて行く。火縄をそのままに着火させようとしても上手くいかない。火縄銃式に火縄の火先を少し何かで叩いて平にすると、うまく着火するが、必ず車輪の外から行う。実弾だと車輪は2m後退するからだ。練習弾だと50㎝くらい。だが、後退した砲を元の位置に皆で押して、戻して再度照準するのがなかなか大変だった。

    南軍兵士

    3、 小型野砲 これはMaryと書いてあり、奥さんの大砲だそうだ。架台160
    ㎝、車輪直径は105㎝、幅1m、砲身は109㎝、口径55㎜、外径100㎜、
    多分、接近戦闘で使用したのであろう。これも火縄式で着火する。200ヤード先の的に良く当たる。

    山砲

    3時間ほど、大砲を撃っていたら、砲隊は、まずチームワークである。
    と言うことは組織化された軍隊が必要だ。次には様ざまな計算が必要である。
    これには教育が必要だ。また絶えず、腔内を水で洗う。ブラシや、モップを使いと言うようなことで、大規模な運用が鍵だと感じた。
    今回も砲弾、火薬は大分あったが、おそらく一日の戦闘では100発分は必要だ。

    砲弾、火薬の数々

    これには馬や馬車を使用した兵站がなければならない。
    だから「大砲と馬」はセットと考えて良い。日本に大砲文明が発達しなかった要素の一つには馬の存在と言うことも挙げられよう。今回はクボタのトラクターが活躍していたが。
    私たちが研究したいからと言ってもなかなかこれだけはやってはくれない。
    米国インターナショナル前装銃協会に大感謝する。

    フリクションプライマーの残骸と改修された3インチ砲弾

    米国連盟長ゲーリー・クロフード氏夫人デビーさん個人所有の
    ナポレオン16ポンダー。これが大体オリジナルだろう。

    戊辰戦争で会津を攻撃した新政府軍は50門の大砲を備えていたそうだ。
    しかし、城の写真で観る砲弾跡から大型砲ではなくて、ほとんどが野砲、山砲
    せいぜい四斤砲であったと思われる。

    土佐藩のアームストロング砲。これは実物で完全品だ。結局架台と車輪が付くとこれだけ迫力のあるものだ。しかし良く観ると車幅がアメリカ南北戦争に使われたものに比べてやや狭い。日本の地理的な事情のためか。

     

    アメリカでは6頭、8頭の馬で、バッテリーとともに曳く。日本では人馬で曳いたり押したりしたのだろう。道路事情と言うやつだ。
    みての通り鋳造砲ではない。鋼鉄で製造されたもので輸入品であろう。

    この砲弾、廻りにイボがついてライフルに噛む方式は前記の砲に使用されたものよりもやや大きい。以上

     3 、アメリカ独立戦争時代の砲艦遺跡

    アメリカ独立戦争時代の砲艦遺跡


    発見された当時とほとんど同じ

    18世紀半ば、英国とその植民地であったアメリカは、植民地管理が原因で険悪な状況にあり、ボストン茶会事件を機に、それまで地域単位組織されてなかった軍隊が民兵を主にかなり大掛かりな軍備を行い、要塞の建設、民兵の組織化砲や小銃の製造などが行われた。最終的には海上では圧倒的な装備をほこる英国軍には勝利することはなかったが、ジョージ・ワシントンが率いる独立軍が1776年に独立宣言を勝ち取った。それから半世紀もしないうちに日本近海にロシア、英国などの外国船が活動しだし、幕府を脅かした。さらに独立国になったペルー提督と黒船が日本の歴史を変えた。下、人間の大きさと比較して。

    この砲艦は独立戦争でつかわれた平底で外海に出て行くものではないが、入り組んだ海岸線を防御するものとして造られ、4門の大砲を装備していた。「フィラデルフィア号」と言い英軍との戦闘で淡水のところに沈められ、1935年に発見された。第二次世界大戦後、復元と研究が行われた。現在はスミソニアンのアメリカン・ヒストリーミュージィアムに展示されているが、一部復元されただけでほぼ完全な姿を伝えている。砲艦であるので、帆は横にはる大小2本マスト。沿岸警備が目的であるが、日本には同じ時期、おそらく同じような考え方すらなかった武器兵器の例だ。

    9ポンド砲

    砲艦は長さ15m、幅5mくらいの平底で、艦首に一番大きな砲12ポンド砲が据え付けられている。全長およそ3m、底部直径50cm、前部25㎝、口径は12-3cmである。この砲は駐退するに架台が木製のレールを後部に滑る。左右には左右互い違いに全長2.2mほどの9ポンド砲、口径約9cmが2門。架台は各々4個の車輪で駐退摺る仕組みである。これら3門の砲は砲身の角度を変えるには砲身後部に木製の楔をいれた。

    舷側には口径は8ポンド強と大きいが全長は1mほどの接近戦闘に使う砲がひとつあり、これは舷側を移動して使用したが駐退機構は舷側のしなりしかない。葡萄弾、散弾などを詰め接近戦闘で使用するのが目的であったろう。
    架台に載った砲は、日本の大鉄砲などに比較すると砲として機能が異なり、鎖国をしていた日本にはこの程度の技術もなかったと考えられる。観察するにかなり実戦的で、砲弾を熱するために甲板上に煉瓦のかまどを設置して熱して赤くなった砲弾を敵の木造船に打ち込んだ。
    また、駐退機構からもかなり強力な砲であり、砲弾の直進性も2-300mはあっただろう。砲艦が航行中は平船で喫水が浅いので、砲口には木栓がしてあったそうだ。その時にはすでに火薬や砲弾は装填してあったのかもしれない。
    鉄の砲弾は完全な球体ではなく、多少凸凹している。また大きな砲弾は砲腔の途中でつかえるとやっかいなので、簡単なゲージも装備していた。

     

    砲の砲耳に注目して欲しい。砲には無くてはならないもので、これがない大鉄砲は砲には成りえなかった証左であろう。

     


    新しい建物に入り、とても見易くなった。

    この博物館には他にも興味深いものが多く存在し、例えば下の例は米国独立軍が英軍から鹵閣して野砲の砲身である。残念ながら架台や車輪はないが。
    赤み掛った合金製で全長約1m、口径は8cmほどの携帯に便利な小型砲。
    しかし砲耳の直径が口径と同じくらいの太さがあり、この程度の砲が19世紀になりしばらくして幕府が盛んに鋳造したものであろう。なお砲艦も含め以上の
    砲が炸裂弾を使用したかは不明であるが、学芸員のディビット・ミュラー氏と
    アポを取って行ったので、彼に聴きながら加筆する。

     

    なお砲艦[フィラデルフィア]号には30人くらいの兵士が載っていたと推定される。沈没したのは左の喫水線に英軍の20ポンド砲弾が命中して沈んだそうだ。

    以上

     2 、中世、大砲の定義と実力

    概要)12世紀ごろの欧州とイスラムの戦闘の中で生まれてきた大型投擲兵器と火薬、(火薬は投擲兵器の焙烙弾(焼夷弾)にも使用されたが)その結合が金属筒の中で火薬を燃焼させ、石や金属弾を飛ばし、城壁、建物、船舶、人員の殺傷に使われる「砲」として発達した。初期の砲は製造方法も、点火方法もまちまちであった。当然、能力的にも大きな差があった。

    1、砲の起源を定義

    砲の起源を定義するなら、砲は火薬を筒に詰め、その燃焼力ガスで石弾を飛ばすものに変化した。従って「砲とは金属筒の内部に火薬を装填し、その前に石弾を込めて発射する兵器」と定義されよう。
    これらは、欧州、ならびにイスラム勢力とその勢力圏内だけの兵器であり、大型投擲兵器の存在しなかった地域には砲も出現しなかった。日本においては大型投擲兵器、少なくとも長さ10m以上の柄をもったカタパルトなどはなかったので、このような砲も大規模に存在しなかったと言って良い。西欧、イスラム圏では小銃より大砲が先に出現し、大砲をだんだん小型化することで、小銃になった。(John Norris著Gunpowder Artilleryより)また初期の砲は装填の困難さを考えて、後装式が多くあった。これは欧州の開発だが、広くイスラム勢力圏でも使われた。イスラム人が欧州人を「フランク」とよぶことにより、「フランキ」とよばれ漢字では「仏狼機」と当てられた。
    砲は欧州ではバルカン半島、ニュールンベルグ地方で製造が進んだと言われている。これは戦闘がこの地域に多かったことによる。砲の難点は移動であったからだ。

    フランキ砲各種

    2、実用になる砲の条件

    ①筒の強度 完成しつつあった初期の黒色火薬の燃焼ガスに耐えられるもの。
    ②装填時間 装填までの時間 数時間という記録(武器学校資料)もあるが、20分間くらいで次弾が発射出来ないと実用的ではない。
    ③架台の確実性 現在残されているものは砲身だけが多いが架台がないと、砲弾がどこに飛んでいくか予測がつかない。
    ④砲身と架台の固定 砲耳など架台に砲身が固定されなければならない。
    ⑤反動の処理 駐退後座機能 発射した砲を架台が受け止め、それを効率的に元に戻す機能があること。
    ⑥照準と命中率 砲身を使い方向を定め、角度と発射薬量で弾丸の飛ぶ距離を
    計算する。
    ⑦装填と発射の安全性。特に船舶からの発射では事故は自爆を意味した。
    ⑧弾丸の強度 初期は石弾だったが、城壁などの破壊を目的とするために貴重な金属弾が使われた。
    これらの条件を満たしたもの、満たしてないもの、様々な方式のものが製造され、後装で子筒を楔で固定するもの、砲身が二つに分かれねじで結合するものなどが13-15世紀に存在した。後者は大型であったが、移動が困難で、発射弾数は1日間で1-2発とも言われた。前者は子筒を幾つか用意することで、発射準備時間を短くすることができたので、多量に製造された。しかしガスが有効に使えず、威力のあるものではなかった。砲身の支え柄を見ると分かる。
    15世紀ごろの鋳造した筒に丸い石を弾丸として発射する後装式砲は、少なくとも40kgくらいの石を200m離れた船舶、城壁、10m四方くらいに半分の確立で命中させる能力があり、数分で次弾が発射、最大射程距離は1000mくらいで、移動できたものではないか。石は発射の際に壊れやすいので、やがて金属弾に変わってきた。ダーンハルト博士の実験では800mの射程を得たという。

    ダーンハルト氏と中世の砲

    その推定の根拠はそれまで世界に広く使われていた、カタパルト、トレビシュットなどの兵器が数十kgの石や可燃物を300m飛ばす能力があり、東洋でも元の時代、南宋攻撃に使用された。イスラムにより内陸から伝達された。
    恐らく中国ではこの種の投擲兵器を相手の構造物や人馬を燃やす弾丸も発射したから、「炮」と言い、それ以後の筒状で火薬を使用して石などを発射するものを「砲」と言ったのではないか。(洞富雄氏談)
    欧州の博物館には火薬、筒を使用しない投擲兵器とその弾丸は良く見られるが日本でこれらが使用された痕跡はないのでは。日本の古文書に記述はあるのであろうか?日本では砲を「石火矢」と呼んだ。投擲兵器が燃える投擲物を多く使用したのに対して、相手を破壊しる個体、石を使用したから、そう呼んだので砲のことを指している。(有坂著「兵器考」には投擲兵器の中国への伝来、石を弾丸とする砲の伝来は詳しくある。)日本では大型投擲兵器を使用してなかったことが砲の発展の基礎がなかった軍事状況であると、Iで述べた。

    3、砲の製作方法

    砲は基本的には鋳造であった。鉄よりも砲金という青銅合金を使用した。溶解
    温度が低く扱い易く、材料も多く存在した。下の画像の例は鉄製鍛造である。
    短冊形の鉄板を並べて砲身を作り、輪を幾つかはめて強度を増やす。
    青銅は銅に錫を一割程度まぜ、固さを増した。ポルトガルが15世紀末、インド
    のゴアに工廠を作り交易品として砲を製造し、持ち歩いた。日本にきたフラン
    キ砲は宇田川先生の発表にもあった通り、その飾り模様がポルトガルのものと
    似ている。ただ、16世紀半ばの日本に砲は入ったことは事実だが、鉄砲の
    ように大規模生産運用は為されなかった。この理由の一つは堅ろうな城塞の有
    無と関係があったのではないか。
    ゴア工廠では1万門の砲、銃を製造することを目的に主にセルビア地方の職人
    を送り込み、インドに産する銅、錫、鉛などの金属材料を活用することで計画
    され、製造された砲は東に運ばれたが、マレーに北から降りてきたイスラム勢
    力との衝突は絶えずあった。

    ポルトガル軍需博物館蔵大型のカノン砲であった。

    ポルトガル軍事博物館

    4、フランキ砲

    フランキ砲の定義とは初期の後装砲であり、砲身後部の上が開いておりそこに
    子砲装填筒に火薬と砲弾が装填されたものを挿入し、楔で固定、発射する。し
    かし、砲口径と子砲の口径が同じに製作されたものはない。15世紀末から16
    世紀にかけて欧州を中心に製造、使用された。主に船舶砲であったと推定され
    る。特に東洋で盛んに使われたこともなく、性能上の問題からごく短期間の使
    用で、19世紀半ばまでは前装砲が使用された。子砲、装填筒の現存する実物は
    非常に少ない。

    子砲は挿入されて装備されているが、楔が欠落している。鉄製の砲。

    日本では大友宗麟が贈られた、購入したかは不明だが、10門ほどの同型の青銅

    砲があり、そのうちの1門が存在し(装填筒は欠落している)、現在まで書かれ
    た資料では威力がある、戦闘を変えた、とかなり肯定的に取られているが
    果たしてそのような実力があったのであろうか。
    挿入部に注目、子砲(装填筒)の先は、段差が付いて砲身におさまるような仕
    組みだが、またその先にはテーパーの付いた部分が数㎝あり、砲身に挿入さ
    れる。発射ガス漏れを少なくする工夫だが、見てのとおり砲腔径と装填筒の径
    には大きな差があり、発射された弾丸は砲身内を転がるように飛んでいき、正
    確な照準はできない。ちなみに、この際は係員の許可を得て、測定したが、口
    径50mm装填筒径25mmくらいであった。支柄が細いので対人用、もしくは下
    の画のように曲射的な使用をしたのであろう。

    「兵器考」に掲載されているフランキ砲。仰角とつけ発射しているが、命中率に問題があったのだろう。また威力も優れた兵器とは言えないものであった。

    装填筒の縁が実物と異なる。段差があり、さらにテーパーがかかってなければならない。
    この図をもってしても装填筒(子砲)の内径は砲の内径よりかなり小さくないと、発射に耐えられない。またガスのもれは何十%にものぼるだろう。

    宇田川武久著「鉄砲と戦国合戦」佐竹家の砲。装填筒の図、このような仕組みだとそうとう精密に製造してないとガスもれが起こる。

    同、毛利家の砲。子砲の図がないが長さ35cmくらいとしているので遊就館の
    大友家のものとほぼ同じ大きさ、尾部に鉄の棒が出ていてそれをもって操作した。宇田川先生の発表にあったが、保谷 徹教授が幕末、北方でロシアに鹵閣されたフランキ砲などの武器を見てきたことに関し、江戸期の武器兵器管理の
    仕組みから、旧式、中世の兵器を19世紀まで装備していたのだ。

    5、艦艇の発達と大砲の進化

    砲の進化、大型化は、15-6世紀、欧州の大航海時代の艦艇と大いに関係がある。1571年、レパント沖海戦。キプロスを攻略したトルコ軍とキリスト教徒軍との大規模な海戦のころには、西欧の大航海時代艦艇形状とその武装はまったく違ったものになっていた。艦艇はガレオン船と呼ばれ、船底の部分が厚く、長く、後部がもちあがり、1-2列の砲列を備えていた。これらの艦艇と砲の組み合わせがなければそれから何世紀か続く西欧の優位性はなかった。砲は4つの車輪をもった砲架に載せられ、主にロープを使用して後退駐座を行い、左右の砲列は互い違いに配置され、発射すると砲は艦艇内に後退し、再装填された。
    当然、日本人もこの種の艦艇のことは知っており、1613年に石巻で建造された
    伊達藩のガレオン船は太平洋を渡り、メキシコとの間を往復した。

    スペインのガレオン船
    当然、日本のガレオン船にも砲は搭載されていたであろう。

    北斎が18世紀に描いた砲架

    この種の砲架が艦艇には使用されたが、日本では鎖国令(1633)とともにガレオン船のように武装して遠洋航海ができる艦艇建造は禁止された。
    これも日本で砲が発達しなかった歴史上の大きな理由のひとつであろう。
    ガレオン船と砲架に搭載された砲、これらは近世の幕開けを象徴したひとつの現象であった。日本はこの軍事現象に完全に乗り遅れた。以上

     1 、大型投擲兵器と日本

    火薬を使わない投擲兵器とは木材や金属のしなりの反動、錘、巻き戻しなどの物理的な力で人間が投げることのできない大きな物体を投擲し、人員殺傷、城壁や門の破壊を目的とし、ローマ時代から使用されていた。固定架台、車輪付台に載せられていた。
    城壁戦が主流になる中世初期に発達し、何種類もの投擲兵器、投擲物体があり、
    欧州とイスラムの戦闘、イスラムがアジア、中国に持ち込んだ。
    (13世紀、元の南宋攻撃にイスラム人により使用されたとの記録がある。)
    岩石だけでなく、鉄籠に燃える素材を詰め込み、火を付けて飛ばす所謂「焙烙玉」も使用した。あるいは腐乱死体などを投げ込み疫病を流行させたとも言われるが、これは自軍側にも危険性が大きく疑問がある。

    大型投擲兵器の種類

    バリスタ

    バリスタ

    バリスタ

    石弓を大型化したもので、矢が丸太のような太いもので、主として、門などの破壊に使われた。3kgの矢を350m飛ばした。

    カタパルト

    カタパルト
    カタパルト

    現在、空母の航空機発進機に使われた名詞で、第一次大戦中、手榴弾の投擲にも使われた。原則的に材料のしなりの反動を使い、石を飛ばしたもので、柄を止める高さで距離を調節できた。4kgの石を350m飛ばした。

    トレビュシェット

    トレビュシェット

    トレビュシェット

    十字軍の最後の戦い9回目、13世紀や、欧州内の戦闘、14世紀にはこれらの大型兵器は攻城戦に威力を大いに発揮していたが、14世紀火薬が発明されると(ロジャー・ベーコン)、火薬で物体を飛ばし、構造物を破壊するために使用されるようになった。初期の砲は、砲身に砲弾、筒状を被せる方式だった。
    爾後、ボンバードとよばれ、銃口から着火させたり、フランキ(イスラム人が指すヨーロッパ人)後装式であったり、欧州だけでなくイスラムでも積極的に採用された。鉄砲式、前装も砲が出現するまでの一時期のものだった。

    その着火

    その着火

     

    初期の後装砲の例

    初期の後装砲の例

    ブリーチと呼ばれる部分に火薬と砲弾が入っており、エッジと呼ばれる楔で押さえた。この砲の架台に注目して欲しいがこのような細い柄では強い反動を受けとめることはできない。つまり威力のない兵器で、主に対人用に使用されたようだった。

    フランキ砲の子砲(鉄製)ポルトガル軍事博物館

    フランキ砲の子砲(鉄製)ポルトガル軍事博物館

    この頃の砲の弾丸は石で、中国にイスラムが伝えたとき「砲」と書いたそうだ。
    燃えるものを使った焙烙投擲兵器を「炮」と記したとする説もある。石は石で造られた城壁にはあまり効果がないので鉄製の弾丸が使われようになった。
    (洞富雄博士談)
    欧州では石の砲弾を飾りに町の中心や建物の入り口に置いてあるのを見るが、固い石である。砲腔に差し込まれる部分の形状に注意。横にエッジ(楔)を使う。
    この部分を正確に描いたのは有坂鉊蔵氏「兵器考」だけである。

    日本では使用されなかった大型投擲兵器

    以上が大体16世紀初頭まで、欧州やイスラム勢力、もしくはイスラムから伝来し中国で使われていただろう大型投擲兵器の例であるが、日本では「応仁の乱」(15世紀、京都を中心にした)でカタパルト投擲兵器が使われたと言われているが、その記録は見ていない。
    従って、この後、時代がさがり、出現したフランキ(仏狼機)砲とほぼ同時に伝来した小銃、鉄砲の製造や使用がまたたくうちに広まったのとは対照的であった。
    この背景は何であったのであろうか。
    大型投擲兵器は主に攻城戦に使用された。後装砲は船舶戦に使用された。
    「そのような戦闘体系が日本になかった」、と言うのはひとつの理由だ。また初期のフランキ砲のような閉鎖が不十分で威力のでない砲の役目は、人間が操作できる大口径鉄砲で果たすことができたのも理由の一つであろう。
    いずれにせよ、16世紀後半、日本は「鉄砲文明」、つまり鉄砲の開発、製造、運用、の規模が桁違いに大きくまたそれらを支える兵站思想も確立していたからだ。

    大友家のフランキ砲、

    大友家のフランキ砲

    あまりにも完成された鉄砲が砲の代わりをした。と言うのが日本の16世紀の現実であったと言うことは考えられる。
    また対象となる、平城、艦船(同時に砲の一番扱いづらい難点、移動をつかさどる)の活用が少なかったからだ。
    日本で一番、熱心に大砲活用を言ったのは徳川家康であると言われている。
    しかし彼の時代が終わると、戦闘もなくなった。(藤原彰著「軍事史」)

    戦国期から幕末まで使用された。欧州がアジアで製造したものと推定され、10門くらいあった。下部の架台への支柄を観察するに、威力の大きな砲ではない。
    (宇田川武久博士発表、北方領土で鹵閣された砲)

    国産鋳造砲の内部

    国産鋳造砲の内部

    砲腔が曲がっていて実用にはならなかったろう。これを鍛造(フォージド)とする説もあるが有坂鉊蔵氏、吉岡新一氏は鋳造としていた。
    いずれにせよ、現存する江戸期以前の日本の大砲は極めて少ない。これは日本には「大砲文明」が存在しなかったことを証明しているのではないか。
    以上。

    スケッチは「Artillery Through the Ages」1947年より。

    参考文献

    中島流炮術管關録 解説 所 荘吉 江戸科学業書 恒和出版 昭和57年
    大小御鉄炮張立製作・他 解説 所 荘吉 江戸科学業書 恒和出版 同上
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    青木 保著「兵器讀本」 日本評論社 昭和12年
    藤原 彰著「軍事史」東洋経済 昭和36年
    林 克彦著「日本軍事技術史」 青木書店 1957年
    安齋 實著 「砲術図説」 (社)日本ライフル射撃協会 昭和63年
    所 荘吉著 「火縄銃」 雄山閣出版 昭和39年
    吉岡 新一著 「古銃」 河出書房新社 昭和39年
    日本武道全集砲術 東京教育大学・日本古武道振興会 人物往来社昭和41年
    佐山二郎・竹内昭共著 「日本の大砲」 出版協同社 昭和61年
    佐山二郎著 「大砲入門」 光人社 2008年
    保谷 徹著 「戊辰戦争」 吉川弘文館 2007年
    小山弘健著 「世界軍事技術史」 芳賀書店 昭和47年
    久保田 正志緒「日本の軍事革命」錦正社 平成20年
    田島優・北村孝一訳 「武器」ダイヤグラムグループ編 マール社 1982年
    竹内喜・徳永陽子約「戦闘技術の歴史」 中世編・近世編 創元社 2010年
    Gunpowder by Jack Kelly Atlantic Books London
    Gunpowder Artillery 1600-1700 by John Norris The Crowood Press UK
    Artillery through the ages by Albert Manucy 1947(今津氏の訳本あり)
    Hatcher’s Notebook by Julian S. Hatcher
    Civil War Weapons by Graham Smith Chartwell Books, Inc.
    Cannons by Dean S. Thomas Thomas Publications
    Artillery and Ammunition of the Civil War by Warren Ripley Phomotion Press NY
    Munitions of War report to the Government of the United State by Charles B. Norton & W. J.Valentine

    協力
    陸上自衛隊武器学校
    防衛省防衛図書館
    足立 恒氏
    竹内 二郎氏
    伊達 新吾氏
    米国インターナショナル前装銃連盟